第50話 フィリポ その9
ヨハネの訃報を聞いてからフィリポは毎日をふわふわとした気持ちで過ごしていた。もともと生きることに対して現実感を持っていなかった彼だが、ますます磨きがかかり勉強にも力が入らない。
このままではいけない、と彼は勉強の合間に時間を取り外へと散歩に出かけることにした。
晴れ渡った空から降り注ぐ太陽の光が眩しい。日よけにきちんと布を纏ってきたらよかった、とフィリポが後悔し始めた時、行き倒れの男を見つけた。
「あの・・・・・・・、大丈夫ですか?」
フィリポは男に近づき声をかける。
「・・・・・腹が、」
「え?」
掠れた声を聞き取るために耳を近づける。
「・・・・・・腹が減って、動けない・・・」
「・・・・・・・・・・へ? え? は?」
動けない、と言っている割にフィリポの僧衣を力強く掴んでいる男にどうしていいかわからなくなった。仕方がないから彼は何か食料を持ってくるから、と一度僧院へ引き返したのだった。
フィリポが持ってきたパンや果物をあっという間に腹の中へ入れたその男はどこか物足りなさそうな顔をして彼を見る。フィリポは困った顔をして食料を持ってきたカゴを見せる。この食料自体腐りかけ廃棄されそうになっていたものの中から厳選して持ってきたものだ。食料は全て管理されてしまっているのでフィリポの一存で差し出せる食料には限りがあった。
「・・・・・・それが今、俺に出せる食料のすべてなんだ」
「そっか。そうだよね・・・。ごめんね、ありがとう」
「いえ・・・、あの、どうしたんですか、こんな所で」
「修行をしていたんだけれど、食べ物がなくて、行き倒れていたんだ・・・」
男は困ったように眉尻を下げた。
「・・・・・・それは、大変でしたね」
「うん、無理して40日も断食なんかするんじゃなかった・・・」
断食は修行者にはよくあることだが、それでも40日は多い。どう反応していいか困っていたフィリポに男の言葉が飛んだ。
「それより、君、その足どうしたの?」
「ああ、これは昔、怪我をして・・・。それから、動かなくなったんだ」
「そうなんだ・・・・。でも、その服は・・・」
「ああ」
彼の言いたいことがわかり苦笑する。まさか祭司見習いに足が動かない、“罪人”がいるとは思わないのだろう。
「祭司長をかばって怪我をしたんだ。・・・・・・・・だから、彼らは俺を追い出すわけにはいかない」
「そう・・・」
自嘲の笑みを浮かべるフィリポに男は同情の色を顔に浮かべた。
「・・・・・・でも、もしかするともうそろそろ出ていかなければならなくなるかもしれない」
「え?」
「・・・・・昇級試験に通らないんだ。今年も駄目だったら、追い出されるかもしれない」
「そんな・・・」
他人事だというのに、男はひどく痛ましそうな顔をした。
「・・・・・・・・その杖は?」
男はフィリポの持っていた杖を指差す。
「ああ、これはヨハネという男が考えてくれたんだ」
「ヨハネ・・・。もしかして、ヨルダン川のほうで洗礼をしていた?」
「そうらしいね。俺はそこの所は分からないけれど」
彼もヨハネのことを知っているのか。以前は側に居た彼の名前がこんなにも大きくなっていることにフィリポは少なからず驚いていた。
「私はその方に洗礼を授けていただいたんだ」
「・・・・・・・そうなんだ」
言われて、不思議な目で見返す。元同級生が洗礼をして、その洗礼を受けた人間が目の前にいる。
それが何故だかひどく奇妙に感じた。
「けれど、その杖は・・・、彼が作ったにしては新しくないかな?」
「よく壊れるから・・・。そのたびに俺のパートナーがつくり直してくれるんだ」
つるりと磨かれた杖を撫でながらフィリポは答えた。
「そうなんだ・・・。それは、よかったね」
にこりと彼が微笑む。他意のない笑顔をナタナエル以外から向けられるのは久しぶりでフィリポはこそばゆく思いつつも、微妙な心情を抑えきれなかった。
「うん。すごく助かっている。・・・・・・あちらからしたら、俺みたいなのがパートナーなのは迷惑だろうけれど」
「そうなのかい?」
ぽつり、と吐露した内情に男が不思議そうな顔をした。
「彼は、将来祭司長になりたいらしいんだ。その為に、すごい速さで昇級していっている。・・・・その彼のパートナーが俺みたいな“罪人”じゃあ、示しが付かない・・・。だから、動かない足を少しでもまともに見せようと、作ってくれているんだと思う」
「・・・・そうなのかい?」
どこか不思議そうに男は俺を見る。
まっすぐな瞳に見つめられることが何故か居心地が悪くてフィリポは俯いた。
「・・・・・その杖を見る限り、そうは思わないけれど」
「え?」
「木のすいばりが刺さらないようにしっかり磨いてあるし、何より頑丈に作られている」
「・・・・・・彼は、凝り性だから」
彼の言葉にムキになってフィリポ言い返す。自分でも何故こんなに突っかかるのか分からなかった。
彼はますます捨てられた犬のような悲しい目をした。
「・・・君は、寂しいね」
「・・・・・・・え?」
「その足は君にたくさんの苦難を与えただろうね。・・・・けれど、本当にそれだけかい?」
男のすんだ瞳が居心地が悪い。
足がこうなってから、いい事なんてひとつもなかった。
皆に荷物として扱われるし、昇級は出来ない。
街へ出ればつばを吐かれることもある。
「・・・・・・・あなたが言っている事の意味がわからない。この足は俺に苦しみしか与えてくれなかった」
「そうかい?」
その瞳に苛立ちが沸き起こる。
「何をするにも誰かの手を借りなければならない。誰も手を貸してくれず、迷惑そうな顔をされる時だってある。俺だって、自分で出来ることなら自分でやりたいのに!」
「・・・・・やっぱり、君は見えてない」
その男はまるで捨てられた犬のような情けない瞳でフィリポを見返してくる。
「・・・・・何が」
「君はとても恵まれていると言うことが」
「・・・・・・・」
その言葉はフィリポにはまったくぴんとくるものではなかった。
フィリポは半ば睨み付けるように彼を見る。
男は思案げに、フィリポの左足に手を置いた。
「な、なに」
とっさに彼を押しのけるために手を伸ばすが、それよりも先に足が動いて男から引き離した。
その出来事に、俺は息を呑んだ。恐る恐る左足を動かす。長年使っていなかった足は震えながらも意図した方向に移動した。
「・・・・・・・・・・すごい」
驚いて彼と足を交互に見返す。けれど男はフィリポ以上に驚いている様子だった。
「・・・・・・・・なんで」
「え?」
男は瞳をそらすとそそくさと立ち上がり踵を返す。まるで一刻も早くその場から離れたいように見えた。
「食事をありがとう。私はそろそろ行くよ」
「え、あの、お礼をさせてください!」
「いや、いいよ」
そっけなく返すとさらに歩いて行く。
「それでは、せめて名前を教えてください」
「ナザレのイエス」
その名前を口の中でつぶやいていると、彼は今度こそ別れの挨拶を言ってその場を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます