第49話 フィリポ その8

「・・・・・・・・まじかよ」


 伸ばしていた手を引っ込め、ナタナエルはその場にうずくまる。フィリポはヨハネが出ていった塀を見つめ、ぽつりとつぶやいた。


「・・・・・ねぇ、本当にヨハネは死ぬのかな」


 フィリポの言葉にナタナエルは彼を睨みつける。


「わかるわけないだろう? 大体、言っている事全部ウソかもしれないじゃねぇか!」


 彼が動揺しているのがわかる。感情の揺れ幅が激しい彼ではあるが、こんな全てのものを拒絶するような顔は初めて見た。

 フィリポは空を見つめたまま心情を吐露する。


「それでも、自分の疑問と向き合って、行動をした。それはとてもすごいことだと思う」


 は、とナタナエルが息を飲む音が聞こえる。少しの沈黙の後にナタナエルは立ち上がった。


「・・・・・知るかよ、そんなの」

「え?」


 ナタナエルの声がとても小さかった為に、フィリポは聞き返す。けれど、彼は口の中でぼそぼそと呟くだけだった。


「・・・・・・・・・俺は、ここで祭司長になるんだ。何が怖いって・・・・・」

「・・・・・ナタナエル?」

「くそっ・・・・、ヨハネのバカが」


 言うなり踵を返して歩き去る。一瞬見えた彼の横顔は、どこか怯えているようにも思えた。逃げるように庭から渡り廊下へと戻る。それから先フィリポの言葉には一切答えず部屋へ向かったものだから、彼は必死に杖を動かして彼の後ろをついて行かなければならなかった。








 ヨハネの予言が当たっていたのではないか、とフィリポが思い始めたのはそれから数年後、皮肉にも彼の死んだという噂を聞いた時だった。


「本当に、アンティパス王に囚われて首をはねられたらしい」


 今では祭司見習いの中でも最上級のクラスになり、一人部屋を与えられたナタナエルがわざわざフィリポの部屋を訪れ、開口一番にそう言った。


「・・・・・・本当に」


 朝から叩き起こされたフィリポはナタナエルの言葉にショックを受け固まった。

 ナタナエルが続ける。


「あいつはヨルダン川近辺で洗礼を始め、それが功をなして何百という人があいつの所を訪れたんだとさ」

「そして、アンティパス王にその影響力を恐れられて首をはねられた・・・?」

「いや、あいつは自分からアンティパス王の所へ行ったらしい。彼の政治に対する不満を持って」


 

「・・・・・・どうしてそんな、死ぬと分かっていて・・・」


フィリポは信じられないという気持ちで呟いた。


「・・・もう、逃げていられる期間は終わったんだろ。文字通りに」

「・・・・・・・・そう」


フィリポは自分の足を見る。もしもこの足がもう少しだけでも自由に使えれば、きっとあの時ヨハネを追いかけていただろう。

フィリポも、神に疑問を持っていたから。きっと、ヨハネからしたら私怨にしか見えないだろうが。


「・・・・・・・フィリポは・・・、」

「え?」


ナタナエルはフィリポになにかを言いたそうに口を開けたが二度三度パクパクと口を動かした後、引き結び別の話題をふった。


「いや、なんでもない。それより、ちゃんと試験の準備はしているか?」


フィリポの顔がますます暗くなる。


「うん・・・」

「次こそ受かればいいな」

「・・・・うん」


年に一度ある昇級試験に落ち続けていると、この僧院を追い出される。これまでずっと中級から高等への試験に失敗しているフィリポにとっては、次が最後のチャンスかもしれなかった。


「フィリポは頭がいいのに、なんで受からないんだろうなぁ」


ナタナエルは不思議そうな顔をして天井を仰ぐ。実際に入学当時はフィリポの成績は常に上位にあった。


「なんでだろうね・・・。前回も自己採点ではほぼ満点だったのに」

「・・・・・・・・まさか、上の方であえて落としているとかはねぇだろうなぁ」

「そんなまさか・・・」


ナタナエルが気まずそうに言う仮説に曖昧に笑うが、フィリポ自身それを疑ったことがある。


「まぁ、まさかだよなぁ・・・・」

「ありがとう。・・・・ナタナエルは、面倒見がいいんだねぇ」


いつものぼんやりとした作り笑いを浮かべてフィリポは言った。ナタナエルは視線を宙に泳がす。


「・・・・まぁな」

「俺、そろそろ着替えるから、」


ベッドのそばに置いておいた着替えを手に取りナタナエルに帰るように促す。


「手伝おうか?」

「いいよ。もうそんな子供でもないし。いざとなったら、イサクもいるし、」


足が動かなくなった最初の頃は着替えを彼に手伝ってもらったこともあった。ナタナエルは本気とも冗談ともつかないような声音で尋ねてきた。

固辞すると彼に外に出てもらうよう促す。

イサクはナタナエルに変わってフィリポと同室になった子だった。フィリポよりも五歳も年下の彼はナタナエルが来てからずっと部屋の隅っこで居心地悪そうにベッドに座って二人の会話を眺めていた。

不満そうに彼に視線をよこすと、ナタナエルはそれでもあっさりと外に出る。


「・・・・じゃあ、イサク、こいつが転びそうになったら助けてやってくれよ」

「は、はい!もちろん」


イサクにそれだけ頼むと扉を閉め、出て行く。足音が遠ざかっていった。

正直な所、もう今のフィリポは昇級なんてどうでもよいと思っていた。ただ、惰性で生きつづけている、それだけだった。どれだけ頑張っても報われることなく、何年もたった。その間に下級生にすら追い越されて、今では彼よりも5歳も年下の子と同じ部屋となっている。

これがフィリポの今の位置だ。

フィリポはよろよろと服を着替える。この数年の間に彼の足はすっかり萎えて棒切れのように細くなっていた。

ナタナエルの前ではいい子にしているイサクは他の人間同様にフィリポに対しては冷たい。彼が倒れても手は貸さないだろう。

けれどもう、そういったことにも慣れてしまっていた。邪険に扱われるのも、蔑まれるのも。

ナタナエルも、もう配置替えを望めるんだから、さっさとそうすればいいのに。フィリポはため息をつき布を体にまとっていく。

着替えが終わり立ち上がろうとする。上手くバランスが取れなくて倒れこんでしまった。


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