第48話 フィリポ その7
帰りついたフィリポを見た祭司長はどこかがっかりとしたような顔をして、それでもよく帰ってきたと言った。彼に取ってはいい厄介払いが出来たところだったんだろうな、と内心思いながらも心配をかけたことを詫びる。
これでまた、蔑まれる日々が続いてしまうのか。フィリポも彼と同様に、心の底では落胆していた。
そのまま何事も無く日々が過ぎていき、俺の怪我が治りかけたある日の晩だった。なぜか眠ることが出来なくて、窓の外に見える月がきれいで、フィリポはもっと近くで見たくなった。起き上がり、杖を手に取るとベッドから起き上がる。
「おい」
「え?」
ナタナエルが起きたようで声をかけてきた。一度寝てしまうと中々起きない彼にしては珍しい。
「どうしたんだよ、こんな時間に・・・」
「眠れないから、散歩に行こうと思って・・・」
「・・・・・・俺も行く」
ナタナエルも起き上がり上着を羽織る。
「え? ナタナエルも眠れないの?」
「・・・・・まぁな」
何かを言いたそうに彼は口を開いたが、結局出てきた言葉は短い肯定だった。フィリポはいつもの作り笑顔で頷く。
「うん、じゃあ一緒に散歩しよう」
夜の学院は静まっていて、昼に見るものとは全く違う表情にドキドキしながら二人は見晴らしの良い庭へと歩を進める。庭は壁に囲まれており、その外には荒野が広がっている。その壁の端に、人影がうごめいているのを見つけてしまった。
「・・・・・・・・ん?」
「あ、あれ・・・」
不審者は塀に足をかけ、乗り越えようとしている。
「おい、お前!」
脱走を企てているのだろうか、それとも泥棒だろうかとナタナエルが声をかける。
しかし、二人共そこにいた人物に目を丸くしたのだった。
「・・・・・・・・・ヨハネ」
普段着ている制服ではなく、質素で所々擦り切れているような服に身を包んだ彼はナタナエルの声に気まずそうに振り返った。途中まで登っていた塀から降り、二人の方を向く。
「・・・・・やぁ、ナタナエルにフィリポ。二人でこんな所でこんな時間に何しているんだい?」
やっていたことの割には飄々とした声だった。
「散歩。お前こそ何してるんだよ」
「・・・・・・・・脱走」
「君が!? なんで・・・」
ぽそりとつぶやいたヨハネの声にフィリポはつい大きな声を出してしまい、すぐに自分の口を塞いだ。
ヨハネはフィリポを真っ直ぐ見る。
「・・・・・・神に、疑問を感じているから」
「・・・・・・・どういうことだ」
ナタナエルが這うような声を出す。
「おかしいと思わないか? この世で最も救いを求めているはずの病人や貧しい人々が虐げられて、司祭や支配者ばかりが富んでいる。何故、神はそんな世界を許している?」
フィリポは以前、エルサレムの市街で彼と偶然出会った時のことを思い出した。それ以来彼はこういった事は言わなかったものだからすっかり忘れていたが、疑念は彼の中で消えておらず、それどころか育っていたらしい。
「何言ってるんだ? ・・・・罰当たりな」
ナタナエルが眉をひそめる。ヨハネは当たり前のように頷いた。
「うん、そうだね。俺は罰当たりだ。だから、ここにはいられない。・・・・・居たくもない」
「はっ!? んだと、おい」
ナタナエルがヨハネに掴みかかる。ヨハネは押されて壁に体を押し付けられていた。
「ごめんね、祭司長になりたい君の前でこんな事を言うべきじゃなかったとは思っている。でも、やっぱり俺はエルサレムで見た病人たちが忘れられないんだ。一番助けを求めているのは彼らだろうに、手を差し伸べない神を信じることが出来ない」
「そりゃ・・・・・、だって・・・・、彼らは、ざいに・・・っ」
ナタナエルは咄嗟に口を真一文字に引き結んだ。最後まで言わなかったが、その後続く言葉はその場に居た二人には予想がついた。彼は俯きヨハネから手を離す。すっかり項垂れ、主人の機嫌を伺う犬のようにフィリポを横目で伺った。
身を引いたナタナエルの代わりにフィリポが一歩前に出た。
「・・・・・ねぇ、出ていってどうするの?」
フィリポの声は穏やかだった。
「しばらく、街を見て歩く。会ってみたい人もいるし。それが終わったら、・・・・・俺に出来ることをする」
「・・・・・・・・俺に出来ること?」
「うん」
詳しくを言うつもりはないらしい。ヨハネはフィリポを見ながら気まずそうな笑顔を作った。彼の明るい髪に月の光が跳ね返りキラキラと光る。
「・・・・・・羨ましいな」
つい口から出てしまった。ヨハネはぎゅ、と唇を引き結ぶ。
「・・・・・・・なんでだい?」
「君は望めばそんなことも出来てしまうんだなぁって」
フィリポの心の底からの言葉だった。けれど言われたヨハネはというと、じ、とフィリポの瞳を見つめた後、息を吐きながら月を見つめ重苦しい声を返した。
「・・・・・・・・俺からしたら、君たちのほうが羨ましい。君たちは、この先も長く生きることが出来る。それも、救世主の隣で、だ」
ヨハネにつられて月を見る。煌々と照らす満月は旅立ちに都合がいいと捉えるべきか、脱出をするのには不向きだと考えるべきか。ヨハネは視線を二人に戻した。
「・・・・・・・俺は、後数年で死ぬよ」
ヨハネの告白に二人は驚きで息を呑む。
「俺は今からすることで、アンティパス王に囚われて殺される。首をはねられるんだ」
何も言えずにいるとヨハネが続けた。
「なんでそんな事・・・」
「実はね、俺には未来が見えるんだ」
震えるフィリポの声に答えたヨハネの言葉に二人は眉をひそめた。
けれど、冗談だと笑って終われない何かがあった。フィリポは今までの彼に感じていた違和感を思い出す。
視ていればよかった、といういつかの言葉を思い出す。
「松葉杖だって、未来を見てその存在を知った。他にも、未来を見て知ったものはたくさんある。その中の一つが、救世主の存在だ」
「・・・・・・・・・・・」
「救世主はもう少しで現れるよ。君たちの前にも。そして、フィリポ。君の足は救世主によって治される。君は歩けるようになるんだ」
ヨハネはフィリポの足元に視線を送る。
「・・・・・・・・そうなの」
そうは言われても実感がわかない。フィリポはぼんやりとした言葉しか返せなかった。
「その方は、神によって遣わされた方だ。救世主として名乗りをあげた後、様々な奇蹟を起こされる。そうして、何千年先までその名前を轟かされる」
「・・・・・そんな方が、本当に出現されるのか」
「うん。俺にはそれを見ることが出来ないけれど」
諦めた笑顔を浮かべるヨハネにフィリポの胸は締め付けられる。
「ねぇ、ヨハネ。死ぬってどういう事? どうして君が死ななきゃいけないの?」
「それが運命だからさ」
こんな時まで泰然とした彼に悲しくなる。フィリポはヨハネの前に立つと縋るように見つめた。
「さっぱりわからないよ。どうして? どうして、それなのに、君はそんな冷静でいられるの?」
「・・・・・もう、悩める期間は終わったんだよ」
低い声からは彼の覚悟が感じられる。初めて出会った時には声変わりもしていないような子供だったのに、とフィリポは頭の隅で思った。こんな声が出せるようになったのだ、と。
「俺は十分に逃げた。本当は、出て行くのが怖いよ。死にたくない。・・・・それでも、俺は出ていって人が救われるためにしなければならないことがあるんだ」
小柄なフィリポはヨハネよりも頭一つ分小さい。至近距離で見上げてやっと彼の瞳が見えた。彼は前髪を長く伸ばしているためこうでもしなければ目を見ることが出来ない。
薄灰色の瞳は、真摯にまっすぐフィリポを見つめていた。
「・・・・・そう」
これ以上何を言っても無駄だ。悟るとフィリポは彼にもらった松葉杖を動かして一歩後ろに下がった。今度は再びナタナエルが割り込んでくる。
「ちょっと待てよ!」
ナタナエルはヨハネの肩を掴む。
「だからって・・・もう出ていくのかよ!?」
「・・・・もう?」
まるで知っていたように言うパートナーにフィリポは眉を潜めた。けれどそんなフィリポには目もくれず二人は会話を続けた。ヨハネは先程までの穏やかだが力強い雰囲気を消し、攻撃的にナタナエルに答える。
「君は、いつまで目を瞑っているつもりなんだい? もう気付いているはずだろう? ナタナエル」
「・・・・・・・・っ」
ぼそり、とヨハネが呟き、ナタナエルがひるむ。苦しそうな、泣きそうな顔をしていた。
「ただ、君はそれを認めるのが怖いだけなんだ」
ヨハネの刺すような視線に、ナタナエルの手が離れた。何のことだろう、と頭をかしげるが、ヨハネの一瞬の行動に問うことが出来なかった。
ナタナエルの手が離れたと同時に、ヨハネは再び堀を登り、てっぺんへと移動していた。
「お、おい!」
無駄だと知りつつもナタナエルが手を伸ばす。
「じゃあね、二人共」
ひらひらと手を振ると塀を越えていく。着地し、走り出す音が聞こえる。あっという間の出来事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます