第34話 「ペテロ」 その3

「あー、教典覚えなくちゃなぁ」

「今思い出したのかよ」

「いや、考えないようにしていた」

「教典?」


 バルヨナの愚痴にイエスは首を傾げる。


「ヨハネ様の考え方を記した本だ。あれを明日までに覚えてテストを受けなくちゃいけないんだ」

「この教団もそう言うことをしているんだ」

「この教団も?」

「ああ、私はいろんな所を放浪したんだが、その途中に祭司院にも行ったんだ」


 祭司院とは祭司を育てるための学院のことである。

 祭司は祭司の子供しかなれず、その子供は学院に入れられ厳重に育てられるのだ。そうしてエルサレムなどで祭事をする祭司が誕生する。


「そこは厳しい戒律があって、昇級の為の試験もあって、大変そうだったなぁ」

「そうなんですか」


 どこもこうなのか。そう思うと勉強が嫌で逃げ出して来た自分が子供っぽく思えた。

 しばらく雑談をしていると何とも微妙な顔をしたシモン達が帰って来た。


「お帰り。どうだった? 洗礼は」


 帰ってきた彼らにバルヨナが尋ねる。


「うーん・・・。なんともすぐに終わったなぁ」

「野菜にでもなった気分です。体を水につけられて上から水をかけられてそれで終わりでした」

「本当にあんな流れ作業で洗礼になるのか?」


 まるでかつがれたような顔をして彼らはもどって来た。

 その最後尾で沈痛な面持ちをしてユダが立っている。彼とヤコブは髪が濡れていない。きっと洗礼をしてもらわなかったのだろう。


「・・・ユダ、何か思うところでもあるのかい」


 ユダの悲しそうにも見える顔を見てイエスが尋ねる。


「あ、いえ、その・・・。・・・・イエス様はこの洗礼をどう思いますか?」

「どう、とは?」

「私はあの方が洗礼を始めた最初の方は知っています。けれどずっとあの方を見ていたわけではない。実際には私は彼に洗礼も授けて貰ってない。・・・・あの方に洗礼を授けていただいた貴方はこれを見てどう思いますか?」


 イエスはゆっくりと周囲を見渡した。もう夕方近くになり多くの人々は帰路につこうとしている。


「・・・・・病人が、いないね」

「!」


 ユダは弾かれたようにイエスを見る。


「それに、全体的に中流階級程の人達が多い。たまたまかもしれないが」

「・・・・・そうですね」


 ユダはふたたび川のほうを見る。どこか泣き出しそうにも見えた。


「どうしたんだ?」

「貴方はあの洗礼に何も思う?」

「水をかけている」

「・・・・・」


 そりゃそうだ。

 さすがのユダもバルヨナに白い目を向けた。


「何だ、ユダ。一体何がそんなに不満なんだい?」

「不満・・・。そうですね、不満なのかもしれない。ヨハネ様は貧乏な人でも誰でも洗礼を受けられるようにと、この川で洗礼を始められた。それなのに、今のやり方ではそうした人々がないがしろにされているように思えてならない」


 そうしてユダはそれ以上何も言わずに黙り込んでしまった。

 ああ、そうか。アンデレも先程から感じていた違和感の正体がわかったような気がして1人頷いた。

 これはあの方の洗礼ではない。ただの模倣だ。それも金儲けを目的とした悪質な模倣。

 それからアンデレたちは口数少なく教団に戻った。

 そして、食事に招待し、食べ終わった時にはすっかり暗くなっていた。


「よかったら泊まっていかないか? もう安息日に入ったし、ちょっとのんびりして行けよ」

「そうだな。今下手に帰って野盗にでも襲われたら 一大事だ」

「・・・・ああ、ならそうさせてもらおう」


 全員の了承を得る事ができた所で、アンデレたちも上に許可を取り彼らの為の客間を用意したのだった。









「すみません、すみません、ここにイエスと言う方はいらっしゃいますか?」


 次の日の朝早く、1人の女が教団の門を叩いた。少し迷惑そうに弟子の1人が門を開け、イエスの元に案内する。


「貴方はカペナウムで病気の子供を治したと聞きました。お願いします! どうか私の子どもをお救い下さい」

「一体どうしたんだ?」

「私の子供が崖から落ちて重傷なんです。今日が安息日だということは分かっていますが、どうかお願いいたします」


 女はイエスの足元に倒れ伏した。彼女の服の裾には泥がついている。きっと藁にもすがる思いで一晩中ここを目指して走って来たのだろう。

 イエスは彼女の肩に優しく手をかけるとすぐに身支度を始めた。





「・・・・・・どうしたんですか?」


 身支度をしている彼を見て、ユダが寝室から出てきて問う。

 他の人達はぐっすりと眠っているらしく、部屋の中は暗かった。


「子供が重傷で、そのお母さんが助けて欲し言って来ているんだ」

「重傷の子供・・・・?」


 アンデレの言葉にユダは眠い目をこすりながら、俺達の隣に居た女に目を移す。


「はい・・・。昨日の夜、薬草を取りに山へ出かけたら・・・」

「昨日の夜?」

「・・・・・・・・・!」


 女は慌てて口に手を当てた。

 しかし、失言は取り消せない。今日は土曜の朝で、安息日は金曜の日没から土曜の日没までの期間であり、その間に働いてはいけない筈だった。子供は自ら禁を犯したのだ。


「・・・・・・・・・・どういう事だ?」

「・・・・・・、申し訳ありません! 私が悪いのです! 昨晩、私が熱が出てしまったのに、薬を切らしていて・・・。それを見かねた子供が・・・・」


 女は地に頭を擦り付け懇願する。彼女の様子から嘘ではないことが伺い知れる。イエスとユダ、そしてアンデレ達兄弟は急いで彼女の家に行ったのだった。

 彼女の住んでいる街は昨日イエス達が泊まっていた所で、朝早く出掛けたというのに着いたのは太陽が中空に差し掛かる頃だった。

 女に連れられて入った部屋は血の匂いが充満しており、その子供は助からないのは明白だった。


「お願いします。子供をお救い下さい」


 女が涙ながらに言う。

 けれど、俺の頭の中では既にどうやって弔おうかを考えていた。

 しかし。


「・・・イエス?」


 イエスが子供の傷を撫でる。

 すると、撫でられた場所から次第にその傷が癒えていった。

 俺は目の前の光景が信じられなくて何度も瞬きをする。イエスはそうして子供の全身の傷を癒すと大きくため息をついた。


「これであとはこの子の気力次第だ。・・・・・ああ、疲れた」

「ありがとうございます! ありがとうございます・・・」


 女はイエスの手に頭をつけ、涙を流している。隣では子どもがまるで何事もなかったかのようにすうすうと穏やかな寝息を立てている。


「・・・驚いた」


 バルヨナがぽつりとつぶやいた。


「あんた、一体どんな魔法を使ったんだ?」

「さあ」

「さあ?」

「なぜ出来るかは分からない。ただ、急にできるようになった。子供の頃には全く出来なかったのに・・・。・・・そんなことより、」


 イエスは腹を押さえた。


「お腹空いた。何か食べるものはないだろうか」

「は?」


 いきなりの言葉に目を丸くする。先ほどまで神々しい覇気を醸し出していたのに、今の彼はまるで子供のように顔をしかめ周囲に食べられる物はないかと顔をキョロキョロと動かしている。


「またですか、イエス様」


 苦笑してユダが言う。どうやらこれが初めてではないらしい。


「うん、だってあんなに沢山の傷を治したんだ。すごくお腹が空いたよ」

「そうですね・・・、今日が安息日でなければ街にいくんだが・・・。申し訳ありませんが、何か食べ物をいただけませんか? こうなるとこの方は動くことも出来なくなるんです」

「え、ええ。そのくらいお安いご用です」


 女は微笑んでパンと果物を持って来た。しかし彼の胃袋はそれだけでは満足せずにさらにさらにと要求し、結局最後には家にあった食料をすべて食べてしまったのだった。


「ありがとうございました」


 にこにこと満足げにイエスが言う。対する女は呆気に取られた顔をしていた。ユダも後ろで顔を青くして頭を抱えていた。一応、弁償はしようかと聞いていたが、子供を助けてもらったということもあり、女は笑顔で断っていた。


「さ、帰ってヨハネ様のお墓参りにでも行くとするか」


 イエスはそう言い、踵を返す。アンデレたちもそれに習う。背後で女は何度も頭を下げていた。









「おかえりなさい。どこに行っていたんですか?」


 教団に戻るとシモンが涙目で外で待っていた。他にタダイとマタイがいたが、ヤコブはまだ眠っているらしい。


「子どもが瀕死だったから行って治してきた」


 アンデレが答える。シモンは目を丸くした。


「え!? それは大変でしたね。・・・・・・今度は、どのくらい食べられたのですか?」

「彼の体の半分くらい。彼女の家の全部の食料だ」

「へぇ、少ないな。それだけですんだのか?」


 当たり前のように対応している一行にアンデレは嘆息した。


「・・・少ないのか」

「前に僕を癒してくださった時には彼の体の2倍は食べてましたもんね」


 あれだけ食べていてまだまだなのか。イエスが言葉を続ける。


「うん、まだまだ足りないんだ・・・。ここで食事もらえないかな?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・」


 通常、安息日の食事は作りおきのパンである。

 しかし、数が限られており、一人一つしか食べてはいけない為、彼に食べさせるとなると誰かのぶんがなくなる。仕方が無いのでアンデレは事情を説明し、食料を分けてもらおうとイオアン、イアコフ兄弟の元を尋ねることにしたのだった。


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