ペテロ
第32話 「ペテロ」 その1
ヨハネが亡くなってから、その志を受けつごうとイアコフとイオアンによる組織が作られた。
彼らがまず最初に行なった事はヨハネの考え方を整理し、書物におこす事だった。
彼の人気はなにも洗礼から来るものだけではない。今まで律法そのものを守ることに躍起になっていたユダヤ社会に律法とは何かを説いた。
律法さえ守っていれば天国に行けると考えていた人々に疑問を投げかけた。
その結果、以前のアンデレ達のように安息日すら働いて厳しい税の取り立てに当てなければならなかったような貧乏人を中心に人気が出たのだった。
やたらと美辞麗句の並べられた文章を見てアンデレは頭を抱える。 イオアン達の命令により、この数百ページを明後日までに覚えて試験を受けなければならないのだった。
「あ~もう無理! 無理!! これ以上なにも入らねえ。 」
ついに隣で勉強をしていたバルヨナが音を上げた。机に突っ伏し、嫌そうに紙の束を放り投げる。続けてアンデレも椅子に体を預けてため息をついた。
「俺もだ。 最早安息日が何だったのかすら思い出せねえ」
「はは。 安息日っつったら酒が半額で買える日のことだろう」
違う。
間違った知識を誇らしげに披露する兄に冷たい視線を送る。
少しの間現実逃避としてぼうっと天井を眺めていた。イオアンとイアコフは金がある。ヨハネが生きていた時は質素をよしとする主義の彼にならって同様に野宿をしていたが、彼が亡くなってからは実家の金を頼りに大きめの家を買い、そこに信者を引き入れて生活を始め、表向きはヨハネのための教団としながらも、彼らを頂点とする組織が出来上がった。
ぼうっと天井を見ていても始まらないので必死に目の前にある文書の理解をしようアンデレはふたたび教本を手に取った。
「うるせぇな。そこの新参二人!」
音の響く集会所ではヒソヒソとした声でも遠くまで聞こえてしまう。現在二人は信者であれば全員が利用できる集会所の隅を陣取って勉強をしていた。
古参の男が二人を振り返る。
「いいからさっさと覚えろよ。もうテストは明後日なんだから」
「・・・あんたみたいな、昔からいた奴ですら覚えてないんか?」
「うるさいな。そもそもあの人の考えは難解なんだよ」
そうだっただろうか。アンデレは眉をひそめる。
「ったく。つまんねぇことブツブツ考えてねぇで黙って勉強しろ」
「そうは言っても・・・。初めて見る文句ばかりで難しいんだ」
兄が文句を言う。彼の勉強嫌いを差し引いても同じことを思っていたのでアンデレも黙って聞いていた。
「まぁ・・・。俺も読んでいてたまにこれちがうんじゃねぇかとは思うが・・・。でも、これが経典なんだろ!?」
「・・・・・・・・・・・・それはそうなんだが」
怒鳴るように返す男にアンデレは困った顔をして弱々しく返した。
「ああっもうっ 。やめだやめだ!」
「ちょ、兄さん!」
勢いよく兄は立ち上がり外へ出ていく。先輩は彼らを見て呆れたようにため息を付いた。
バルヨナの後ろをついて行ったら、彼は木陰で昼寝を始めてしまった。
「兄さん・・・」
流石にこれはどうかと思いアンデレも抗議の声をあげる。
さく、という軽やかな足音と共に背後から声がした。
「まったく、何やってるですか」
背後からの声に振り返るとイアコフとイオアンがお付きの者を従えて立っていた。
二人は呆れた様子で俺たちを見ている。
「お前たち、教典は憶えたですか? 第52条を言ってみるです」
憶えてない。知らない。そんなに進んでない。そもそも52個もあったのか。アンデレは気まずくて顔をそらした。彼らの様子を見て2人は憮然とした表情を浮かべる。
「しっかり憶えるです。じゃなかったら、ここから追い出すです」
そう言うなり彼らは取り巻きを引き連れて部屋へ戻る。その後姿を見ながらバルヨナは頬を膨らませた。
「これ以上何も頭に入らねえよ」
言いながら起き上がる。不満を顔いっぱいに浮かべ体についた土を払った。勢い良く起き上がると弟の腕をつかむ。
「よし、アンデレ行くぞ!」
「はあ? 行くってどこに?」
「街。布教しに行ってみようぜ」
得意そうな顔でバルヨナが言う。
「・・・布教って」
昔から兄はいきなり変な事を言い出す。アンデレはまた厄介事を引き起こさねばいいと憂慮しながら後ろに続いた。
「俺には今の詰め込み学習がどうしても意味があるようには思えない。・・・別に、勉強が嫌になったとかそんなんじゃねえぞ? ただ、あの方はいつだって常に民衆の側にいた。だから俺も直接あの方の教えを伝えたいんだ」
「・・・・なるほど」
兄の言葉に納得する。
彼の強引な行動は今に始まったことじゃない。
むしろ今回は比較的まともだった。とは言え放っておくのも心配だ。アンデレもついて行くことにした。
「よし、じゃあさっそく布教をはじめるぞ! そんなわけでそこのお前!」
市場へつくと、いきなりバルヨナはたまたま道を歩いていた通行人を指差した。
「な、なんですか」
律儀にも立ち止まり怯えたように返す通行人。成人し、そろそろ結婚して妻がいてもおかしくないという風貌をしていた。
バルヨナはつかつかとその男に近づき肩を押さえる。
「お前には今悩みがあるな!」
「・・・・は?」
ぽかん、と男が惚けて目の前の奇人を見る。アンデレも思わず頭を抱えそうになった。
バルヨナはそんなことは一切気にせず話を続ける。
「お前の悩み事を話せ!何でも聞いてやろう!さあ話せ今話せすぐ話せ!」
「・・・・・えっと」
通行人は不審者を見る目でバルヨナを見ている。
確かにヨハネ様はお悩み相談みたいなこともしていたんだけれども。アンデレは思わず頭を抱えてしまった。
「あ、それじゃあ、俺今金がなくて・・・」
「大丈夫だ!そんなん俺だってない!」
「・・・・」
通行人の目が完全に冷たいものになる。あいつは本当に一体何を考えているんだろう。
「俺ちょっと用事があったんだよなぁ」
目を逸らしながら男はそう言い踵を返し早足で歩き出した。彼の後ろ姿を見ながらバルヨナは首をかしげる。
「なんか違うなあ」
そりゃそうだ。心の中でそう思いながらもアンデレは黙ってバルヨナの行動を観察していた。
「よし、今度はあの人にしよう! お~いそこのあなた!」
ふたたび犠牲者を見つけてバルヨナは駆け出す。
ん? あれ?
アンデレはバルヨナが走り寄った先にいた人物に首をかしげた。どこかで見たことがある。
無理矢理に話しかけられた少年は亜麻色の髪に大きな栗色の瞳を持ち、気弱そうな雰囲気を纏っていた。
「おい、おまえ今何か困っている事はないか!?」
またそんな聞き方を・・・・。アンデレは再び頭を抱えた。
少年は驚いた様子でバルヨナを見返した。
「困っていること・・・ですか?」
「ああ、なんでも聞いてやるぞ」
「あの、困っている事というか、悩んでいることなんですけど」
さっきからよくこんな怪しい男に付き合ってあげているなぁ、と、アンデレは我が兄の事ながら思う。
少年は更に続けた。
「人間関係の悩みなんですが・・・。僕たちは数ヶ月前から一緒に旅をしていて」
「ふむふむ」
少年の深刻な表情にバルヨナも真剣な顔を作る。
「最近新しく2人同行することになったんですが、新しく入った1人と、前々からいる1人がすごく仲が悪いんです」
「なるほど、確かにチームの中にそんなのがいるとやりにくいな」
「それもあるんですが、その、二人は兄弟で弟のほうが仲違いの末に飛び出してきてて、まだそのしこりが取れていないようで、よく喧嘩しては僕に当たり散らされて、それがすっごく怖いんです」
目を潤ませて少年は言う。バルヨナはひとしきり頷いたあと、知った顔で言う。
「それはただ単に弟が素直になれないだけだ!」
やたらと自信満々に答えるものだからアンデレは渋面を作ってしまった。
「・・・・・そうなんでしょうか」
少年の方も訝しげな顔をする。
「ああ。間違いない。兄のことを嫌いな弟なんているもんか! なあアンデレ!」
「・・・・・・」
いやそこは人によるだろう。あと俺に同意を求めるな。
そう返そうと思ったが、思わぬ所からの声で叶わなかった。
「やっぱり君もそう思うかい!?」
バルヨナに劣らずの元気な声に少年がぎくりとした顔をして声のした方向へ目線をやる。
「ああ、げんに俺だってそこのアンデレの兄だが常に尊敬の眼差しを感じているぞ」
どうやら俺の兄は現実と妄想の区別がついていないようだ、とアンデレは遠い目をする。いつ自分がそんな目で兄を見たと言うのだろう。
「そうか・・・。あの子も昔は素直で可愛らしくて『お兄ちゃん大好き!』って言いながらいつも私の後をついて回るようないい子だったのになぁ」
「誰の話だそれは」
げっそりとした声が更に増えてそちらの方角を見る。嫌そうな顔をしている彼はきっと先程まで話題に出されていた弟の方だろう。目元の辺りに面影がある。
「オイコラゴルァ! シモン!! いなくなったからさがしてやってたら、何こんな所で油売ってやがる!」
ドスのきいた声でそう言う彼は外見もあいまって一層怖く見えた。少年が嘆くのも頷ける。確かにこんなのに怒鳴られ続けられたら鬱にもなろう。
「あ、あの、すみませ・・・」
シモンと呼ばれた少年が顔を青くして俯く。
「おいおい、ヤコブ。年下の子をいじめちゃいけないだろう」
「うっせぇ!ほら、シモン、いくぞ」
ヤコブと呼ばれた弟は言って踵を返す。彼の後ろを焦ったように少年がついて行った。
兄の方が肩をすくめる。
「あれが照れ隠しかな」
「ああ、そうに違いない」
いや、あれは本当に嫌がっている風だったぞ。口には出さないツッコミがアンデレの中に蓄積していく。バルヨナもよくもこう堂々と答えられるものである。
「あの子とはしばらく離れていたからね、距離の取り方がよくわからないんだ」
その言葉に意外な思いがする。てっきりまた変なのが現れたなどと思っていたのだったが、まともな人だったらしい。少なくともどこぞの馬鹿よりはその心は理解できる。
「私の名前はマタイ。君たちは何と言うんだい?」
言いながらマタイが手を出してくる。バルヨナはその手を取り握りながら応えた。
「俺はバルヨナだ。こっちは俺の弟でアンデレ」
「2人は一体何をしているんだい? 見ていたらいきなりシモン君に悩み相談をふっかけていたようだけれど」
「ああ、俺たちはヨハネ様の教団のものなんだけどな」
「え、君たちが?」
マタイは心底意外そうに目を丸めた。
「・・・・・全然思っていたのとは違うな」
「多分それはこいつだけだと思うけどな」
マタイの言葉にアンデレは兄を見ながら答える。
「まあいいや。私たちは君たち教団のものに用事があって来たんだ。探す手間が省けたな」
「俺たちに?」
「ああ、同行者がどうしてもヨハネの弔いをしたいと言うんだ」
先程旅をしていたという一団のことだろう。アンデレは頷いた。
「なるほど、そういうことなら大歓迎だ」
「助かる。じゃあ、連れがいるから・・・、そうだ、せっかくだから、今日は一緒に食事をしていかないかい? もう遅いし、明日連れて行ってくれると助かるんだが」
友達を誘うような気安さでマタイは言う。そういえば街で食事をするのは久しぶりだった。
「いいな」
二つ返事で返すと兄弟はマタイの後ろについていく。
彼らは街の中の安宿に滞在していた。先程のシモンと弟ももどっていたようでマタイの他に五人ほど人がいた。
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