第31話 「マタイ」 その8

「・・・・・・・・そんなに露悪的に言うものじゃない」


 ひどく、静かな声だった。

 けれどとても悲しそうな声だ。

 深い、深い海のような雄大で、包みこむような不思議な音色。声のした方を見ると、みすぼらしい男が立っていた。着の身着のままといった風情のやせ細った男が、私たちに向かって歩いてきている。

 男は、レビとヤコブの前で立ち止まった。

 そして、シモンを見る。


「あの者は、伝染病に掛かっているから処刑されるのか?」

「・・・・・・・・え、あ、ああ」


 その男は何も言わずにシモンの方へと近づいていく。

 本来なら兵士に止められてもおかしくないはずなのに、誰も彼に近づくことが出来なかった。けして覇気など感じない、惨めな風情すら感じる男なのに、恐ろしく思う。

 男はシモンに近づくと、その額に手をおいた。

 それから、鼻、唇、首へと手を移動させる。男の一挙一動にその場にいた全員が釘付けになっていた。

 男はシモンの胸で手を止めると、目を瞑る。シモンの目が見開いたかと思うと、次第に安らかなものになっていった。同時に、彼の体を覆っていた斑点が消えていく。


「・・・・これで、もう大丈夫だ」


 民衆の声がどよめきとなって辺りを包む。私たちも目を見開いて二人を見つめていた。

 シモンが不思議そうな顔をして男を見る。


「・・・・・さっきまで、あんなに苦しかったのに・・・」

「あなたの病は去った。さあ、これでこの者を処刑する必要はなくなった」


 兵士が恐る恐るシモンから手を離す。皆、信じられないような顔でその男を見た。

 しばしの沈黙を破ったのは、首長だった。


「頼む、私の家に来てくれ!  どうか、どうか・・・・助けてくれ」


 首長がその場に駆け寄り、男の手を取る。男は静かな眼差しで彼を見返した。


「おい・・・・、ちょっと待て。・・・・お前、さっき病気の子供なんていないって言っていたよな? どうしてそいつに家に来てもらいたいんだ?」


 ここぞとばかりにヤコブが攻撃をしかける。首長は息を飲みその手を握り締め、俯いた。


「・・・・・それは・・・・」


 彼が呻く。彼の立場上、さきほどまで死刑にされそうだった子供を救ったくらいでその男を家に呼ぶことはまず考えられないし、下手に誘えばヤコブの言っていたことを認めることになる。

 けれど、


「・・・・・・・・では、食事にでも招かれるとしよう」


 そう、首長に告げた男を周りの者は驚いた瞳で見つめる。嘘を付いていることが明白となってきたこの男のもとに、彼は行くというのだろうか。

 それは民衆も思っていたようで、歓声が次第にブーイングへと変わる。


「なんでそんな奴の所に行くんだ! そいつは・・・・」


 噛み付くヤコブに一瞥を返し、首長につれられて刑場を出ていこうとする。彼の目に圧倒されたようで、ヤコブは黙ってしまった。

 それはその場にいた全員が同じだった。


「あの、あなたの名前は!?」


 かろうじて、ユダが叫ぶ。男は振り返らず静かに告げた。


「イエス。・・・・・・ナザレのイエスだ」


 ああ。

 この人が。

 ユダは目をつむりヨハネを思い出す。

 彼の最後の言葉で探すことを決意したその男が目の前にいる。

 胸が熱くなった。







「あいつがイエスっていうのはわかったが・・・、なんであんな奴の所に行くんだよ・・・」


 不満そうにヤコブは首長の家の門を見る。

 あの後ユダたちはシモンを取り戻し、イエスを待つために首長の家の門前へと向かい、今こうして待っているのだった。


「・・・・・・・・・ヤコブ」


 背後から声がする。振り返ると沈痛な面持ちでレビが立っていた。ぎくり、とヤコブが体を震わす。


「・・・・・・・レビ」

「・・・先程の男を待っているのか?」

「・・・・・・まぁ」

「私も待たせてもらおう」


 言うとレビはヤコブの隣に腰掛ける。彼はすっかり平静を取り戻しているようで、黙り込んだままぼうっと首長の家の方を眺めていた。話しかけてはいけないような雰囲気を感じる。

 ヤコブは彼の姿を視界に入れないようにそっぽを向く。先に口を開いたのはレビのほうだった。


「・・・・・・・・・ヤコブ、」

「・・・・・・・・なんだ」

「・・・・・・・さっきは、悪かった」

「・・・・・・・・・・・・・・っ」


 レビの謝罪にヤコブがどこか傷ついたような顔をして兄を見る。


「・・・・・・・・・・別に」

「やっぱり、戻ってくる気はないか?」

「・・・・・・・・・・・ない」

「・・・・・・・・・・・・・・そうか」


 レビはため息をつく。

 昨日の夜あんなことを言ったのは首長の手前ということで、シモンのことが発覚する前に騒いでいた、今後は一緒に暮らそうというのは本気だったのだろうか。ユダもタダイも黙って二人を見ていた。


「・・・・・なぁ、レビ」

「・・・・・・・・・ん」


 ヤコブは再び視線をそらす。


「・・・・・・俺が、負担だったのか」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 レビは何も言わずにまっすぐ正面を向く。すっかり日が落ち、薄暗い中に首長の石造りの家がある。立派な屋敷だ。

 門が、きぃ、と動く。

 ユダが門の方に目を向けると、イエスが立っていた。


「イエス」


 ユダは兄弟から意識をそちらに向け彼に歩み寄る。

 イエスは不思議そうにユダを見た。


「・・・・・・あなた達は?」

「・・・・私たちは、あなたを探して旅をしてきました」

「私を? ・・・・何故」


 心底不思議そうに首を傾げる。


「・・・・・・・あなたを、救世主だとヨハネ様が言っていたから」


 ユダの言葉にイエスは目を見開く。


「・・・・救世主・・? 私が?」

「・・・・・・あの」


 目の前の男はユダが理想に思い描いていた人間とはあまりにも違った。どうしていいのかユダもわからず言葉を濁す。


「おい」


 ユダたちの話はヤコブの言葉に遮られた。イエスは今度はヤコブのほうに視線を向ける。


「どうしてあいつの家に行ったんだ!? ・・・・、あいつは、自分のガキの為に、シモンを殺そうとしたんじゃねぇか」

「・・・・・・・ああ。あの子供か」


 言ってイエスは自分の手を見る。

 多分、彼はあの子も治療したのだろう。


「あいつは・・・、あんな、取税人なんかの為に、どうしてっ!?」


 叫ぶようにヤコブは言う。

 イエスは悲しそうにヤコブを見た。少しの間黙ってヤコブを見つめ、ため息をつく。


「・・・・どうやら君は、あの人、というよりも取税人という職業の人が嫌いなようだね」


 その言葉に目に見えてレビが息を飲む。ヤコブは図星だったようで、憎々しげにそっぽを向いた。


「・・・・・・・・・・・・本当に嫌なら武器を持って立ち向かえばいい。それが君の考え方だろうね。・・・・それは確かにそうだろう。けれどね、大切な人を守るとき、武器を持って戦うだけが最善の策ではないだろう?」


 ユダたちは、目を見開いて彼を凝視した。

 イエスは首長の家を仰ぎ見る。


「・・・・・彼らは、守っていただけだよ。自分の大切なものを、人を。・・・・・たとえその結果、他人から恨まれることになっても」


 イエスの言葉に熱心党の人間は四人共何も言えずに彼を見つめていた。皆呆気にとられる。熱心党の考え方とはあまりにも違っていた。

 ふらり、とイエスの側に人が近づき、その手を取る。

 レビだ。

 肩が震え、俯き嗚咽を漏らしていた。


「ありがとう・・・、ございます・・・。ありがとう・・・」


 レビは彼にすがりついてひたすら感謝の言葉をつぶやいていた。ただただ「ありがとう」を呟く彼を見ているとユダは胸が潰れる心地がした。目の前で起こっていることがあまりにも遠い。芝居でも見ているようだ。

 ユダはヤコブを見る。レビの背中を睨みつけているヤコブは何を思っているのだろうか。この二人にはまだ何かあるような気がする。けれど、ユダは他人の隠している部分を無理やり暴くことを良しと思わない人間だった為にあえて聞くことはしなかった。

 それからしばらくの間、誰も動くことが出来ずレビの後ろ姿を眺めていたのだった。





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