第19話 「アンデレ」 その5
男は、洗礼だけを受けるとすぐにその場を後にした。 そそくさと立ち去る後ろ姿を見ていても、どうしても素晴らしい人間とは思えず頭をかしげる。
男は歩きながら断食明けでぐったりと倒れ伏せているバルヨナを見て足を止めた。
一言二言、何かを話し始めた。
何を話しているのか気になり、アンデレはそちらのほうへと向かう。
「・・・・何をしているのですか?」
「断食だ」
「・・・何のために?」
「修行の1つだ。こうしていると悟れるかもしれない」
よどみなく答える兄に頭を抱えそうになる。そんな曖昧な根拠で断食をしていたのか。
「そんな、死にそうになっていても、ですか?」
言って、イエスはバルヨナの額に手を当てる。
バルヨナは、その手を最初うざったそうに見ていたが、触れられた途端に目を大きくしてイエスを見た。
「・・・なんだこれは」
兄の言葉には答えず、彼は立ち上がり歩き出した。
彼がだいぶ離れてから、そちらの方を見続けるバルヨナに歩み寄る。
「どうしたんだ?」
「不思議だ・・・。さっき、あの男が俺の額に手をやった途端、あんな苦しかった空腹感がすっかりなくなった」
「は?」
再び男の後ろ姿を見る。
しかし、彼はもう大分離れていて輪郭がぼんやり見えるのみだった。
それから数日は平和そのものだった。
ヨハネの教えを理解し、兄弟子たちのと対話を通じて考えを深める。兄と共に勉強をし、粗食を食べる。そんな日々が続いた後、街へと出かけたヨハネが苦々しそうな顔をして戻ってきた。
「また、市民の税が増えるそうだね」
顔を川の水で洗い、たまたまそばにいたアンデレにそう言う。
「その上、男は兵士として招集がかけられるそうだ」
「そうなの、ですか」
「今度はアラビアとの戦争だ。それも、原因はアンティパス王の浮気だそうだ」
「・・・・・うわ」
アンティパス王は俺達のいるガリラヤの領主である。ローマ風のものを好み、自分の住んでいるティベリアスの街を全てローマ風のものへと変えてしまった。その為、建築費用やら何やらで税金は跳ね上がり、ユダヤの民衆からは疎まれている。
ヨハネは舌打ちをし、拳を地面に叩きつけた。
「こういう時、何とも言えず悔しくなる。どんなに私が道を示して穢れを取り除いて一般民衆の為に力を尽くしても、結局は王の一言で彼らの生活も、命でさえも左右される。その王があんなにも自分の見栄や欲のために動き、民に苦難を与える。・・・・・・結局、私は何だったんだろう」
「・・・・・・・・・・・・・ヨハネ様」
「視えていた事とはいえ、やっぱりこうして目の前に突きつけられると堪えるな・・・・」
ぐ、とヨハネは地面を爪で抉り、何かに耐えているように唇を噛み締めた。手が震えている。その時、アンデレは彼が怒りで手を震わせているのだと思っていた。
日中彼は黙って何かを考えていた。相変わらず川の岸辺に腰掛けた彼は夕方には顔が青ざめており、震えていたが、次の日になってやっと立ち上がった。
「アンティパス王のもとに行ってくる」
そう言ったヨハネを弟子たちは誰もが引き止めた。
当たり前だ。
そんなことをしたらすぐに逮捕され、命の保証はない。
ただでさえヨハネはその人気の高さから、彼こそがユダヤの民をローマの支配から救ってくれる救世主ではないのかという声が上がっているのだ。ローマからガリラヤの支配を任されているアンティパスのほうは捕らえる機会を狙っていることだろう。
「本当に行かれるのですか?」
高弟達が散々止めた後だろうと思ったが、その日の夜にアンデレはバルヨナと共にヨハネのもとへ訪れた。
漆黒の夜の中、月が煌々と輝き星々の光を遮っている。その月明かりの下、ヨハネ様は微笑んだ。
「行ってくるよ。・・・・・・・・・多分、私はここで死ぬだろうけれど」
「・・・・・・・・・!?」
アンデレも、バルヨナも息を飲み、ヨハネの顔をまじまじと見つめた。堅い彼の表情から決意を感じる。
「・・・・そんな、なんとかならないのか?」
バルヨナはヨハネに近付き、両手を掴む。
「死ぬと分かっているのなら、どうしてあえてアンティパスの所になんか行くんだ!? そうして抗議をするよりも、ここに残って洗礼を続けていたほうが、長い目で見たらいいんじゃないのか?」
兄の言葉に目を見開いたのは弟だけだった。
こんな時だというのに、バルヨナがまともなことを言ったということに驚いた。ヨハネは苦笑する。
「残念なことにね、ここにいてもその内私は捕らえられるよ。アンティパスからしたら、民衆の支持を集めている私は煙たいだろうからね」
「なら、その時まで生きていたらいい」
「・・・・・バルヨナ」
ふいに、ヨハネは真面目な顔になった。
「このままここに残って捕らえられるより、アンティパス王に直訴して彼の考え方に一石を投じてから死ぬ方が、私にとって価値があるように思う。・・・・・・・私だって死ぬのは怖い。けれど、それともう一つ、相反する感情がここに渦巻いている」
言うと、自分の胸を押さえる。
「怒りだ。私はね、悔しくて悲しくて仕方がないんだ。彼の無謀のせいで沢山の人々が苦境に立たされる。それを止める事は出来なくても、それでも爪痕を残したい」
「では、・・・・あなたがいなくなった後、俺達信者はどうすればいいんだ。あなたを信じてここまで来たのに、あなたがいなくなったら」
彼の言葉に違和感を感じ、ヨハネに送っていた視線をバルヨナに向ける。
ここまで来た、というのはどこからのことなのだろう。 ヨハネは一瞬だけアンデレを見て、それから続けた。
「君は、うまく立ちまわって、漁師をやめて私に会いに来てくれたね」
「・・・・・・・・・・・・」
言われたバルヨナが固まる。 弟の方を見ようともせずに、俯いた。
その姿から、ふと考えた。
ここにいるのは何故だろう、と。
兄が光るラクダを探しに行きたい、と言っていた。
税が払えなくなって、兄が勝手に交換した馬に乗って・・・・・。
そもそも何故税が払えなくなった?
兄が、金を浮浪者に渡してしまったからだ。
そこまで考えて、再び正面を見る。
ヨハネが立っていた。
彼は常にラクダの皮衣を纏っている。それは、月の光を毛皮に跳ね返し、鈍く光っているようにも見えた。
「・・・・・・・・・光る、ラクダ・・・」
アンデレはバルヨナに再び向き直す。相変わらず彼は俺を見ないまま、ヨハネを凝視していた。
ヨハネは薄く微笑む。
「きっと、君が求めている人間は私じゃない。その人は、別にいる」
「・・・・・・・・」
バルヨナが唇をかみしめ、手を離した。
「君には特に、よく見ておいて欲しい。これからどうなるのか。そして、最良の道を考えて欲しい。・・・・・・・君には出来ると、信じている」
ヨハネはそう言い、アンデレの方を見た。
「アンデレも、しっかりと見て、彼についていってあげて欲しい。この無軌道な男についていけるのは、君だけだろうから」
「・・・・・・・・は」
そう言い、彼は悲しそうに笑った。
月光が、彼の輪郭を照らす。
暗い中で毛皮の薄い茶色がやけに際立っているように思った。
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