第17話 「アンデレ」 その3

 次の日、朝起きたらすでにヨハネの洗礼を受けるべく人がぽつぽつと並んでいた。アンデレ達もその洗礼を受けるべくここにいるのだということを思うとその列に並ぶべきなのだろうが、ヨハネの姿があまりにも昨晩と違っていて二人はその場に立ち尽くした。

 昨日の彼はというと、気安げな雰囲気をまとっており、話しかけるのに何のためらいもいらないような、そんな男だったのだ。それなのに、今日の彼はどうだ。

 洗礼を受ける人々の話を真摯に聞き、それぞれに悔い改めを促し、荘厳な物腰で洗礼を授けていた。よく笑い、おだやかに声を出す彼はそこにはいない。昨日の彼が幻だったような気すらして、俺は彼の様子をじっと見つめていた。


「・・・・あれ? ヨハネはどこにいったんだ?」

「あそこだ」


 言って、ヨハネのほうを指を指す。ぱちぱち、と兄は目を瞬かせる。


「・・・・・双子、とかじゃないよな」


 俺が思ったことはバルヨナも思っていたらしく、目を見開いてその様子を見つめていた。そして、何を思ったか急に立ち上がり、ヨハネのほうへと歩いていった。


「俺も洗礼をしてくれ!」


 言いながらばしゃばしゃと川の中へ入っていく。水がかかり洗礼を受けていた男が迷惑そうにバルヨナを見た。けれど、その男が抗議をするよりも先にヨハネが口を開く。


「下がれ。他にも私の順番を待っている人々がいる。洗礼を受けたければその後ろに並べ」


 強い口調に驚いたのはバルヨナだけではない。すっかりおとなしくなったバルヨナだったが、すぐに気を取り直し兄弟で最後尾にならんだ。

 先ほどの言葉でますます違和感が募る。事実悪いのはバルヨナだったが、アンデレも彼に対する甘えがあったのは否めない。だから、バルヨナの無謀を止めなかった。

 後ろに並んで順番を待つ。それからすぐに兄弟の番は巡ってきた。先ほどの事もあり、気まずく思いながらもバルヨナに先に行かせる。


「さぁ、君の番だね」

「ああ。俺にもあんたの洗礼とやらを授けてくれ」


 バルヨナの不躾な物言いにヨハネは苦笑するだけで、先ほどのような調子の返答をしなかった。

 ここへ、とヨハネはバルヨナを自分の正面へと誘い、目をつむるように言った。腰まで水に漬け、頭から水をかける。

 たった、それだけだった。

 それだけだったのに、バルヨナは熱い瞳でヨハネを見つめている。


「・・・・ありがとう、ございました」


 深々と頭を下げるとバルヨナは弟の方を振り返る。今度はアンデレの番なのだろう。


「君の方は、何か思い悩むことでもあるようだね」


 ヨハネはアンデレの姿を見てそう言う。そんなことは昨日から一言も言っていないはずなのに、何故わかったのだろう。彼は昨日から不思議なことが多い。


「・・・・安息日に、働きました」


 するり、とその言葉が出てくる。


「安息日に、漁をしました。このままでは、税金が払えなくなると思って・・・」

「なるほど」

「だから・・・、船を出して、漁を・・・」

「それは、そんなに悪いことなのかな」

「え?」


 人に洗礼を施しているくらいなのだから、安息日を破ることがいけない、ということはしっかりとわかっているだろう。三歳の子供でもわかっていることなのだ。それなのに、返された反応が意外すぎてアンデレは思わず息を吐く。


「安息日に働いてはいけない、と多くの祭司や律法学者は言う。けれど、そもそも安息日は何のためにあるのだろう?」

「・・・・・は?」


 さらなる問いかけに彼は言葉を失った。

 律を遵守することに気を取られていて、それがどうして、何のために存在するのかを考えたことはなかった。


「・・・・・、それは、神様がお休みになられたから・・・」


 アンデレは喉につかえながらも答えた。


「では何故、神がお休みになられたからと言って、その創造物である私達も休まなければならないんだい?」

「それは・・・、私達も父である神様と同様に休んだほうが・・・」

「なるほど。じゃあ、どうして神はお休みになられたんだろう?」


 ヨハネは淀みなく問いかける。アンデレは自分のほうが間違っているような気持ちになった。


「世界を創造して、疲れ、休息を必要とされたから・・・・」

「そうだね。それじゃあ、安息日とは疲れている人のためにあるものではないのかい?」


 答えることができなくて、ヨハネの顔をじ、と見つめる。長い前髪に隠された顔からは表情を読みとることができなかった。


「安息日に働いてはいけない。これは聖書でも語られていることだね。でも、その日に働かなければ君は船を失うところだった」

「・・・・はい」

「そうした労働にまで枷をする律法は果たして必要だろうか?」

「・・・・・・・・・・・」


 彼にとって律法は必要か、そうでないかで語られることなどなかった。ただ、そこにあるから守る。守らなければ、神の恩恵を受けることができなくなるから、だから守る。そういうものだった。

 それなのに、それは必要か、と問われる。

 神の恩恵を最も信じているはずの洗礼者に。

 頭が混乱してきた。


「必要、ではなく、守らなければいけないものだと思う。・・・・律に必要かどうかは関係ない」


 素直に答えると洗礼者は首を傾げる。


「そうかい? それでは、君は安息日にやむを得ない事情で働かなければならなかった人間は、地獄へ落ちてもいいと、そう言いたいんだね?」

「え」


 それは極論ではないだろうか。

 けれど、ふとアンデレは自分たちを咎めた司祭の顔を思い出した。彼ならどう答えるだろう。


「・・・・・・・そうは、言っていない」


 アンデレは視線をそらす。


「この近くに住んでいる貧乏な人は、エルサレムに行って洗礼を受けるお金もない。時間もない。そんな人たちがやむを得ない事情で安息日に労働をして、洗礼で罪を清めることができないまま死んでしまったら、地獄に堕ちるのかい?」

「・・・・・・・・それは」

「律を守るのは大切だ。しかし、律は人が健やかに生きる為にあるものだろう。そして君はその為に行動した。何を悔やむ必要があるんだい?」

「・・・・・・・・」


 すとん、と彼の言葉が心へ落ちてきた。

 彼の顔をまじまじと見ていると、頭から水がかかる。ぴり、と背筋が正されたような気がした。今まで教会でされていた説教とは比べものにならないような、粛々とした気持ちになる。頭で考えるよりも先にアンデレの口から言葉が出ていた。


「俺を、あなたの弟子にしてください」

「・・・・・・・・」


 今度はヨハネが黙った。

 それから、にこり、と微笑む。どこか安心したような表情にも思えた。


「ああ、いいよ。私はずっと君たちを待っていた。よく来てくれたね、アンデレにバルヨナ」


 洗礼を終えて岸に戻ると、バルヨナが近づいてきて、あいつの弟子になりたい、と言うものだから、俺はもうすでに弟子にしてもらった、と答えるとバルヨナは頬を膨らませた。


「なんだ、お前に言わずに決めるのは悪いと思って我慢しておいたのに」

「・・・・悪かった。まぁ、結果的にはお互い弟子になるんだから、いいじゃないか」

「そうだな! で、弟子って何をするんだ?」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」




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