第16話 「アンデレ」 その2

 初夏の夜の砂漠は少し肌寒かった。あのままバルヨナに連れられて村を飛び出し、行く当てもなく走り続けて砂漠へとたどり着いた。ここがどこかもわからなかったが、しばらく休みたい気分だった。

 さすがに逃げてしまったらまずかったのではないか、という保守の思いと、あのままあそこにいても税が払えず船を取られて野垂れ死にになるくらいなら、という自棄の両極端の気持ちがあった。最初は保守の気持ちが強かったが、砂漠から空一面に広がる星空を眺めていたら次第にどうでもよくなってきた。

 どうせ馬鹿兄貴のせいで立つ瀬などなくなったのだ。このままでは、明日ローマの手先である取税人に頭を下げて剣で脅され船を取りあげられ、漁師を続けていられなくなって都市へ出稼ぎに行くという未来は目に見えている。そうでなくても律法を破ったことで村に居辛くなった。ならば、こうして出奔してもいいのではないかと思えるようになったのだ。


「さ、明日からラクダ探しの旅が始まるぞ」


 うれしそうにそう言うバルヨナから水を受け取り口に含んだ。冷たい水が火照った体を冷やす。全ては彼のせいだというのに、不思議と恨む気持ちにはなれなかった。幼少の頃から振り回され続けてきた慣れというのだろうか、どこか諦めにも似た気持ちでバルヨナを見る。


「それで、どこに行ったらいるんだ? その光るラクダとやらは」

「あー、一応聞いたんだが・・・。どこだったかな。ガリラヤ湖のほとりだったかな」

「は・・・? ガリラヤ湖? ・・・・ここから馬でも1週間はかかるじゃないか」

「よし、がんばるか」

「がんばるかって・・・」


 拳を天にふりあげているバルヨナを冷めた瞳で見つめ、持っている金を確認する。1週間くらいの食料は買えるだろう。市で食料を調達すると、荒野の旅が始まった。野宿の寝辛さから、アンデレがまんまとバルヨナの口車に乗せられてしまったことを後悔していた6日目、たまたま立ち寄った街で気になる噂を耳にした。その街の近くで、おかしな洗礼が行われているというのだ。普通、洗礼は神殿で鳩などの動物を買い、その血で行われる。しかし噂の洗礼は川の水を使い、さらには無料でどんな人にでも行われるというのだ。その洗礼を施しているという男はヨハネといい、この付近では名の知られた修行者らしい。民衆というものは噂が好きなようで、最近では彼はもしかするとローマから俺達ユダヤの民を解放する英雄になるかもしれない、という噂まであった。

 安息日に労働をしたのに逃げたままになってしまっていたことが心に残っていた為、アンデレはその洗礼に興味を抱いた。神殿へ行ってお金を払わなくても懺悔をさせてもらえるのならば、洗礼を受けてもいい。 アンデレはバルヨナにその事を伝え、二人でその洗礼者を尋ねることにしたのだった。

 街から徒歩で2時間の場所に、洗礼を受ける為に並んだ人々の列が見えた。動物の血の代わりに水を使うという安上がりなやり方からてっきり貧乏人が多いと思っていたのだが、中には高貴な身なりの人も幾人かいた。


「こんなにたくさんの人の中に並ぶのか」


 うんざりした表情でバルヨナが言う。その気持ちはアンデレも分かったのだが、まさか割り込むわけにもいかないだろう。近くに馬をつなぎ止めておき、列に並ぶことにした。しかし、昼を過ぎてから到着したということもあり、なかなか洗礼の順番がまわって来ないまま日が沈んでしまった。アンデレとバルヨナは一度街まで戻ろうかと馬を結んであった場所へ帰るのだが、どこを見ても馬の姿がなかった。盗まれた、と気付いたのは馬を結んでおいた紐が鋭い刃物で無理矢理切られていたからだった。


「うわ・・・。本気かよ」


 周りにいるのは洗礼を受けに来た人達なのだから、まさか盗みなど働かないだろうと思っていたのが甘かった。

 すっかり街へ戻る気力もなくなり、さらに今日は街の宿に泊まるつもりでいた為に食料は何も持っていなかったため、アンデレは自棄になってその場に横になった。バルヨナもつかれているのだろう、ぐったりと寝転がる。その時ちょうど、二人の腹からぐぅ、と虫の鳴く音が聞こえたのだった。


「・・・・俺の方が音が大きい」

「いや、俺だ・・・・って、どっちでもいいだろうが」


 わけのわからないことで張り合おうとする兄をいなす。

 バルヨナは仰向けになっていた体制を変えうつ伏せになった。


「もーつかれたー。歩きたくないー。今日はこのままここに泊まらないか?」

「飯はどうするんだよ」

「この付近は美味しい野蜜とイナゴ豆が採れるよ」


 ふいに、知らない声がした。

 気安げで親しみやすい声のした方角を見る為に起きあがると、バルヨナは口に豆を積められたようで、苦しそうにもがもがと呻いていた。


「やぁ、バルヨナにアンデレ。遅かったじゃないか」


 男はバルヨナからアンデレに視線を移し微笑んだ。

 ラクダの皮衣を着て長い前髪で瞳を隠している。服はボロボロで浮浪者のようにも思えたのに、どこか高貴な雰囲気をまとっていた。


「へ・・・・?  え・・・?  俺達のことを知っているのか?」

「まぁね。それより、お腹が空いているんだろう? イナゴ豆を食べないかい?」


 男はにこにことアンデレにも豆を差し出してくる。このままじっとしていたのではバルヨナの二の舞になる。アンデレは両手を差しだしその豆を受け取った。

 無言で口の中の豆を減らし続けるバルヨナを見ながら少量ずつ豆を口に入れていった。腹が減っていたからだろうか、豆はすぐに彼の胃の中へと消えていったのだった。


「腹は膨れたかい?」

「あ・・・、ええ。・・・・えっと、あなたは?」

「俺はヨハネ。この川で洗礼をしているんだ」

「は!?」


 よろしく、と男は手を差し出す。

 アンデレは思わず驚嘆の声をあげた。川で洗礼をしているという変わり者はこの男だったか。どこか納得ができるようで出来ない。もっと威厳のある老人だと勝手に想像していた。

 豆を食べ終えたバルヨナが手を握り返しながらお礼を言っている。アンデレも続いて戸惑いながらも感謝の意を述べた。


「この近くはまだ夜もそんなに冷え込まない。休んでいくといい」


 ヨハネはそう言いながらきびすを返し、簡単な幕の張ってある場所へと二人を案内した。幕の中には聖書が一冊と水の入った壷が置かれているだけで、他には何もない。盗まれるものもないのは気楽なのだろうか。


「なぁ、ヨハネさんよ。光るラクダを見たことないか?」


 バルヨナが早速話し始める。彼はアンデレ程の衝撃は感じなかったらしく、不遜な態度で問いかけた。

 この旅の途中、出会う人全てに尋ねてきたことだった。


「光るラクダかい?  へぇ、そんなものがいるのか」

「知らないのか・・・。それは困ったな」

「そうだねぇ。俺は見たことないが、この近くにいるのかい?」


 ヨハネの切り替えしに俺は目を丸くした。

 光るラクダの話をして呆れた目で見なかったのは彼が初めてだったからだ。


「ああ、この付近か、死海のあたりか、そこらへんで見たという話を聞いてきたんだが・・・。なかなか見つからないんだ」

「うーん、確かに、俺もこの数ヶ月ずっとここで暮らしているが、そんなのは見たことないなぁ」

「そうか・・・」


 兄が困ったような顔をして俯く。


「それなら、ここを拠点に光るラクダを探すかい?」


 ヨハネは微笑んで提案する。

 光るラクダを必死に探している人間を馬鹿にするわけでもなく、それどころか住む場所を提供するとは。弟は信じられない気持ちでヨハネを見た。彼の内心が悟られたのだろうか、ヨハネは苦笑を返す。


「ここは砂漠に比べると過ごしやすいし、夜は襲われる心配も少ない。すぐ近くに私を慕ってくれている人たちがいるからね。もしも嫌でなければ、しばらく休んでいくといい。帰る場所もないんだろう?」


 帰る場所がないと言った覚えはないのにそう話すその男に頭を傾げる。バルヨナがしゃべっただろうか。


「いいんですか?」

「ああ、こんなあばら屋でよかったらゆっくりしていってくれ」


 見たところ怪しい外見だが、その内実は優しい男だと思った。二人はありがたくその提案に乗ることにしたのだった。

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