第7話 「洗礼者ヨハネ」 その7


 時間になったのだろう。

 二人の守備兵と交代して親衛隊が出て行く。


「お、新しく入ってきたぞ」


 ヤコブがユダの耳元で小さく囁いた。


「同じ一平卒の制服だ・・・。よかった」

「君たちが次の見張りだね。どうぞよろしく」


 遠くでまたもヨハネの大きな声が聞こえる。いつ殺されるかもわからないのに朗らかな様子に兵士たちは戸惑っているようだった。


「・・・・あ、ああ」

「せっかくの祭りの日にこんな地下牢の見張りだなんて、災難だねぇ」

「そうなんだよなー。俺らもくじ引きで負けちまってよ」


 砕けた様子のヨハネに兵士たちは毒気が抜かれたようだった。きやすい口調で答える。


「へぇ、そんなんで見張りを決めるのかい?」

「みんな祭りの日は遊びたいんだよ」


 ユダは雑談を始める兵士の背後から近寄り首の神経めがけ手刀を入れる。あっさりと倒れた彼らを脇にやり、猿轡を噛ませた。


「ヨハネ様、助けに参りました」

「ああユダ! よく来てくれたね!知っていたけど」

「だから、先程から協力をしていてくれていたのですね・・・」


 ヨハネの言葉にユダは安堵の吐息を漏らす。二人で話している間にヤコブが兵達から鍵を取り出した。


「これでさっさと抜け出すぞ」

「おや、君は初めて見る顔だね。はじめまして」


 事務的に仕事をこなすヤコブにヨハネは笑いかける。ヤコブは眉根にシワを作った。


「そんな悠長にやっている場合かよ」

「そうですよ、ヨハネ様。早く出ましょう」


 ユダがヨハネを促す。

 けれど。


「私は逃げないよ、ユダ」

「・・・・・・」


 ヨハネがきっぱりという。やはりか、とユダは目を細めた。


「私は逃げない。ここで死ぬんだ」


 やけに断定めいた口調で言う。

 心臓が冷えてユダは牢の鉄格子に掴みかかる。


「お願いだから、一緒に来て下さい。あなたにこんな所で死んで欲しくないんです」

「・・・・・ごめん。でもね、私は逃げないよ。逃げてはいけない」


 ゆっくりと、ヨハネは首を振る。

 それから、ヤコブに目をやり、ユダに視線を戻すと、じ、と彼の目を見つめる。


「私は熱心党には使えないよ、ユダ」

「・・・・わかってます。・・・・・私が、個人的に助けたいんです」

「知ってる。君が私に死んでほしくないことくらい。・・・・あの日から、多分、ずいぶん悩んだ事だろうと思う」


 あっさりと言われ余計に腹立たしく思う。確かにユダは以前ヨハネに言われたときから悩んだし、彼が延命出来ないか考えた。


「だったら!」


 語気を荒くしてユダは牢屋のオリをつかむ。これであっさりと決別できるほど彼の情は薄くはない。


「でもね、私は行かない。行けない。・・・私はこの国を変えるには何の役にも立たない人間だよ」


 諦めたように笑う彼に、ユダは胸が潰れる心地がした。熱いものがこみ上げ、頬が赤くなる。


「そんなのが、必要じゃありませんっ。私は、あなたに生きていてほしいから・・・」

「でもね、今後救世主になる男がいるんだ。今私がここで生き残ってしまったら、彼は力を出すことが出来なくなる」

「・・・・・何をおっしゃっているのですか」


 彼の不思議な発言は今に始まったことではない。もどかしく思う。そんなことより早く彼を連れて逃げ出したかった。


「私は彼に洗礼を授けた。君もその内会うことになるだろう」


 ユダの言葉を無視してヨハネはしゃべり続ける。意味の分からない言葉を続ける彼に苛立を覚えた。


「私はもともと祭司見習いで、ゆくゆくはエルサレムで祭司になる予定だったんだ」

「・・・・・・・は?」


 いきなり自分の過去を語り始める彼に目を丸くする。時間はあとどれだけ残っているのだろう。心は焦るのにヨハネは一切気にせず語り続ける。


「けどね、私は街へ行く度に見る、苦しんでいる人達の姿が目について離れなかった。彼らは神殿にも入ることが出来ないから、洗礼を受けられないんだ。・・・・だから、学院をぬけてきた」

「・・・・はぁ」


 彼が自分の過去について話すのは初めてだった。祭司は祭司の子供しかなることが出来ない。初めて会った時は『君がユダだね。私はヨハネ。よろしくね』などと言っていきなり握手を求めてくるような不審者だった彼が、神殿へ行くとその見識の深さや歴史の知識を披露し学者や祭司を感嘆させていた。

 その時は修行者の1人だと思ったものだったが、彼のああした考えはしっかりとした教育を受けた元にあったものだったのか。


「そのころにはもう未来が見えていた。だから、君を探した」

「・・・・・・・・・・私を?」

「・・・もしも君がくだらない人物だったら、ここまでは関わり合いにならなかった。でも、君と話しているうちに君に興味が湧いた。もし出来る事なら、私は君に救われて欲しいと思った。だから、君がここに来てくれると分かった時は嬉しかったよ。最後に会うことができてよかった」


 ヨハネは微笑む。心情のわかりにくい彼だったが、この時ばかりは心の底から笑っているのだとわかった。


「・・・・・・最後、って言わないで下さい」


 ユダが唸る。


「最後だよ。ねぇユダ、私はこれでも学院にいた頃は神童って言われていたんだよ。ゆくゆくは祭司長も夢じゃないってね。それでも、祭司になるのが嫌で飛び出してきた」


 彼の言葉はどこまで本当かわからない。けれど今はすべてが信じられるような気持ちがした。


「そして、ここで苦しんでいる人を救うためにヨルダン川で洗礼を始めた。そしたらどうだい? たくさんの信者と共に、こうして影響力を恐れたアンティパス王が私を囚えるまでになった」


 彼の話の終着点が見えずユダは黙っているしかできなかった。


「あのね、ユダ。人は世界を変えることは出来ないけど、自分を変えることは出来るんだ。そうして、自分が変わることで周りが変わる。案外世の中というものは、そうやって少しずつ変わっていくものなんだ。それを忘れないで欲しい。私は君に変わって欲しいんだ。・・・・未来を変えられるように。そして、きっと君も幸せになってくれると信じてる」

「・・・・・・・・・・」


 ・・・・意味が、分からない。

 眉を潜めていると、背後からガタガタと音がした。来たようだね、とヨハネは独り言のように言う。

 その手が小さく震えていた。


「ヨハ・・・・」

「ヨハネはいるか!?」


 さきほどの親衛隊達が入ってきた。1,2,3,4・・・・・。数が多い。これでは、逃げられない。ヤコブも突如入ってきた男たちを見て顔を青くしていた。


「喜べ、お前の・・・・」

「私の処刑が決まったんだろう? 私は首を跳ねられるんだ」


 ヨハネの手がユダの手首を彼らに見えないように握る。先程の震えは止まっていたが、まるで縋りつくようだった。

 それなのに、口調ばかり陽気で、兵士達はそんな彼に間の抜けた顔をしている。彼の予言は当たっていたようで、男たちは目を見張った。


「大丈夫、私は逃げも隠れもしない」


 ヨハネは手を離すと、男たちに囲まれて牢を出る。前後左右、屈強な男たちに取り囲まれた彼はユダには小さく思えた。

 ああそうだ、と言って彼は立ち止まり、二人に振り返る。


「ねぇ君。よければ熱心党のツンデレ君に伝言をお願いできないかい?」

「・・・・・・・ツンデレ・・・・」


 ユダは苦々しげに口の中で呟いた。


「ナザレのイエスという男を訪ねなさい。彼こそが君の求めていた人だ、と」


 それだけ言うと、ヨハネは今度こそ堂々とした足取りで進んでいく。その背中はもう振り返ることはなかった。

 どうやら暗闇に隠れてユダたちが兵士でないことにはのことは気付かれなかったらしい。親衛隊の一人がもう帰っていいと言い、彼らはその場からいなくなった。


「・・・・・・・おい」


 ヤコブが戸惑ったように声をかける。

 ユダは浅く呼吸を繰り返し、ヨハネが死ぬというその事実を受け止めようとする。しかし、どうしても処理しきれなくて、息苦しさと悲しみからその場に崩れ込む。


「おい、ユダ」


 とうに二人しかいなくなった牢でユダの嗚咽が響く。

 あの人がいなくなる。

 彼の首と体が切断される映像が母の最後と頭の中で重なりどんどん呼吸が浅くなった。立っていられない。

ユダも自分の弱い部分を他人に晒すのは嫌だった。だからなんとか呼吸を整え立ち上がろうとしたのだったが足に力が入らないのだ。


「はっ・・・、いっ・・・、いやだ・・・、いやだ、いやだ」

「おい!」


 ヤコブがユダの両肩を持ち、体を持ち上げる。その両手を掴み、ユダはさらに短い呼吸を繰り返した。







 次の日、彼の首は広場に晒されることとなった。彼の言った通り、銀の盆に載せられて。周囲には何十人という兵士と悔しそうに見つめる信者たち。

 死体も回収できないのか、とユダは奥歯を噛み締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る