第4話 「洗礼者ヨハネ」 その4
ヨハネが洗礼を始めた当初のユダの予想に反して、洗礼は人気を博した。彼の元には弟子入り志願者が殺到し、その数は教団を名乗れるまでにふくれあがった。
そんな中で一つの噂が民衆の中に広まった。救世主とはヨハネの事ではないのかという話だった。
確かに、人とは違う力を持つ彼に対して人々がそのように期待をするのも無理がない話だろう。
ユダとヨハネは今までのように簡単に会うようにはなくなり、どちらも忙しい日々を送っていた。そんな時だった。
ユダは教団の重役方に呼び出された。
「ユダ、お前、ヨルダン川で洗礼を施しているヨハネと親交があるらしいな」
首長が威厳のある声で言った。
会堂は荘厳な雰囲気をまとっている。焚かれた香の静謐な匂い。調度品。それらは以前のスラム街とは比べ物にならないほど豪華なものだった。テーブルに数人の重役が腰掛け、いっせいに入ってきたユダを見る。
「親交というほどの親交でもありませんが・・・・・。それが何か?」
その話か。
ユダは呼び出されることは滅多にない。何事かと内心で緊張していたのだ。
「彼の人気が、今どのくらいあるか知っているか?」
「ものすごく、人気があるとは聞いております。なんでも、一般市民だけではなく取税人や貴族ですら彼に洗礼を受けるために訪れることもあるとか」
取税人とはユダヤ人でありながらユダヤの民から税金を取りローマに渡す人々のことを言う。
金銭的には裕福でありながら、ユダヤの民からすると裏切り者である彼らは忌み嫌われていた。
「・・・・・その彼が、熱心党に加われば、彼の支持者ともども引き込み、さらなる勢力拡大が望めると思わないかね?」
首長の言葉にユダは目をひん剥いた。
「・・・・・・・・彼を、利用しようと?」
怪訝な顔をしてしまう。ユダの中の彼は最近の聖人と呼ばれる人間ではない。未だいきなりユダの所に不法侵入して遊びに誘う奇人なのだ。
「聞いたら彼はアンティパス王を嫌っているとも言うではないか」
アンティパス王はヘロデ王の息子で、この地方を収めている王だった。
彼もやはりローマの手先としてユダヤの民に忌み嫌われていた。
「・・・・・へぇ、そうなのですか?」
初耳だった。
いつも飄々としているあの男が誰かを嫌うというのはユダには想像出来なかった。
首長はそんなことも知らないのかとでも言いたげに睨む。
「それなら利害は多少なりとも一致しているではないか。ユダ、お前、ヨハネの所に行って熱心党を支持するように話をつけてこい」
内心でため息をつく。ユダにはあの男が御せるとは思えなかった。
「・・・・お言葉ですが、それは難しいと思います。彼は、熱心党自体に対しては好意的には思えません」
一応言い返すものの、首長は蛇のような瞳をギラリとユダに向けてきた。
「ユダ、私はやってくれるか? と聞いているわけではない。やれ、と言っているんだ」
首長の鋭い眼光にユダは唾を飲み、しぶしぶ頷いたのだった。
それから数日して、ユダは休日を利用してヨハネに会いに行く事にした。現在彼が住んでいるところは歩いて数時間かかる為、一日仕事になってしまう。
土産として選んだ西瓜を携えてヨルダン川へと赴いた。
ヨハネがいるという川辺には分かりやすいほどの人間が集まっていた。
列になっている人間が洗礼待ちの人々で、その周囲を取り囲んでいるのが彼の弟子だろう。
彼の周りにいる人数はユダの予想を超えたもので、話しかけていいものか少し悩んだ。なるほど、熱心党の人々が取り込みたがる訳だ。
群衆の近くまで寄っていくと洗礼を授けている彼の姿が目に入った。どこか神々しい雰囲気を持った男は知らない人間のようだとユダは思った。
そのヨハネは人が切れた際にふと顔を上げる。ユダと目が合うと、口元だけで笑い、指で少し離れた岩場を示した。待っているようにと言うことだろう。
「久しぶりだね、ユダ」
太陽が頭上と地平線のちょうど真ん中あたりに来た頃、やっと群衆の波が落ち着いた。休憩を取ると弟子たちに告げるとヨハネは川から出てユダのいる方へと歩いてくる。
「ええ。いいんですか? 私は今日明日は休みなのでまだ待っていられますが」
「いいんだよ。私が休まなきゃ弟子達も休めないからね」
言いながらヨハネはユダの隣に座る。ヨハネの言葉にユダは周囲を見渡した。遠巻きに彼を見ながらも近寄ってこない人々がいる。先程から見ていたが、ヨハネに対してうやうやしい態度を取っていることから、彼らが弟子なのだろうと予測がついた。
「弟子・・・」
「こんな私でも慕ってくれる人が出来たんだ」
嬉しそうに言うと彼も弟子たちに視線を向ける。
意外なことに子供から老人まで幅広い層により構成されていた。
「・・・・西瓜、持ってきたから食べませんか?」
喉がつかえたような心地がしながらもユダは小脇に抱えていた西瓜を見せる。水分の多いそれはこの地方では好んで食べられていたものだった。
「へぇ、いいねぇ」
ナイフを突き刺し西瓜を割る。
4分割し一つを彼に渡すと、彼は美味しそうに頬張った。前々から骨張った男だったが、ここの所更に痩せたようだ。
「・・・・・ちゃんと、食べているのですか? 痩せましたよね?」
心配になったユダが尋ねる。
「ああ。この辺りは食べ物が豊富にあるからね」
「へぇ、何を食べていらっしゃるんですか?」
確かに緑の多い場所だが、人間の食べられる物が豊富にあるとは思えなかった。ユダは片眉を上げる。
「主にイナゴ豆とナツメヤシの蜜」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
得意げに言うヨハネにユダは呆気にとられて絶句した。それはどちらかというと食べていないほうである。
イナゴ豆はこの辺りに群生している植物の一種で、見た目がイナゴに似ている事からその名前が付いた。ナツメヤシもこの地方にある木であり、実の中にある液体は甘くて美味しい。
「ヨハネ様・・・、もっとまともな物を食べて下さい」
数度口をパクパクとさせた後、ユダは言う。
「私はこのくらいでいいんだよ。それに、たまにこうして美味しい物が差し入れされるから」
あっという間に一つ目を食べ終え、二つ目の西瓜へ手を伸ばす。
ユダが自分が食べていた物以外を彼にあげると、彼は嬉しそうに全てを食べてしまった。
「で、君は何しに来たんだい?」
食べ終わり、やっと本題を引き出そうとするヨハネ。先ほどの話を聞いた後だと彼に言いにくい内容だった為、ユダは目をそらし、あ、や、うなどといった意味をなさない言葉を呟いた。
視線を移した先では休憩中に増えた洗礼待ちの人々の内数人がこちらを見ている。
「あー・・・・、その、ですね・・・・・。えっと」
「私に会えなくて寂しかったかい?」
「いやそういう訳じゃないんですけど・・・・」
「うん、そこは嘘でもそうだと言って欲しい所だよね」
あっさりと返すユダに彼もそこまで本気ではなかったようで苦笑を漏らす。
「・・・あの、ヨハネ様は集団に属す気はありませんか?」
「熱心党のことかい?」
ズバリと言い当てられ俯く。
彼の思想からすると加わる気など更々ないだろう。それがわかっていても引き入れなくてはならない。
「う~ん・・・、君も辛い役回りだねぇ・・・」
ヨハネは同情するように言う。
彼のことだから、ユダの内心なんかお見通しなのだろう。
「・・・・本音を言うと、あなたがこちらに入ってくれれば心強いとは思うんですが・・・」
「それはムリだし、きっと私は入っても役には立てないよ」
あまりにも強い拒絶で分かっていたこととはいえユダは内心落胆した。
「・・・・・・・・・・・きっぱりと言うんですね」
ため息を漏らす。ヨハネもユダから目をそらした。
「あのねぇ、ユダ。私はもうすぐいなくなるよ」
「・・・・・・・・・・・・・え?」
ヨハネはまっすぐユダを見て言う。
その調子がいつもの戯けた様子ではなく、至極真面目だった為何と返していいか分からなかった。口を開け、また閉じるといった意味のない動作を繰り返してしまう。
「・・・・・・・・どういうことですか?」
数秒の逡巡の後に出てきた言葉はそんなありきたりの言葉だった。
「そのままだよ。もうすぐ・・・・・・・死ぬんだ」
「何故?」
心臓がどくどくと脈打っていく。未来が見えると言っているこの男ならば自分がいつ死ぬか分かってもおかしくはない。だからこそ、嫌な信憑性を纏って耳に届くのだ。
「アンティパス王に捕らわれて」
「・・・・・・・・・・・アンティパス」
この地方の統治者であるその男の名前は、けれど、ひどく遠く思われた。
「私が彼を糾弾している事は、君は知っているかな?」
「ええ」
「・・・・ただでさえ、ティベリウスの近くでこんなに信者を抱える私は煙たいのに、その私が彼を批判するんだ。あの人にとって面白い訳がないだろう?」
ヨハネは肩を竦める。自分でやっていることなのにどこか他人事のような言い草だった。
「・・・・・・・・それは、そうですが」
「そうして、私は捕らえられて首をはねられる。それが私の人生さ」
ヨハネは指先で食べ終えた西瓜の皮を弄っている。まるで拗ねているようにも見えた。
「なら、批判をしなければいいんじゃないでしょうか・・・?」
「そうだねぇ。本当にその通りだ」
はは、と彼は快活に笑う。
朗らかな彼の様子は誰かを糾弾するような人間だとはユダには思えなかった。
「そうだけどねぇ・・・。ねぇユダ。君は何故今熱心党へいるんだい?」
「・・・・ローマの支配を退けたいからです。その決起の中に私もいたいから」
急な話題転換に訝しみながらもユダは答える。
「君は、本当にローマに適うとでも思っているのかい?」
「・・・・そう信じています」
「ローマは強い。どんどん領地は拡大して行っているし、人材資源も軍事力も膨大だ。本当に、勝てると思っているのかい?」
試すようなヨハネの言葉にユダの胸の奥が熱く燃えた。彼の全ての行動の根幹部分をなす心情なのだ。語気が荒くなる。
「思っています! ・・・・たとえ、適わなくても一矢報いてみせる!」
「それと同じだよ、私も」
「・・・・・・・・・・え?」
ユダは目を瞬かせヨハネを見た。相変わらず長い前髪が彼の心情を悟らせてはくれない。
「私も、アンティパス王が憎いんだ。民衆を痛めつける彼がね。例え首をはねられるんだとしても、それでも『一矢報いてみせ』たいんだ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
穏やかに微笑む彼の言葉がすとん、とユダの心の中へと落ちてくる。止めても無駄だと言うことはわかった。
それでも。
「その予言は、当たるのですか?」
「さぁねぇ・・・」
「ヨハネ様ご自身はどう思っているんですか?」
彼は何も言わずに、小さく微笑んだ。
自分の心情を言う気はないらしい。
それでも、笑顔が悲しそうにユダには見えた。そうあってほしいという願望のせいかもしれなかったが。
彼は食べ終えた西瓜の皮を集め、手に持った。
「さて、そろそろ休憩の時間は終わりだね。ありがとう、ユダ。美味しい西瓜だったよ」
「あ・・・・え、いえ・・・・」
「この辺りは夜になれば夜盗が出る。早く家に帰った方が無難だよ」
言うと彼は立ち上がり踵を返す。
呆然として彼の姿を見つめていたが、ヨハネがユダの方を再び振り向くことはなく、弟子達と一言二言話すと再び川へ入っていった。
長い行列の中には貴族の姿も見受けられる。彼らも、そしてヨハネの周囲にいる人々も彼を慕って集まった人間なのだろう。
この人々は先程のヨハネの言ったことを知っているのだろうか。たった数メートル先の人間達は、今のユダにはおとぎ話の中の登場人物のように思える。鼻の奥がツンと熱くなった。
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