第3話 「洗礼者ヨハネ」 その3
それから数週間後、ヨハネが変わったことを始めた、と風の噂で聞いた。なんでも、ヨルダン川で洗礼らしきものを始めたというのだ。
洗礼というのは、主として神殿で行われており、一切の罪を清めるための儀式のことを言う。出来るだけ定期的に受けておくに越したことはないが、死ぬ前に行われることが多く、現世での罪を洗い流してから天の国へと召されようという思想のもとにある。
エルサレムで行われており、ユダヤの民は一生に一度は洗礼を受けることとなっていた。
けれど、ここ、ティベリウスからエルサレムへ行くには数泊することにもなるし、なにより儀式をするためは生贄を買わなければならず、その生贄代は結構な負担になる。それを考えるとヨルダン川で洗礼が出来るということは魅力的だったが、誰でも簡単にできることではない。一体どうしているのだろう。
疑問に思ったユダは仕事の合間に彼が洗礼を行っているというヨルダン川まで赴くことにしたのだった。
「おお、ユダ! ひさしぶりだね!」
ユダの顔を見たヨハネは以前と変わらぬ様子で出迎えた。ちょうど人が切れた所だったのだろう、彼の周囲には誰もおらず、遠くに帰っていく男が数人、見えただけだった。
「おひさしぶりです。・・・・・あなたが何やら不思議なことを始めたとお聞きしたので、見に来てみました」
「不思議なことかなぁ・・・・」
ヨハネは苦笑して、川に足を入れ、蹴り上げ、遠くまで水しぶきを飛ばす。夕方のオレンジ色の光の中で鈍く輝く川面に波紋が広がった。
「普通洗礼はエルサレムでお金を払ってやってもらうものだろう? でも、私はそれじゃあ一般の人々には敷居が高いと常々思っていたんだ。だから、ここの水で生贄の血の代わりをして洗礼をすることにしたんだ」
周囲に視線をやってヨハネは誇らしげに言う。ユダは呆気にとられて目の前のラクダの皮衣をまとった男をまじまじと見た。相変わらず目は前髪で隠されていているのでヨハネの心理をはかりにくい。
「ここの水で・・・、ですか」
そんな安易な方法でも洗礼になるというのは、この男の人望から来るものだろうか。
「ああ。そうすれば、エルサレムに行くことが出来ないような人でも洗礼を受ける事が出来るだろう?・・・貧乏な人でも、どんな人でも、洗礼を受けてから天に召されることが出来る」
ヨハネの顔は穏やかに微笑んでいた。
突飛な言動に驚かされることがあるが、彼は確かに民衆のことを考え、彼らのために動いている。すごい人だと思った。ふと、前回の収穫祭での出来事が頭をよぎる。
これが彼なりの解答なのだろうか。
ユダは緩やかに微笑んだ。
「お、おい」
その時、背後から声がした。振り返るとあの祭りの日にユダから財布をすった男が大事そうに子供を抱えていた。
「・・・・なんだ」
思わず眉をひそめながら問い返すユダには目もくれず、男はヨハネのほうに歩み寄っていく。
「お前が、この辺りで洗礼をしているというヨハネか?」
縋るような目付きの男にヨハネは何も言わず頷いた。男の声は震えている。
「頼む! こいつに洗礼をほどこしてやってくれないか!?」
男は腕に抱いた子供を差し出す。あの日ユダに殴り掛かってきた彼の子供だった。その肌にはたくさんの斑点が浮き出ており、苦しそうに浅く呼吸をしている。素人目にももう長くないことは見て取れた。
男は子供を脇に置き、平伏して言う。
「お願いだ! この子に、洗礼を! ・・・・・・、あんなことがあった後にこんなことを言えた義理じゃねぇのはわかっている。けれど、頼む! お願いだ!この子の罪を清めてから、天国に行かせてやってくれ!」
悲痛な男の叫びを聞きながらヨハネは何も言わず子供を抱き抱える。
「立ちなさい。私は誰も拒まないよ。・・・・今からこの子に洗礼を捧げよう」
ヨハネは抱きかかえると川に入り彼を腰まで水に沈め、額に手をかざし、子供の頭から水をかける。
「そなたの罪は許された」
告げて、ヨハネは彼を父親に返す。
男は、跪いて子供を抱きしめ涙を流した。ありがとうございました、と繰り返しながら。
「もしよければ、あなたにも洗礼をほどこそうか?」
ヨハネは彼と目線をあわせて言う。
男は信じられないような顔をしてヨハネをまじまじと見た。
「・・・・・・・俺は、自分が洗礼を受けることはないと思っていた」
男がかすれた声を漏らす。
「・・・・どうしてだい?」
「今まで散々盗みを働いてきた・・・。きっと死んだって天の国へとは行けねぇもんだと思っていた・・・・」
男は俯く。彼の視線の先ではヨルダン川の水が緩やかに流れて行っていた。
「そうか・・・。それらの罪を、悔い改めるか?」
男はヨハネと子供を何度か見返し、それから重く、頷いた。
ヨルダン川で、男は半身まで水に浸しヨハネから洗礼を受けた。終わった後、泣きながら何度も何度もヨハネの手を掴み、礼を述べていた。
正直に言ってしまうと、ユダにはこの行為が功をなすとは思えなかった。
こんなことをしても、ローマを倒さない限りいつまでもユダヤの民のこの苦しみは繰り返すだろう。第一、こんな簡素なものを洗礼と言ってしまっていいのだろうか。
そう、考えていた。
けれど、その男の涙を見ながら、思った。
彼のやっていることは、きっとこの男にとっては大きな意味のあることなのだろう、と。
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