第2話 「洗礼者ヨハネ」 その2

 浮かれた人々の声と遠くで聞こえる笛の音が混じり合い祭り独特の喧騒を作っている。

 ヘロデ王の子供であるヘロデ・アンティパス王の直轄地であるここティベリアスでは収穫祭の祭りに湧いていた。

 久しぶりの祭りにほころぶ人々の顔を見ながら、ユダははぐれないように必死にヨハネの後をついて行く。群衆をかき分けてやたら上手に歩いていく彼についていくのは一苦労で、ユダは何度も人にぶつかってしまった。


「ほら! ひきこもりのユダ君! 外の世界はすばらしいだろう!」


 急にヨハネが振り返る。ユダは憮然とした顔を返した。


「ひきこもりじゃありません」

「広場で旅芸人が踊りをしているようだよ。見に行こう!」


 けれど意に介した様子もなくヨハネは再び踵を返し駆け出す。自分よりも歳上なのになんと落ち着きの無いことだろうと肩をすくめた。


「ハイハイ・・・・・わ、と・・・・。すみません」


 ついて行こうと歩き出した瞬間、どん、と正面から人にぶつかりユダは尻餅をついた。

 彼を突き飛ばした男はちっと舌打ちをすると、気をつけろよ、とだけ言ってさっさと歩いていく。


「・・・・・」


 注意を怠っていた彼も悪いのだが、あんまりな態度だ。ため息をこぼす。

 砂を払い、起き上がる時にふと、懐が軽くなっていることに気がついた。


「・・・・・あれ」


 慌てて懐に手を入れて探すが、見当たらない。

 もしや、と思い先程ぶつかった男の歩いていった方向を振り返った。


「どうしたんだい?」


 ユダがなかなかついてこなかったからだろうか、ヨハネが戻ってきて挙動不審な彼に話しかけた。


「・・・・スられました。財布を・・・」

「何!?  じゃあ私は誰に夕食をおごってもらえばいいんだい!?」

「知りませんよ! っていうか、おごってもらうつもりだったんですか!?」

「うん」


 あっけらかんとしたヨハネにジト目を返し、何も言わず男の行った方へ走り出す。


「追いかけますよ!」


 祭りの喧騒の中を先程の男を目指して走り出す。ヨハネも同様に後ろをついてきた。

 人々の群れをかわしながら男が歩いていったほうへと足を進める。気がつけば普段はめったに寄り付かないスラム街のほうへと入っていた。

 この辺りは治安が悪い。

 せっかくの祭りの日だというのに、やせ細った子供が道の端にうずくまり、どんよりとした瞳でユダたちを見ていた。周囲の空気は淀んでおり、かび臭い匂いが鼻をつく。ユダは思わず眉をひそめてしまった。


「・・・・ねぇ、君。こういう・・・、感じの男を見なかったかい?焦げ茶の服を着ている・・・・」


 呼吸を控えめにして道端に蹲っていた子供に尋ねる。子供は胡乱な目をユダに向けてきた。


「・・・・・・さぁ・・・、もしかしたらダダのおじさんかもしれないけど」

「ダダ・・・・。その人はどこにいるかわかるかい?」


 子供は何も言わずに路地の更に奥の一角を指した。

 教えられた方向へ向かい歩き始めると、数歩も行かないうちに彼らは先程の男に出会った。


「・・・・あいつ」

「どうやらあそこが彼の家らしいね」


 ヨハネが推測したとおり、みすぼらしい石造りの家へと男が入っていく。逃げられないようにと駆け寄り彼の腕を掴んだ。


「っ・・・・、な、何だ」

「・・・・ちょっと、失礼しますね」


 言ってユダは彼の懐を探る。

 すぐに彼のものである財布が出てきたが、本来の重みからするととても軽いものになっていた。

 使用用途は、聞かなくても分かる。

 男は、両手にパンを抱えていたのだから。


「・・・・使った分については多くは問わない。さあ、刑吏の所に・・・・」


 ユダは男の手を掴むと大通りへと向かって歩き出そうとする。


ばすっ


 その時だった。ユダの背中に何かが当たる。

 後ろを振り向くと、4歳から5歳ほどの子供が目に涙を溜めてユダを殴っていた。


「お父さんをいじめるなーっ」

「なっ・・・、これはいじめてるんじゃなくて・・・」


 男とよく似た瞳を持つ少年にユダは怯む。彼は子供が得意ではなかった。どう接していいかわからないのだ。


「ユダ、これ以上の話は外でしないか?」


 見かねたヨハネの提案に頷き、子供にその場にいるように指示を出すとユダは男の腕を取って外へ出る。

 あんな小さな子供だが、随分と痩せているのが気になった。この男一人ならばなんとも思わないのだが、子供のことを考えると刑吏に突き出すのは気がひける。


「それで、お前が盗んだ金についてだが・・・」

「う、うるせぇ!  俺もあの子ももう3日も食ってねぇんだ! 仕方がなかったんだ」


 男が食って掛かる。

 確かに、彼自身もやせ細っていた。


「仕事はねぇし、土地も家畜も売っちまった。いざ見つけた仕事で賃金を稼いでもローマに税金として取られちまう。お前みたいないい服着てるような奴にはわからねぇだろうな! こんな生活なんか!」


 ユダの胸元を掴み罵りながら男は続ける。

 熱心党の会計役として働いているユダの生活は組織により保証されている。普通の人々よりも少し良い暮らしが出来ているのだ。

 その熱心党も貴族等の献金でもっているのだが、ローマの支配が強まり、多くの税を取り立てるようになった為に、ローマに反旗を翻そうとしている熱心党への献金は増えるばかりだった。


「だからと言って盗みは律法で禁じられているだろう」

「じゃあ俺に死ねと言っているのか!?」

「それは違う。・・・・・私は、熱心党の者だ」


 男がはっと息を飲む。

 この団体の名前をこの街で知らない者はいない。救世主になるかもしれない団体なのだ。


「いつか、私たちはローマを倒しユダヤの国を取り戻す。そうして、誰も殺されることのない、幸せな国を作り出す。それまで・・・、つらいだろうが耐えてもらえないだろうか」

「・・・・んなこと言ったって・・・」


 ユダの真摯な瞳に男は居心地が悪そうに視線をそらした。


「財布のことについては今は何も言わない。刑吏にも突き出さない。・・・・今後もきっと、神様がきっといいようにしてくださる。だから、」

「・・・・・・・・っち」


 ユダの胸元から手を話しながら、男は睨みつける。


「いつかっていつなんだよ。俺らはもう何年も待てないんだよ」

「それは・・・・・」


 乱暴な彼の主張に今度はユダがうろたえる番だった。

 重々しい空気が場を支配する。

 男は悪びれた様子もなくつばを吐き、踵を返すと自分の家の方へ歩いていく。 何も言えず、だからと言って憤慨することもせずにユダはその姿を見送った。

 振り返ると、ヨハネが悲しそうな、それでいて微笑ましいものを見るような表情で彼を見ていた。


「君は・・・・、本当に純粋だね」

「え・・・・」


 ぽつりと低い声で言われ、何のことかと目を丸める。言葉を選んでひねり出したような、そんな雰囲気があった。

 しかし、次の瞬間、ヨハネはいつもの快活な調子へ戻っていた。


「大変な目にあったね」

「・・・・・ええ」


 彼の態度を訝しく思い、潜むような声を出す。そんなユダの様子に苦笑しながらヨハネは続けた。


「・・・・・・・ただね、実を言うとね、ユダ。私はこのことを君に知って欲しかった、ということもある」

「え?」


 穏やかだけれども強い口調だった。


「君にはあんな建物の中にひきこもっているんじゃなくて、こうした現状を知って欲しかったんだ。ローマを倒すと言っているけれど、それよりも先にここに苦しんでいる人々がいるということを身近に感じて欲しかった」

「・・・・・・」


 ヨハネはユダの目をじっと見る。ユダの目が苦々しげに細められた。

 言葉を脳内で反芻し、それでも、と反論を返す。


「それらのすべてのすべて元凶はローマです。・・・・・・あいつらさえいなくなれば、私たちの暮らしはもっとまともなものになる。だから、あいつらを倒すその日の為に私たちは金を集め、兵力を増強しているのです」


 語気が荒くなる。彼の譲れない信念だった。瞳に強い光が灯る。


「・・・・・いつか救世主となる方が現れて私たちを救ってくださる時が来たらすぐに駆けつけられるように」

「・・・・・・聖書のとおりに?」


 ヨハネは重い調子で尋ねた。

 救世主が現れユダヤの民を救って下さる。

 ユダヤの民なら皆が知っているその話をユダは心の支えにしていた。


「ええ。その方はもうすぐ現れるはずなんです。・・・・そう、祭司たちも預言者も言っている。・・・あと少しの辛抱なんです」


 この時代、祭司や学者によって盛んに聖書の研究がなされていた。

 祭司とは人が生まれてから全ての儀式を司る役職であり、絶対的な権力を持っている人々だった。預言者は「神様の言葉を伝える人」の事で、神の言葉を聞き、民衆に伝える人間の事である。

 しかし、修行を重ね、限られた人間にしかなれない祭司と違い、預言者は自分で名乗る事が出来てしまう為に偽者も多い。

 ヨハネも預言者の一人として数えられている。つまり彼は未来を見ることの出来る「予言者」であり、神の言葉も聞ける「預言者」でもあるという事だった。


「・・・・・そう・・・。けれどね、今現実に、ここに、苦しんでいる人がいるんだ・・・・」


 ヨハネのその言葉は、まるで半ば彼自身に対して言っているかのようにも感じられた。

 彼はもしかするとこの先に何があるのかを本当に見ているのかもしれない。ユダは彼の予言の力には懐疑的だったが、こういう時はそら恐ろしくなる。

 もしかしたら、救世主は現れないのかもしれない。

 そんな未来をを見ているからこそ、こうやって言うのだろうか。しばしの沈黙の後、踵を返し歩いていく彼の背中を見ながらユダは考える。

 元の通りに戻ると彼はすっかりいつもの調子を取り戻しており、先ほどの宣言通りにユダに食事をたかり、満足そうな顔をして帰って行ったのだった。




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