二人ぼっちの後日談
明神響希
二人ぼっちの後日談
朝、太陽の光で目が覚める。爽快とはいかない目覚めでも、重い身体を動かして隣で寝ている彼女を起こさなければいけない。
「おはよう」
声を掛けただけでは起きない。何度か何度か揺すり、声を掛け、彼女を起こす。眠たそうに薄い布団に包まれた彼女は微笑んだ。
「おはよう、みーちゃん」
幸せを湛えた掠れた声。そんな彼女から布団を引っぺ剥がし、早く起きるように促すのだ。
「早く起きて。今日の飯担当はゆーでしょ?」
「そーだったね」
間延びした、呑気な声。嫌味には聞こえないのだから羨ましい。もっとも、その感想は意味を成さないが。
「ほら、起きて。飯用意して。腹減った」
「今日は鯖の水煮で良い?」
「なんでも良い」
レンジの中で2人分のご飯が炊きあげられる。金属音の後に2つの皿にそれぞれ鯖が移され、調味料が用意された。
「ん、みーちゃんマヨネーズ使う?」
「私、醤油単体派」
パックから茶碗に移すのも面倒になった。炊飯器で炊くよりは質の落ちた米を口に入れ、彼女との下らない会話と一緒に呑み込んだ。
「アタシ缶詰だったらこれが1番好きだなぁ。美味しいし」
「私はトマトの水煮かな。パスタが美味い」
「大体さ、みーちゃんの方が料理上手なんだから、ずっとみーちゃんが作れば良いじゃん」
「やだよ。めんどくさい」
平和ボケした会話。進展も後退もしない。着々となくなるパックの中の米と醤油の味に支配された鯖。
「そういや、今日はどうする?」
「ピクニックでもする?」
「昨日しただろ」
「んー、じゃあ、旅行?」
「ピクニックと大して変わんねぇじゃん」
彼女は何度も外に行きたがる。なんにもない外の何に惹かれているんだか。
「じゃあさ、修学旅行しようよ。制服着て」
「制服?」
「そうそう」
「やだよ恥ずかしい」
「良いから良いから」
こうやって念押しされると負けてしまう。なんだかんだでゆーが可愛いのかもしれない。
*
久し振りの制服は肩が凝りそうだった。白色のシャツに、紺色のリボンとスカート。着る必要がなくなったそれらはもはやただのコスプレで。お揃いのこの制服を着て教室のお喋りに花を咲かせたあの日々を、テストの問題を前に首を捻ったあの日々を私達は忘れていくのか。
「みーちゃんの制服、地味だね」
「ゆーの制服が派手なだけ。スカート短い」
赤チェックの膝上まで上げられたスカート。真っ白のシャツに映える赤チェックのネクタイ。可愛い制服だ。こんな衣装を着て踊るアイドルがいた。
「JKは脚見せてなんぼでしょ」
「見せる相手もいないのに?」
からかってみると、彼女のくりくりとした大きな焦げ茶色の目が不満を訴えた。その視線を遮るように日に焼けた髪を乱すと、不満の色が消えた。
「よし、行こっか」
「つーか、どこまで行くんだ?」
「海」
「海なんてあったか?」
「あるはず。行こう!」
意気揚々と登山用のリュックを背負った彼女は歩き出した。こうなったら彼女は話を聞かない。私もついていくしかない。
「重いね」
「缶詰は軽いんだけど、水がな」
歩く度に金属のぶつかり合う音が聞こえる。規則的なようで、ちょっとずれのある高い微かな音がよく響き続ける。
「重いね」
「重い重い言うな。さらに重くなる」
「うーい」
この気の抜けた返事はなんとかならないのか。咎めようと視線を向けるも、彼女は下を見ていて交わらない。彼女が蹴った小さな石がコロコロと転がりヒビに落ちた。
「みーちゃんはさ、どんな学生だったの?」
意を決したように彼女は話し出した。やけに真剣味を含んだ声で。
「どんな、って。普通の?」
「普通じゃわかんない」
子供のような駄々の捏ね方。でも声には芯が通っていて、その子供らしさを弱めた。
「んー、本当に普通だったよ。バレー部だったんだけどさ、大して強くなくて。かといって勉強もあんまり得意じゃなくて」
「でもその制服って頭良いとこのでしょ?」
「学校は頭良くても私はよくなかった。テスト前になんないと勉強だってしなかったし」
そういえば、彼女と2人で住むようになって学生時代の話はしたことがなかった。思い出そうとするほど賑やかな記憶でもなかったし、素敵な記憶でもなかったから。物語のような甘酸っぱいレモン味の青春もなければ、燃え尽きるような熱で支配される青春もなかった。いつ使うかわからないような知識を積み重ね、毎日部活で汗水垂らし、眠気と空腹に耐えながら電車に揺られる日々を、青春なんて呼びたくなくて。
「ゆーは?」
「アタシ? アタシは、普通だったよ」
「だから、普通じゃわからないって」
私が同じような台詞を言えば、彼女は上を向いた。それに釣られ、上を向けば鮮やかな青い青い空が見えた。あの青春の日々に見た青い空が。
「本当に普通だったよ。好きなアイドルの話して、世界史が好きで、数学が苦手で。文系に進もうとしてた」
視線は青から離れなかった。縛り付けられたように。でも、足は見た事のない海へ足を進めていった。
「部活は?」
「合唱部」
胸を張って、彼女は大きく息を吸った。何かを押し込むように、何かを吐き出すように。
「でも合唱は別に好きじゃないんだ。嫌いでもないけどね」
「じゃあ、なんで入ったの?」
「好きな人がいたの。小学校から同じ学校の幼馴染み」
言葉を返すことはできなかった。返事を返す代わりに、私はただただ同じ幅で足を動かして無言を貫いた。規則的なようで、ちょっとずれのある高い微かな音がよく響き続けて、彼女は諦めたように空へ語りかけた。
「歌うのが好きで、数学が得意で、世界史の時間は寝てて。宿題の提出が遅れるのは当たり前で」
淡々とした語り口だった。教科書の音読を思い出すそれは、刹那の呼吸の後に微かに揺れた声色で再開された。
「可愛い恋人がいた。背が小さくて、色が白くて、茶色の髪の、華奢な女の子」
言葉は出なかった。ただただ無言を貫いた。それが私の返事だったから。
「でも好きで、好きで。それからもずっと好きだった。あの子と別れたら好きって言おうと思ってたんだ。なのに」
なのに。
「……みーちゃんはさ、やり残したことないの?」
やり残したこと?
「やろうとしてたこと、言おうとしてたこと」
ない、わけがない。いっぱいある。いつかカラオケに行こう、本当は好きだった、部長になりたかった、バレーが、あの仲間が大好きだった。あの狭い規則正しい小さな箱庭に置いてきてしまった。それはそこでしか果たされない期間限定のやりたいことだったから。たった三年間しか着れない窮屈な制服でしかできないことだから。
でも、もう無理だ。制服を着てもコスプレにしかならない。あの箱庭はもう存在しない。だって、全部なくなってしまったから。
「アタシはあるよ」
無言を貫いた。それが答えだから。見上げた空はただただ青かった。あの青い春と同じように。
「こんなことになるなら、ユウトに好きって言えばよかった」
動きが止まった。とても、とても穏やかな停滞。虫の鳴き声さえ響かない静かな世界で、彼女はずっと避け続けてた言葉を発した。
「世界が滅びちゃう前に」
*
ある日突然世界は終わりを告げた。紡ぎあげていた物語のページが消え、なんの伏線も予告もなく終わってしまった。遠くの国の科学者が開発した薬物。得体の知れないそれの耐性を持った人間は私と彼女だけで、ほかの人間は簡単に死んで、消えた。遠くの国の科学者と一緒に。
「これからどうしようか」
後悔をひとしきり思い、ゆーは空を見たまま、歩みを止めた。缶詰と水の入ったリュックサックは地面に転がり、私も同じことをした。
「これから?」
「うん、これから」
彼女は、あなたは何かを思い、俯いて誰かを思った。遠く消えてしまった誰かを。私は無言が返答にならないことを知った。
「海に行くんじゃないの?」
「違う。そのあとだよ」
ずっと青ばかりを見ていた目が私を写した。湛えた微笑はいつも通りで、変わることはない。
「どうしようもないでしょ。もう終わったんだから」
もしどちらかが男だったら馬鹿みたいに快楽に浸って阿呆みたいに子供を増やして。運命だと囁き、妥協し、依存して。アダムとイブごっこをしてただろう。だが、いるのはイブ二人。このまま緩やかに緩やかに停滞し、漂い、消えていくのだ。後味の悪い小説のように。
「そうだね」
頷く彼女はその場に転がっていたリュックサックを背中に戻した。私もそれに倣えば、やかましい金属音が耳に染み付いた。
「さて、気取り直して海に行こう」
ゆーは、あなたはそう笑う。規則正しい箱庭の中でもそう笑っていたんだろう。どうしようもなく懐かしくなった。制服の違う彼女を見ても、恋しくなるのはあの狭苦しい箱庭だった。好きも嫌いも酸いも甘いも詰め込まれた、もうなくなってしまった箱庭を。何もかもがなくなった世界で、家庭でもなくその箱庭を願った。
「うん、行こう」
互いを見ず、ひたすら空を見ていた。授業から逃げるように見ていた空と同じ色だった。喉奥から込み上げてくる何かを空気と一緒に押し込んで、隣にいるあなたに寄りかかった。返ってくる温度だけが独りじゃないと強く、強く訴えていた。きっと、海は近い。
これが地球の後日談。
二人ぼっちの後日談 明神響希 @myouzinsansan
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