第5話 色々な危機

 着替えの最中に、奈々子はドニアの体を見た。華奢で、いかにも少年といった体つきをしている。ただし、あくまでも少年だ。決して女ではなく、股間にはきちんとぶら下がっている。

 奈々子はできるだけ見ないようにしながら、着替えをさせてもらった。自らアンデッドと名乗った少女は、専属のメイドであるかのように的確に仕事をこなした。


「髪はこのままでいいの?」

「カツラをお使いになりますか?」

「そのほうが自然なら」


「参加者の多くがそうしていますから……でも、ご主人様はなくても十分だと思いますよ。周りに合わせて目立たなくなるより、ご自分の魅力を信じられたらいかがでしょう」


「……男なのに?」

「今更、ですよ」

「……そうよねぇ」


 結局、ドレスは着たものの化粧さえせず、奈々子は少女の冷たい手にひかれて部屋を出た。

 非常に不安ではあったが、ドニアはこの世界で生きているのだ。ドニアは魔族で、そのドニアの体に入っているのだから、危険なことはないはずだ。

 奈々子は自分に言い聞かせた。

 奈々子が踏み込もうとしているのは、本の中でしか見たことのない、貴族の舞踏会だった。






 冷たい少女の手をひかれて奈々子が立派な扉の前に立つと、きらびやかではあるがどことなく厳しい、お揃いの服を着た男が腰を折った。たぶん、警護している兵士なのだ。


「ごきげんよう。ご苦労さま」


 舞踏会の出席者であるドニアのほうが立場は上だと信じて、奈々子は澄まして言った。男たちは紅潮して深々と会釈した。どうやら、効果がありすぎたようだ。


「まだ、入れないの?」


 誰に尋ねていいかわからず、奈々子は扉に向かって言った。

 傍の少女が袖を引く。


「パートナーがまだですから。もう少しお待ちください」

「ああ……この界隈では、パートナーと一緒に入るしきたりなのね」

「ご主人様は主賓でいらっしゃいますから」

「そうなの?」


 奈々子は、驚いているとわからないように苦労して尋ねた。その返答をもらえる前に、背後からどすどすと足音が響いていた。


「お待たせしてすまないね、ドニャ。何しろ、この舞踏会用のスーツというものは、実に窮屈だ。君もそう思うだろう?」


 奈々子の隣に並んだのは、上半身が正方形ではないかと思えるような、広い肩幅をした男だった。白いスーツと金銀の縫取りが、いかにも金持ちだと主張しているようだ。


「ええ。そうですわね……あなたは?」

「おやっ! ドニャ、なんて美しい。いつも綺麗だけど、女性にしては少しだけ粗野な感じを受けていたんだけどね……今日はいかにも女性らしく見えるね。それはいいけど、僕のことを知らないような冗談は、ここだけにしてくれたまえよ。結婚してからが思いやられるからね」


 奈々子は、この男がドニアのパートナーなのだと理解した。誰かわからなかったのは確かだが、本人に聞いてしまったのは失敗だ。ただし、奈々子のことを女らしいと言ってくれたことは、素直に嬉しかった。ドニアが女装した男で、中身が本物の女になったのだ。男らしくなったと言われたら、本気で落ち込むところだ。

 扉の向こうから声が聞こえる。


「シェレル伯爵とドニア・フレイエル様でございます」

「おっと、ちょうどいいところだったわけだ」


 隣に立った正方形の伯爵が奈々子の腕を取った。奈々子はその腕に自分の腕を絡める。男は決して奈々子の趣味ではなかったが、そうするのが礼儀であることぐらいは理解していた。

 舞踏会であれば、始まれば男から離れればいい。人気のないところで、静かに時間を潰そう。この時はまだ、そう考えていた。






 ドニアの体は踊りを覚えているということはなく、ダンスは散々だったが、なんとか一曲踊り終え、奈々子は壁際で時間の経過を待った。

 だが、それを許してくれない者は、一人ではなかった。

 パートナーらしいシュレル伯爵はいうに及ばず、伯爵が目をそらした隙に、別の男性が手を差し伸べてくる。

 どの女性もそんな状況なのかと辺りを見回すと、どうやら奈々子の周りだけ、競争が激しいらしい。


「ちょっと……休憩を……」

「よし、案内しよう」

「できれば……一人に……」

「それはいけない。だれが狙っているかわからないからね」


 結局気の休まることはなく、舞踏会が終わる頃、奈々子は寝室にいた。

 自分の寝室ではない。

 どうしてそうなったのか覚えていない。


 だが、その寝室は、初めて見た場所だった。

 男物の服がクローゼットに並んでいる。

 ベッドの上で、全裸のシェレル伯爵が手招いていた。


「……えっ?」

「何をしているんだい? はやくおいで。ドレスなら脱がせてあげるよ。そのままでいいからね」

「……でも……私……男……」


 ドニアは男だったはずだ。どうしたものかと戸惑い、視線が彷徨う。鏡を見た。

 とても綺麗だ。お化粧をしてドレスを着たドニアだ。

 これでは、男たちが参ってしまっても不思議はない。


「もどかしいな」


 奈々子が動かないので、伯爵がベッドを降りた。

 紛れもなく、全裸だった。


「キャア!」


 奈々子は目を手で隠した。


「おや……そんなウブな反応を示されると……ますます興奮しちゃうなぁ」

「ちょ、ちょっと……待って……誰か……」

「僕たちは、婚約を発表するんだ。婚約者が処女のままでは、格好がつかないだろう?」

「や……やめ……」


 伯爵が何を求めているのか、十分に理解できた。だからこそ、嫌なのだ。


「どうしたんだい?」


 声が近い。奈々子の目が払われ、目が開けられる。汚いものが目の前にあった。口元に、押し付けられつつあった。


「いやぁ……」

「ご主人様!」

「ぐふっ……」


 伯爵が目を向いて倒れた。目の前に、小さく可憐な少女がいた。ドニアに仕える、小さな魔物だ。


「……よ、よかったぁ……」


 奈々子は、訳もわからず抱きついた。少女の体はドニアより小さく、抱きしめてしまえた。少女が苦しいかと思い腕を解いたが、少女はむしろ嬉しそうにうつむいていた。


「……ご主人様、大丈夫でしたか?」

「うん……怖かった。もっと早く来てくれればよかったのに……」


 少女は驚いて目を開く。


「そうは行きません。だって……伯爵の融資を取り付けるのが任務ですもの。体ぐらいは仕方ないって、諦めていらしたじゃないですか。ただ……ご主人様があまりにも嫌そうだったので……つい出てきてしまいましたが、本当はいけないことです」


「ううん。そんなことない。任務で体を許すなんて……そっちの方がよっぽど間違っているわ」

「私は、前からそう申し上げていたはずです」

「ごめんなさい。私が間違っていたわ」


 奈々子が謝罪する理由はない。だが間違ったのはドニアで、現在はドニアの体である。奈々子は真剣に謝罪した。


「いいんです。私が夜にベッドで可愛がって頂いているというのも、嘘ですから」

「えっ? どうして? そんなこと……」

「そうだったらいいなと思っておりました。ご主人様が……なんでもいうこと聞いてくれそうな気がしたので、言ってみただけです。ご主人様、こういうこと、本当にお嫌いなのですね。それより、これからどうしましょう? 伯爵から、もう融資は……」


「でも、裸になれば、どうせばれちゃうでしょ。伯爵……男でもいいのかしら?」

「男? ……はっ。ご主人様はそうでしたね。あまりにも女らしい仕草が板についていらしたので、忘れておりました」

「凄いでしょ」


 みんなから女らしいと言われれば、奈々子も悪い気はしない。


「はい。お見事です。でも……伯爵は男でも気にしないという噂でしたし、万が一騒ぎ立てたら、催眠薬で眠らせて、催眠術を……ああ、今使えばいいんですね」

「うん。任せていい?」


 奈々子は、催眠薬も催眠術もわからなかったので、この見た目とは違う優秀な魔物に丸投げした。






 深夜遅く、ようやく一人になった奈々子は、魔物から聞いた通り頭の中に扉をイメージした。

 すると、本当に目の前に扉が現れた。

 そっと扉をあける。

 暗い。

 図書館だ。夜になり、消灯してしまったのだ。


「ドニア、いる?」

「奈々子なの?」


 カウンターの下から、見知った顔が覗いた。20年以上見続けて来た顔だ。


「……どうして隠れているの?」

「……怒られたの」

「誰に……いいえ。言わなくても察しがつくわ」


 奈々子は、仕事中に入れ替わった。仕事を放置して読書していれば、怒られて当然だ。


「そっちはどう?」


ドニアが恐る恐る尋ねる。少しは奈々子のことも心配していたのだろうか。


「……なんか、うまくいったみたい」

「わぁ、凄いや。ねぇ……ここは楽しいけど、やっぱり戻ろうよ」

「わかっている。私も、そのつもりだったから」


 奈々子の顔をしたドニアが首をのばした。扉の隙間に顔が見える。奈々子が同じように首をのばし、唇の先端が、軽く触れ合った。

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