第4話 異世界への旅
その日から、奈々子の背後の扉は2日に一度は開くようになった。
奈々子は主にライトノベルから、魔王が登場しているものを順番にドニアに貸し出した。
ドニアはちゃんと綺麗な状態で本を返した。
とても綺麗に読んでいるのがわかる。
「……ねえ、奈々子、勇者って見たことある?」
「ううん。私はないわ」
突然、ドニアが言い出した。言い出して当然のことだろう。魔王が出てくる小説には、当たり前のように勇者が出てくるのだ。通常は、勇者は魔王を倒す存在である。
「……怖いなぁ。僕が会ったらどうしよう」
奈々子が座る背後の扉の隙間から、ドニアがぶるぶると震えているのが見えた。
「でも、ドニアは大丈夫じゃない?」
「そう?」
「うん。だって……」
奈々子は、ドニアが魔族に見えないとか、魔王にはなれないとか、見た目が可愛いから、という言葉を飲み込んだ。
「ドニアは強いじゃない」
綺麗な顔をした魔族は、ぷるぷると首を振る。
「僕、そんなに強くないよ……この間だって……」
ドニアは、強い魔物から逃げて上司に折檻された話を聞かせ、奈々子を落ち込ませた。
「……ドニア、大変なのね。辛くない? 耐えられる?」
「大丈夫だよ。だって……僕には奈々子がいるもの。他の魔族は、図書館に来ないんでしょ? だったら、奈々子のことを知っているのは僕だけなんだし」
「でも……私じゃ……」
奈々子は司書である。ドニアの言うことを真に受けるならば、ドニアがいるのは中世風ファンタジーそのままの世界で、強い魔物に人間が襲われて食べられてしまうこともあるらしい。
「奈々子はだって……こんなに色々なことを知っているんだもの。怖いものなんてないでしょ」
ドニアの言葉の根拠がわからない。知識が力である。そう考えられるほど、奈々子は博識ではない。本から得た知識を、実戦で使用することができない。
「買い被りよ」
「そう? 僕、ひょっとして、奈々子は勇者じゃないかと思ったんだけど」
「どうしてそう思うの?」
「魔王にとって意外な人物が実は勇者……そんな世界のお話が多かったから」
ドニアは、もう何冊目になるかわからない、ライトノベルの一冊を持ち上げてみせた。一昨日貸し出したばかりだが、もう返却だろうか。
「あははっ。もし本当にそうでも、ドニアを殺したりはしないわ。たとえ……ドニアが出世して、魔王になってもね」
「本当?」
ドニアは、じっと奈々子を見つめた。とてもキラキラした目をしている。人間であれば、絶世の美女だろう。ただし、男であるらしい。
「……うん。私が本当は勇者でも、ドニアを傷つけたりはしないわ」
「約束してくれる?」
「もちろん……どうすればいいの?」
ドニアは、扉の隙間に顔を近づけた。どきりとした。本当に近くに来た。扉の隙間は抜けられない。だが、綺麗な顔が目の前に迫っている。
「誓ってくれる?」
「……仕方ないわね」
奈々子はドニアの意図を察し、扉の隙間に顔を近づける。
一度、手が触れ合ったこともあった。超えることはできない。だが、限界地点で、互いに触れることはできる。
奈々子の顔が、ドニアに寄る。
互いの焦点があわないほど接近し、目を閉ざす。奈々子は、唇が、先端だけとはいえ、何かに触れたことを感じた。
※
目を開けると、奈々子がいた。見知った顔だった。
まるで、鏡を見ているかのようだ。
図書館のカウンターの内側が見える。カウンターの向こうに、図書館が見える。
「あれっ? 僕?」
声を先に発したのは、奈々子の目の前にいる、奈々子によく似た、奈々子の声をした誰かだった。
「あなた、ドニア?」
「えっ? 奈々子なの? 本当に?」
「そうよ。どうなっているの? か、体が……入れ替わったの?」
奈々子の体に入ったドニアが、奈々子の体をぽむぽむと叩く。とても気恥ずかしい。
「……そうみたい。ここ、図書館?」
ドニアはぐるりと見回した。とても、嬉しそうな笑顔を見せる。
奈々子は司書である。本が一番好きだ。本の次に、本を好きな人が好きだ。
「そうよ」
「凄いや……本が沢山ある。ねぇ……読んで来ていい?」
「えっ? ちょっと……このままなの? 元に戻る方法とか、考えなくていいの?」
「……あっ……うん……そうだね……」
ドニアが、急にしょんぼりとした。しょんぼりとしているのは奈々子の体だ。だが、自分が落ち込むより、現在奈々子が入っているドニアが落ち込んだと感じる方が辛かった。
「でも……きっかけはわかっているんだし、同じことをすれば戻れるわ。少しぐらい、本を読んできてもいいわよ。いつも私が渡した本しか読めないんだから……自分で探してみるといいわ。あっ……後3分で交代の時間だから……」
「ありがとう奈々子。大好き」
「えっ? ちょっと……まだ、だめよ。3分経ってからって……まあ……いいか。今日は人が少なかったし」
奈々子に感謝の言葉を残し、ドニアはカウンターをひらりと飛び越して、本棚に向かっていく。その姿に、奈々子は扉の隙間から、癒されていた。
奈々子の姿をしたドニアが本棚の間に消えるのを見届けると、ドニアの姿をした奈々子はすることがなくなり、視線を周囲に向けた。
図書館の中とは、完全に別世界だった。
初めて扉が開いた時、扉の隙間から見えたのは、石の壁と石の床であり、とても行ってみたいとは思えない場所だった。
だが、現在奈々子がいるのは、ふかふかで色鮮やかな絨毯に、花をあしらった華美な壁紙に、体が沈みそうなベッドである。
「……ここ、どこ?」
「ご自分の部屋をお忘れですか?」
突然、部屋の置物かと思っていた少女が尋ねた。とても綺麗で、作り物だと思ったのだ。体が子供のように小さいが、化粧をしたような顔は妙に大人びている。
「あ……あなたは?」
「まさか、私のことをお忘れだと?」
少女の表情は変わらなかったが、ただ声音は実に悲しそうだった。奈々子は慌てて否定する。
「そ、そんなはずはないわ。大丈夫、ずっとわたしの部屋にいる子を、まさか忘れたりはしないわ」
「……私は、当番でご主人様の部屋にいますので、普段はおりませんよ?」
「えっ? 歩けるの?」
「当然です」
部屋の片隅にいた少女が、立ち上がって優雅にくるりと回った。
どうやら、喋る人形ではなく、ドニアに仕える何か、だったようだ。
「ごめんなさい。冗談よ」
「そうだと思いました。それより、今日はもうその扉に用がないなら、しまわれたらいかがでしょう。どこにもつながっていない扉をただ自由に取り出せるだけの能力でも、人間から見れば奇跡の技です。魔族であることがばれてしまいます」
「……どこにもつながっていない?」
「はい。そうおっしゃったのは、ご主人様ですが」
ドニアは、奈々子との関係を秘密にしていたのだろうか。あるいは、この世界のものではない知識をどこで得ているのか、ということを疑われないためかもしれない。あるいは、奈々子以外にドニアの存在を感じられないように、ドニア以外には、奈々子の存在が見えないのかもしれない。
「そ、そうね……でも、しまうって、どうやって?」
「……さあ。ご主人様しかお持ちでないスキルなので、私に聞かれましても……呼び出すときは念じるらしいですが……」
「じゃあ……やってみる……」
奈々子は扉の隙間から覗いた。ドニアの姿はない。図書館で夢中になると、数時間ぐらいは潰してしまうかもしれない。それを、ずっと待っているわけにも行かない。一度、閉じるとしよう。
それに、この世界は怖いと思っていたが、そればかりでもなさそうだ。
奈々子は扉を閉め、消えるように念じた。
扉が消える。その後には何も残らず、少女が意味のない扉をただ出すだけの能力だと言ったのもわかるような気がした。
「わたしはこれから、どうすればいいのかしら?」
「……伯爵に気に入られる訓練は万全のようですから、舞踏会のために着替えをいたしますか」
「えっ?」
少女は立ち上がり、クローゼットと思われる引き戸を開けた。
その中から、次々と女物の衣装を取り出した。
「でも、今まで男のご主人様が、女装して男の伯爵に色目を使うのは嫌だって渋っていたのに、どうしてやる気になったのです? 確かに、この任務を果たさないとフレイエル様のお屋敷には戻れませんけど、ただ女装しているだけで何人もの男性に告白されるご主人様なら、言葉遣いまで無理に直さなくても、十分な成果を得られると申し上げましたのに」
少女は言いながら、ドレスを持ってきた。奈々子の手を掴んで姿見の前に移動させようとして、奈々子は思わず口走った。
「冷たい。手、どうしたの?」
奈々子の声に反応し、少女が上目遣いでふり仰ぐ。それだけ、少女の背は低かった。年齢にして、五歳児ぐらいしかないかもしれない。その割には、実にはっきりと口が回る。
「私は体温がありませんから、冷たいのは当然です。アンデッドですもの。ご主人様もご存知でしょう? そんなこと気にせず……いつもベッドで可愛がってくださいますのに」
「……アンデッド? 可愛がって?」
「はい」
少女は、表情の変化が少ない。アンデッドと言われれば、まず不死系のモンスターだ。奈々子が読むライトノベルでも、ゾンビやスケルトンといった魔物が思いつく。
「ベッドで、可愛がって?」
信じられない思いが強く、部分的に繰り返した。
「はい。昨日も……何度も……」
「……なにを……いえ……わかっている。なんでもないわ」
ドニアは魔族だ。この少女は魔物だ。奈々子は一瞬でドニアを軽蔑したが、そもそも価値観が違うのだ。少女も、外見こそ幼いが成長しないのだろうから、これ以上大人になるということはない。そう考えれば、当然のことだ。
問題は、現在の奈々子が少女から求められた場合に、どうすれば傷つけずに拒否できるかということでしかない。
「……舞踏会って、いつあるの?」
「もう始まっております。主役のである伯爵とご主人様の出番はもう少し後ですから、着替えをすませてしまいましょう」
断れない。少女に言われるまま、奈々子はドレスに着替えた。
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