第2話 夕刻の残り火

「ほう! ほうほう! これはたいそう美味いのう!」

 そして、カヤリと名乗った不思議な男の子は、こうして絵里の横でソフトクリーム片手に頬をほころばせている。

「そんなにおいしい?」

「とてもとても美味じゃぞ! この世にこのようなものがあるなぞ知らんかったわい!」

 知らなかったなんて、いったいどこのド田舎から来たんだろう。そう思ったのだけど、カヤリがあんまりに嬉しそうなので何も言わなかった。かわりに絵里は、本日二本目のアイスキャンディーをぺろり。

(こうしてると、仕草は普通の男の子なんだけどなあ……)

 絵里はうーんと首をひねりながら、隣にちょこんと座ったカヤリを見やる。

 木の匂いの香る、小さな木造家屋の何でも屋さん。その軒先のベンチ。そこでソフトクリームを頬張るカヤリの顔自体も、同じようにすっかりとろけている。絵面だけはどこにでもありそうな光景だけれど、その髪と目は不思議な幾つもの赤色にくるくると色を変える。

 どこかで見たような懐かしさを覚える、けれど初めて見る色。

「ねえ、カヤリって、どういう字を書くの?」

「字なぞない。ただのカヤリじゃ」

 なんとなく、そんな答えが返ってくるような気はしていた。

 聞き慣れない名前。見慣れない容姿。ちぐはぐな口調。――本当に、どこから来たんだろうと思う。

 「今からこの町を案内せい!」というその勢いに押されて、あれから絵里は言われるままに町中を案内して回った。よくわからないから、古い日本家屋の建ち並ぶ通りとか、昔ながらの小物屋だったり時計屋だったりとか、青々と茂る田んぼのあぜ道とか、都会から来た人たちが喜びそうなところから案内してみた。けれど、そんなものにはカヤリは全然興味を示さず、ふむふむとうなずきながら眺めているだけだった。

 一番反応があったのは、最近できたこの町唯一のコンビニに行ったときだ。まず自動ドアに大興奮して、出たり入ったりを十回は繰り返して店員さんを不審がらせた。そして店内の涼しさに驚き、置いてあるちょっとした携帯機器だったりお菓子だったりの商品にいちいち目をくりくりさせ、最終的にレジの機械に触りたがって中まで入ろうとするから無理矢理手を引いて退散してきた。

 よほどの田舎から来たのだろうか。それともいっそ外国とか。

「なんじゃ人の顔をまじまじと見て。何かついとるかや?」

「な、なんでもないよ」

 で、その後どうしたのかというと、散々はしゃいだのは自分なくせに、今度は疲れた休みたいと盛大にゴネ始めた。だからこうして仲良くよろづ屋の軒先に収まっている。

 お兄から奪った当たり棒がようやく活躍。カヤリのソフトクリームは、仕方ないので絵里のなけなしの小遣いから。

「ヌシ! なんなのじゃこれは!」

 どこからかカヤリの舌足らずな大きな声があがる。振り向くと、いつの間にかカヤリの姿は絵里の隣から忽然と消えていた。かわりに店先の展示台の上をきらきらした目でのぞき込んでいて、見れば他のおもちゃと一緒に携帯ゲーム機が置いてある。

「何やらボタンがたくさんあるのじゃ! 押したら動くのじゃ! なんなのじゃこれは!」

「そっか、コンビニ知らないとゲーム機も知らないんだ……」

「なんじゃ!?」

「え、えーっとね」

 ゲーム機といってもこの町はちょっと時代の流れに取り残されていて、二世代くらい前のもの。ゲーム店がないこの町の子どもたちの嘆きを聞き入れて、よろづ屋のおばちゃんが仕入れ始めたのだ。

「これはゲーム機だよ。これとこのボタンを、こうやってこうしてこうすると……」

「ほおお!?」

 カヤリのただでさえ大きな瞳が、それこそ倍くらいにまん丸になる。くるくる動く瞳に会わせて、吸い込まれそうな赤色もゆらゆらと揺れる。まるで、彼の感情に合わせているみたい。

 夢中でゲーム機をいじり回し始めたカヤリに少し呆れながら、絵里は店内の棚に目を向ける。

(相変わらず、すごい店だなあ)

 いつからあるのかわからない埃をかぶった食器たちの横に、スマホの充電器があったかと思えば、ラムネボトルグミやらプリンチョコやらの駄菓子が並んだかと思えば、表には今時のゲーム機たち。他にも多種多様の日用品あり。

 店主の言い分はというと、みんなの要望を素直に聞いていたらこうなった、らしい。

「絵里ちゃん、あの子誰なんだい? 外人さんっぽいけど、知り合いの子かい……?」

 そのちょっと素直すぎる気もする、今も昔もなんでもござれ、よろづ屋火織のおばちゃんは絵里に向かって不審げな表情を隠さない。

「いやあ、私もぜんっぜんよくわからないんですけど……」

 素直に本音を言ったら、ますますおばちゃんの眉毛がくいっと曲がった。

「あ、おばちゃん! 提灯ちょうだい提灯!」

「ああ、今日の夏祭り用だね。はいよっと」

 追求されたところで何も答えられないので、絵里は慌てて話題を変える。実際に用があったのは事実だ。火を灯すための手持ちの提灯は、年に一度の夏祭りの必需品。

「――今日は、夏祭りなのかや?」

 いきなり背後で声がして、絵里は思わず飛び上がってしまった。ゲームに夢中になっていたはずのカヤリが、いつの間にか絵里の真後ろにいる。さっきまで子どもらしくクリクリ動いていた瞳は、今は絵里をじっと見つめて離さず、似つかわしくない深淵の奥深さに息をのむ。思わず、気圧されそうだった。

「そ、そうだよ。今晩は年に一度の夏祭り。火の神様のお祭りだよ」

 火織町の花火は神様の花火。その意味は今となっては定かではないが、確かに火織町には神様がいた、らしい。火の神様だということしか伝わっていないその名もなき神は、今もひっそりと町外れの神社に祀られている。

「火の神様のお祭っていっても、ちょっと使われる火の数が多いかな? ってくらいで、大したことしてないんだけどね。カヤリ、夜になったら見にいく?」

「……いや、良い。どうせそこまで保たぬじゃろう」

「え?」

 何気ない提案は、やんわりと否定の言葉で押し返された。

 少し苦笑したような表情は、深みを帯びた瞳の赤と相まって、どこか儚さというか線の薄さのようなものを感じさせる。

 絵里はそれを、寂しそうだと思ってしまった。――どうしてこの子は、時々年に似合わない遠くを見るような目をするのだろう。

「ヌシ、ワシは最後にあそこに行きたいぞ!」

 ふいに、打って変わって明るいカヤリの声がする。この変わり身の早さにもしばしば戸惑う。

 そんな絵里の気も知らず、カヤリはもう外に向かってすたすたと歩き始めていた。

 そして見た目にちぐはぐな、とっても偉そうな尊大な態度で振り返る。

「花火師たちの工房じゃ。連れて行くがよい!」


 

 少し町を外れたところにある火織花火工房は、多分火織町で一番大きな建物だと思う。切り出した石を積み上げた壁は、薄汚れてはいるものの、横長の堂々とした造りと相まって長年の風格を感じさせる。もっとも、何十人も職人を抱えていた昔とは違い、今はごく一部の部屋しか使っていないらしいけど。

 そんな歴史ある花火工房の外は、本番当日の特殊な活気と緊張感に満ちていた。

「あれえ、絵里ちゃん。珍しいねえ」

「高木のおじちゃん!」

 入り口付近には軽トラックが二台乗り付けていて、職人の男たちが花火大会で使う機材を積み込んでいる真っ最中だった。そのうちの一人が絵里に声をかけてくる。

「どうしたの? お父さんに用事?」

「えーっと、用事ってほどじゃないんですけど。うちのバカ親父ちゃんと仕事してるかなあ、なんて」

 まんざら嘘でもない。数時間前まで縁側の住人と化していたあの呑気者も、さすがにもう来ていると信じたいが。

 そんな内情を全部知っているわけではないと思うけど、高木のおじちゃんは察したように軽快な笑い声をたてる。

「あはは、琢馬さんなら中にいるよ、呼ぶ?」

「いや、来てるならいいんです」

 そうかい、とおじちゃんはうなずいてから、絵里の後ろに無言で立っているカヤリに気付いて目を瞬かせた。

「きみは――」

「ヌシは、ここの職人かや?」

 おじちゃんの問いに答えもせず、カヤリの質問が飛ぶ。おじちゃんがますます戸惑う気配がする。ああだめだ、見ていられない。

「そう、だけど」

「そうかや、なら邪魔するでの」

 おろおろしている絵里の横も、呆気にとられているおじちゃんの横もすり抜けて、カヤリはすたすたと歩いて行ってしまう。おじちゃんにすみませんと頭を下げて、絵里は慌ててその背に追いすがった。

 軽トラックにはすでに、たくさんの打ち上げ筒がところ狭しと並べられていた。その隣に、投げ入れ用の火薬が詰まった箱が置かれる。

 火織の花火は、今時流行らない手打ち上げだ。着々と電子化が進むこのご時世、後を継ぐ人が減っているのは多分そのせいもあるんだろう。

「カヤリ、待ってよ!」

 呼び止めても、癖っ毛の小さな姿は少しも歩く速さをゆるめない。次々と機材を運び出している職人たちの不審な視線をものともせず、カヤリはどんどん工房の入り口へと突き進んでいく。

 そして絵里が追いついた時にはもう、カヤリは鉄扉の開け放たれた入り口をくぐっていた。

「カヤリ」

 薄暗い室内の中で深みを帯びた赤色の向こうに、石壁の小さな部屋が広がる。壁いっぱいに備え付けられた木組みの棚には使い古された工具が並び、中央の机には新聞紙や花火玉皮が無造作に置かれている。そして、つんと鼻をくすぐる火薬の臭い。

 懐かしさを含んだ心地よさが広がる。昔はよく祖父の源蔵や琢馬の後を追いかけて、絵里も工房に遊びに来ていた。昔気質の源蔵は「工房に女が来るもんじゃない」と顔をしかめたが、決して追い返そうとはしなかった。

「……かわらんの、ここは」

 ぽつりと、部屋の空気に紛れてしまいそうな、カヤリの微かな声がした。

 その背中はどこか寂しそうで、声をかけることをためらったその時。

「あれ、絵里?」

 部屋の奥の扉が開いて、やたらと背の高いつんつん頭の男性が顔をのぞかせる。通路の広さにおさまりきらないその巨体に、サイズの合わない青縞の作業着がなんだかおかしい。

 父ちゃん、と絵里が呼びかけるよりも早く、カヤリが深い赤色の瞳を見開く。瞳の奥で驚愕の色が揺れる。

「源蔵……?」

 「え?」と琢馬の顔が戸惑いにゆがんだ。それを見たカヤリはすぐに首を振り、ふうっと長いため息をつく。

「ありえぬな……さては息子か。よう似ておるものじゃ」

 おかしなカヤリの言動にすっかり琢馬は困惑している。泳いだ視線が絵里に向かうが、絵里も絵里で曖昧な笑いしか返せない。そしてそんな状況でも、カヤリはまったく気にしていないのだった。

「して、息子よ!」

「は、はい!」

 泣いても笑っても親子は親子なのか、どこかで聞いたような会話だ。

「この工房も随分と寂しゅうなったものじゃな。先行きは大丈夫なのかや?」

「えーっと……職人ももう五人しかいないし、新しい人も入らないし、結構厳しい、かも」

 なんでそんなこと聞くんだ、と顔に書いてある。それでも答えてしまうあたりが琢馬らしい。

 カヤリはそれに「そうか」とだけ返し、無言のままきびすを返す。すれ違いざまにのぞき見た不可思議な瞳は、見通すことのできない深紅色。

「いずれ消えゆく定め、か。……ワシと一緒じゃな」

「カヤリ?」

 呼んだ名前に反応はない。

 今までのやたらと尊大で偉そうな態度はすっかり鳴りを潜め、案内しろ! とも、行くぞ! とも言われなかった。

 ただ無言でカヤリはその場を去って行く。小さな背中がよりいっそう小さく見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。

  


「カヤリ、カヤリってば!」

 追いかけて追いかけて、何度も名前を呼んだ末に、ようやくカヤリは立ち止まった。

 小さな肩は、まるで強すぎる日の下でしおれてしまった花のよう。何か声をかけたいのに、発する言葉さえわからない。もどかしい。

「カヤリ」

「――これは、なんじゃ?」

 背を向けたままカヤリが尋ねてくる。一拍おいて、道路の両脇に規則正しく並んだ和紙張りの灯籠のことを言っているのだと気付く。和紙には川の流れや鳥の絵が涼やかに描かれ、曲がり角に消えるまで等間隔で丁寧に並べられている。

「これは、今日のお祭のための灯籠だよ。夕方になったら全部に火が点るんだよ」

 すでに日は傾きかけており、暑さも幾分ましになったような気がする。数え切れない炎たちが祭り会場への道を形作るまで、あと少し。

「この灯籠の火と、あとお祭に行く人たちはみんな火のついた提灯をもつの。それで、他の電気は全部消すんだ。たーっくさんの火が町中を照らして、とっても綺麗なんだよ」

 ようやく絵里はカヤリの隣に並んだ。絵里の手にもまた、よろづ屋で買った提灯が握られている。

 小さな少年は、大きな瞳で道の先をじっと見つめている。「そうか」と、深いため息にも似た声がした。

「ずっと、火は点り続けておったんじゃな」

 揺らめく赤は深く濃く、ずっと遠くを見るよう。

「神などおらんでも、火は絶えることなどないのじゃな」

 すっと、隣に立っていたはずのカヤリが絵里に背を向ける。続く小さな足音は徐々に絵里から遠ざかっていく。

「ヌシ、そこを動くでないぞ」

「え?」

「これ、振り返るのもなしじゃ」

 そう言われて、絵里は身じろぎもできない。息を潜めてじっとしていると、くすりとした笑い声が風に乗って届く。

「今日の礼じゃ。最後に楽しかったゆえな」

 その瞬間、握り混んだ提灯の取っ手から、右手にじわりと熱さが伝わってくる。驚いて目の前に掲げたその中、薄い和紙で囲まれた中央で、鮮やかな赤い炎が弾け飛んだ。

 生き物のようにうねって激しく燃え上がったのは一瞬のこと、やがて丸いやわらかな火に変わって絵里の手の中で灯りを灯す。

 その炎はゆらゆらと揺れる度に、意思があるかのように表情を変える。鮮やかな赤色。沈んだ紅色。深い深い緋色――まるで、カヤリの瞳のよう。

(綺麗)

 息をするのも忘れて見とれていると、後ろから偉そうなカヤリの声がした。

「それぐらいしかできぬが許せ。守りをつけたゆえ風程度では消えぬが、これから来る夕立には気をつけるのじゃな」

 その声は、どこか遠くから聞こえるかのようだった。

「では達者でな――夕立が過ぎれば、もう二度と会わぬじゃろう」

 真横を強い風が通り抜けていく。

 徐々に遠ざかっていく声。残響を残して、やがてその気配はぴたりと止んだ。

 はっとして絵里が振り返った時には――そこにはもう誰の姿もない。

「カヤリ」

 呼びかけには少しの反応もなかった。まるで夢を見ていたのかと思うほど、そこにはいつもと少しも変わらない町の風景が広がっている。

 ただ、握りしめた絵里の手の中で、カヤリに似た鮮やかな炎だけが静かに無数の赤色を散らしていた。

 西日も陰り始めた夕刻の中、絵里はいつまでも立ち尽くしていたのだった。


 カヤリ。きみはいったい、何者だったの。

 どうしてそんなに、寂しそうな顔をしていたの?

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