第3話 カヤリ
予報にもなかった突然の夕立が降り始めたのは、絵里が家に帰り着くなり突然のことだった。
「雨止まないわねえ」
「うーん」
台所の母の千里の声に、絵里は縁側で膝を抱えたまま生返事をかえす。
「灯籠とか、花火とか大丈夫かしらねえ」
「うーん……」
「聞いてるの?」と呆れた声が飛んできたが、絵里は無言で膝を抱え直した。
目前の庭の風景は、無数の雨の線に遮られて霞がかったように映る。雑多に手入れされた雑草混じりの芝生に、水滴が打ち付けては土の臭いを散らして弾け飛ぶ。
「絵里、もう提灯に火をつけたの? 馬鹿に準備が早いのね、家燃やすんじゃないわよ」
「燃やさないってば」
いつの間にか千里が縁側に立っていて、先ほど慌てて取り込んだままの洗濯物の山を回収していく。母の足から避けるように、絵里は側にあった提灯を引き寄せた。
数多の赤に移り変る鮮やかな炎は、少しの風くらいでは少しも衰えずに燃え続けていた。――本当に、カヤリの言った通り。
(カヤリ、どこに行ったんだろう)
最後の寂しそうな顔を思い出して胸のざわつきを覚えた時、二階からドタドタと騒がしい物音がした。
「おいっ! 絵里! これ見ろ!」
「父ちゃん!?」
振り返れば、琢馬が階段を転がり落ちるように降りてくる。思いもかけない姿に、絵里は思わず立ち上がっていた。
「なんでいるの!? 花火玉とか大丈夫なの?」
「今帰ってきたんだ、心配しなくても現地の雨よけ作業はばっちりだぞ! そんなことより、この写真を見ろ!」
ぐいっと強引に差し出されたのは、古ぼけた白黒写真だった。映っているのは三人、まだ還暦手前と思われる祖父の源蔵と、二人の小さな子どもたち。
一人はおかっぱ頭の見知らぬ女の子。そしてもう一人は、
「カヤリ……?」
「そうだ、さっきの男の子にそっくりだ。どっかで見たことある気がしたんだ!」
呆然とつぶやいた絵里に、琢馬の興奮した声が降ってくる。
白黒だから色まではわからない。でもこの大きな瞳、どこか偉そうな表情、かすり十字の着物、世の中にこんなに似た他人がいるなんて思えない。
それがたとえ、時の止まった何十年前ともしれない写真の中だとしても。
「親父がな、一度だけ酔っ払って俺にこの写真を見せたことがある。俺は神様と友達なんだ、赤い髪と目の可愛らしい火の神様なんだって……!」
「かみ、さま」
言葉を噛みしめて、視線を提灯の炎に落とし、再び写真に戻す。
このご時世に、いったい何を言っているんだろうと思った。琢馬の顔を見れば彼だって心から信じてやしないのはよくわかる。
でもそれ以上に、神様という言葉は絵里の中にごく自然に着地していた。不思議な赤色、おかしな口調、なぜか祖父に対しては呼び捨て――そして決して消えない残り火。
そして、彼は最後に何と言った――?
「カヤリ、二度と会わないって言ってた……」
「なんだって?」
琢馬の声も、もはや絵里には聞こえていない。
「カヤリ言ってた。夕立が過ぎれば二度と会わないって! これが最後だって! 火は雨で消えちゃうのに……!」
「ちょ、おい絵里っ!」
居間を飛び出し廊下を駆け抜け、夢中で走り出した背後から、琢馬の制止の声が追いかけてくる。
それを振り切り、絵里は雨の降りしきる外へ飛び出していた。
◆
男の子の、雨ざらしの萌葱の着物に冷たい雨が打ち付ける。濡れ鼠の髪は本来とはほど遠いくすんだ茶色、一人立ち尽くした姿は薄暗い境内の景色にとけ消えてしまいそう。
鼓膜を覆うのは、さざめきのような雨音。
どこまでが自分の輪郭で、どこからが水滴なのか、目をつむっているとそんなこともわからなくなってくる。
そんな世界で、カヤリはそっと薄目を開けた。
(視界が霞む……)
滝のような雨の中、みすぼらしい神社の本殿の姿が揺らぐ。
雨の打ち付けるところから自分の感覚がおぼろになっていくのは、決して比喩ではないのだと理解していた。
(でも、これでいい)
雨に打たれれば火は消える。そんなことは必然。おそらく、もっと早くこうするべきだったのだ。
(ヒヨ、待ってくれておるか)
ほっとした思いを抱いて、カヤリが再び目を閉じたその時、
「――カヤリ! 何やってるの!」
見知った少女の強い声とともに、頭上で花が開く音がした。
◆
「カヤリ!」
父の大きな雨傘を広げて、絵里は強い口調で名前を呼んだ。けれど目の前の男の子は、木造の小さな本殿の方を向いたまま、振り返る気配すら見せなかった。
小さな肩は寒々しくて、くすんだ髪からはぽたぽたと水滴が滴り落ちている。
「カヤリ」
ぎゅっと胸をつかまれた思いがして、絵里の声まで沈んでいく。
小さな姿を抱きしめたいような気もする。でも彼自身が全力でそれを拒否している。
「……余計な、ことを」
ぽつりと落ちた言葉に絵里の心はざわつく。
「余計?」
「ああ、余計じゃ。いらぬ世話じゃ」
「こんなびしょ濡れで何言って……」
「このまま雨の下におれば、跡形もなく消えてしまえたものをっ!」
カヤリの強い口調に、絵里は思わず両目を見開いた。
雨に濡れれば消えてしまうと、そんなありえないことを言うこの少年はやはり、
「本当に、火の神様……?」
火織の火の神様。この神社の主。呆然と口にした絵里に、カヤリのため息が聞こえる。
「すでに知れておったのか。そうじゃ、ヌシの思っておる通りじゃよ」
「じゃあなんでなおさら……! ともかく神社の中入ろうよ!」
カヤリの小さな手を引っ張ったが、小さな体はてこでも動かなかった。
「嫌じゃ」
「でもこんなとこじゃあ……」
「嫌じゃ、ワシはここから動かぬ」
「カヤリ」
「嫌じゃったら嫌なのじゃ!」
乱暴にはねのけられる手。頑ななカヤリの態度に、絵里はしばらく考えあぐねていたが、やがてその場でそっと膝を折った。
傘を肩で支えて、両手をカヤリへと伸ばす。
「仕方ないなあ、もう」
持ってきたタオルを、ふわりと彼のしぼんだ髪にかぶせた。
そのままゴシゴシと拭き始めた絵里に、カヤリは最初こそジタバタと抵抗していたが、そのうち諦めたように大人しくなる。
背中の刺々しさが、少し和らいだようにも感じられた。
「ヌシは強引じゃのう……。まるでヒヨのようじゃ」
「ヒヨ?」
「二十年前まで一緒におった、ワシと同じ火の神じゃ。人の言葉で言うなら連れ合いのようなものじゃった」
その言葉に、絵里の頭の中にぱっと思いつくものがある。
「ひょっとして、じっちゃんの写真に一緒に写ってたおかっぱ頭の女の子? 今その子は?」
少し間があった。
「もう、おらん」
その声は、ため息に紛れそうな微かなものだった。
「……ごめん」
「よい。口にしようがしまいが、事実は変わらぬ」
それきり黙ってしまったカヤリの頭や背中を、絵里は無言でゴシゴシこする。
続く言葉は思いつかない。雨音の分厚い壁を、突き抜ける術もわからない。
「――昔は、火の神もたくさんおってのう」
ふいに、雨音に溶け消えそうな静かさで、カヤリがぽつりぽつりと話し始める。
「八百万津の神と言うであろう。自然一つ一つに神が宿るように、一つ一つの火にも神がおったのじゃ。ワシみたいな下っ端の神が数え切れぬほどおって、その上に大神様がいらっしゃった」
「……うん」
「けどのう、ワシら神は所詮人の信仰の下に存在するものじゃ。信心深い人間が減れば減るほど仲間は力を失って消えていき、ここを訪れる者もめっきりおらんなった頃、とうとう大神様の姿が見えんなってしもうた」
「……」
「それからはあっという間での、気付けばヒヨと二人きりになっとった。じゃけど、二人一緒ならそれもいいかと思っての、しばらくは二人穏やかに暮らしとった。でも、ある朝目覚めると、ワシは一人きりじゃった」
続ける声は、少し震えていたように思う。
「皆、おらんなってしもうた。ワシだけが取り残されたところで、力は失われていくばかりでどうすることもできん。だから、決めたのじゃ。寂しいのも歯がゆいのも、たった一人でじわじわと消えゆく己の炎を見つめるのも、もう嫌なのじゃ。こんな、いつか消える役立たずの火なら、さっさと消してしまえばいいと思うたのじゃ」
目に入るのはカヤリの小さな背中ばかり。後ろを向いた彼の顔も瞳も、何一つ絵里には推し量れない。その距離が、もどかしい。
「だめ、だよ」
胸が痛い。泣きそうな切なさをこらえて、絵里は声を絞り出した。
「だめだよ、消えちゃうなんてだめだよ」
「ヌシ何を……」
「役立たずなんて嘘だ。そんなに綺麗な炎を、消しちゃだめだよ……っ!」
はっとしたようにカヤリが口をつぐむ。絵里は「それに」と言葉を紡ぐ。
「カヤリがいなくなったら寂しいよ……」
沈黙が淀む。その末にぎゅっと握りしめられたカヤリの手は、微かに震えていた。
「何がわかるというのじゃ」
「カヤ……」
「ヌシなどに何がわかる。大神様もヒヨも、ヌシら人のせいでいなくなったのではないか。ヌシらが、もうワシらはいらぬと言うたのじゃろう!!」
――かける言葉などあるはずがなかった。
怒りと悲しみとない交ぜになったカヤリの感情の渦が、絵里の喉を詰まらせる。
こんなに近くで触れているのに届かない。届きたいのに、その方法さえわからない。
タオルがぱさりと地面に落ちる。
背を向けた少年の髪はよりいっそう沈んだ茶褐色。
沈黙の落ちる境内で、雨の打ち付ける音だけが、静かに空気を染めていた。
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