ちび神様と夜空の花
井槻世菜
第1話 不思議な赤色
真夏の射すような日差しも、夏林の豊かな青葉が生い茂るこの場所までは届かない。
静寂の落ちる涼やかな雑木林の神社は、今日も訪れる者などいない――はずだった。
コトリ
控えめな音が響き、本殿の低い階段を上った賽銭箱の向こう、古びた引き戸がすうっと開く。中からひょこりと顔をのぞかせたのは、萌葱色のかすれ十字の着物を着た、小さな男の子。
彼は落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見渡し、それから枯れ葉の積もった石階段をとことこと降り始める。十歳程の見た目にしては、歩き始めの稚児のように、どこかおぼつかない足取りだった。
とん、と下駄の音を鳴らせて石畳の地面に着地した瞬間、ふいに突風が辺りの砂利を巻き上げる。同じく風にもて遊ばれる男の子の癖っ毛に、木々の夏葉の切れ目から射し込んだ日差しが、そっと光の線を落とした。
――それはとても不思議な色だった。一見ただの薄茶色の髪も瞳も、光の下では鮮やかな赤へと移り変わる。そればかりか光の微妙な加減でゆらゆらと色を変え、まるで生き物のように無数の色が舞い遊ぶ。
けれど、それを目にする者はここには誰もいない。
男の子は下駄の軽い音を響かせながら、神社の境内をかけていく。
やがて鳥居の向こうに消えていった不思議な赤色を、覆い隠すような背の高い木々たちだけが、静かに見つめていたのだった。
◆
火織町(ひおりちよう)の花火は神様の花火。
それは祖父の口癖だったけれど、絵里がそれはどういう意味だと何回尋ねても、ついぞ本当のことは教えてくれなかった。その祖父もある日ぽっくりといなくなってしまい、聞き飽きたセリフを言う者がいなくなってから優に三年が経つ。
……ああ、誰もいないと言うと語弊があった。一応いるにはいたっけ、時々思い出したように真似をするやつが。
「ぷはー、真夏のビールはうまいねぇ!」
それが誰かというと、今まさに隣で缶ビール片手にとろけている中年男性。つまり絵里の父親。
「ふやけすぎて目がなくなってるよ。あと、酔っ払うには太陽がピカピカ光りすぎだよ、おっちゃん」
タヌキのようなヘンテコなキャラクターのTシャツを着たツンツン頭の男性に、絵里は冷ややかな視線を投げる。彼は縁側に寝そべったまま絵里をにらむ。けれど無駄に長い背丈が余計にだらしなさを助長させているから、正直何の迫力もない。
「こら、父親に向かっておっちゃんとはなんだ」
「だってどう見てもおっちゃんじゃん」
つれなく返し、絵里は右手のアイスキャンディーをぺろりとなめる。ヒンヤリとした感触が気持ちいい。これぞ夏の醍醐味、ビールなんかよりよっぽど健康的。
「さすがに今日が何の日かはわかってるよね? 準備は?」
「だーいじょうぶ! 俺を誰だと思ってる!」
「いや、父ちゃんだから心配してるんだよ!」
はぁーっと大げさなため息を漏らし、絵里は縁側から両足を突き出したまま空を見上げる。ショートパンツからのぞく健康的な両足に、遠慮なく照りつける現役バリバリの夏の太陽。彼はまだ空の一番高いところで元気に仕事している。この勤勉さを、父の琢馬にも見習ってほしい。
「疑り深いなあ。心配ご無用、父ちゃんにどーんと任せとけ!」
「その根拠はどこから」
「ちゃんとあるぞ。なんたって、火織町の花火は〝神様の花火〟だからな!」
……あーでたでた。でたよ。こういう時だけ都合良く真似するんだこの人は。
「その意味知ってて言ってる?」
「いや、知らん」
「知らんのんかいっ」
突っ込みついでに手を伸ばしてチョップをいれる。すると「ううっ」とオーバーな反応をされて、一気に脱力感が襲ってくる。
「……父ちゃんなんかが火織町の花火師の頭領なんて、絶対何か間違ってるよ」
「間違ってない。親分だぞ、社長様だぞ、もっと敬え娘よ」
またわけのわからないことを言い始める琢馬を軽く小突くと、やっぱり大仰なうめき声が返ってくる。……やめよう、寒い漫才に加担している気分になってくる。
火織町――火を織る町。そう名付けられた絵里の住む町は、昔は随分と栄えた花火職人たちの町だったらしい。らしいというのは、今はもう廃れてしまって職人も五人程しかおらず、観光客も滅多に来ない無名の田舎町と化しているからだ。
見所と言えば、絵里の家も含めて所々に残っている昔ながらの町並みくらい。歴史マニアには密かに人気らしいけど、生まれてずっと火織に住んでいる絵里からすれば、都会の今風な建物がうらやましい。
とりあえずエアコン。なんで今時エアコンすらないんだろう。日本家屋だって暑い時は暑いよ、だって夏だもん。
「おー、お前いいもん食ってんなあ」
背後から涼しい声がして、絵里のショートカットの髪にわしゃっと手が置かれる。面倒だから振り返らない。見なくても、父親似の図体ばかりでかい体でニヤつく大樹の姿が目に浮かぶ。
「最後の一個。お兄のはないもん」
「ふーん?」
やけに興味のなさそうな返事の後に、どかっと腰を下ろす木の軋む音がした。なんだか嫌な予感。
「あっち行ってよ、お兄が来たら人口密度があがるじゃん」
「俺よか、そっちのおっさんの方がよっぽど面積占めてんぞ」
さらっと言った大樹の台詞に本人からの反論はない。かわりに、ぐーという間抜けな寝息。
「おう、頼りがいのある棟梁様だな?」
「う……」
頭が痛い。そして不安しかない。
この荒谷家は、代々火織町の花火職人を束ねてきた家柄だ。じっちゃんこと荒谷源蔵が十代目。そして琢馬が、今となっては風前の灯火の火織の花火業の、その灯火より頼りない十一代目。
一応今日は年に一度の夏祭りで、廃れかけてるとはいえ火織名物の花火大会のはずで、花火師たちの腕の見せどころ。なんだけど、そんな日でさえ油を売っているダメ十一代目。ちゃんと頭領をこなせているのかは、荒谷家最大の謎。
「――すきありっ」
「へっ!? あー!!」
いきなり悪戯っぽい声とともに大樹の長い腕が伸びてくる。あっと思った次の瞬間、絵里は悲鳴のような声をあげていた。
だって、ない。さっきまで絵里が持っていたアイスがない。
「ああああ! お兄のばかー!」
「へっへー」
抵抗も空しく最後のアイスが大樹の口に吸い込まれて消える。悔しい絵里は大樹の頭をぽこぽこと叩き始めるが、悲しいかな背丈はつま先立ちでようやく届く程度。
「ばかばかばかばかばか!」
「いってぇな、頭叩いたら脳みそが減るだろうが」
「お兄の脳みそ減っても大して変わらな……」
「は?」
「なんでもないっ」
絵里の力なんて彼にとっては風が吹く程度のものでしかなく、段々腕も疲れてくる。諦めた絵里が、渋々踵を床に戻したその時だった。
にゃあ
突然、絵里の横から猫の鳴き声がした。
正直、あまりに静かで今の今まで存在も忘れていたのだが、そこにはトラ猫のトラが溶けたアイスクリームのごとくへたり込んでいたはずだった。
けれど今彼は立ち上がり、まん丸に見開いた目でじっと庭の外を見つめている。雑草の生えた庭の向こう、家を区切る石垣のさらに向こう、赤い影がわずかに見えた――ような気がした。
「にゃあー!」
「ちょっと、トラ!?」
突然外に向かって走り出したトラに、絵里は戸惑った声を上げる。伸ばした手もすり抜けて、トラはあっという間に石垣を飛び上がりその向こうに消えていく。
絵里は間抜けに口を開けたまま、しばらく呆気にとられていた。トラは絵里の家で一番の老体で、家から外に出ることさえ滅多にない。それどころか、糸のように細い目が開けられることさえ珍しかったというのに。
「ねえ、トラ行っちゃったよ!?」
慌てて琢馬を揺り起こすも、いつの間にか寝ていたらしい彼はとろんとした目で絵里を見る。
「ん……そのうち帰ってくるんじゃないか?」
「のんきすぎるって、どっかでへばっちゃったらどうするの!?
「妹よ、こういう時うちの親父は頼りにならない。とゆーわけで出番だちび猿」
「へ、私!?」
ていうか猿じゃない! そう絵里が大樹をにらむが早いか、大樹が手に持った何かを絵里の前にぶらつかせた。
「へ~じゃあこれは俺のものでいいのかなあ~」
「え、何……あー! アイスの棒当たってるー!」
「おっと、最後に持ってたのは俺だぜ。ただじゃあやれねぇなあ」
時代劇の悪代官みたいな台詞。表情だって悪人さながらの不敵な笑み。
絵里の中で、炎天下の暑さと甘いアイスキャンディーが喧嘩する。天秤はあっちに傾きこっちに傾き、そして結局、
「お兄の意地悪!!」
捨て台詞とともに彼の手からアイスの棒を引っつかむ。ポケットにねじ込みながら庭に飛び降りて、靴を引っかけながら緩やかに助走。そして伸ばした手が石垣に届いた瞬間、ぐいっと力をこめて小柄な体を宙に浮かせた。石垣の上に着地して家の前の道路を見下ろすと、遠くを走り去って行くトラの姿が見える。
「すげえ、やっぱ猿!」
「だから猿じゃない!」
叫んで、ジャンプ。真夏の乾いたアスファルトから両足に衝撃が伝わってくる。
その間にトラはもう道路の曲がり角にさしかかろうとしていた。絵里は全力で堅いアスファルトを蹴り飛ばす。
そのまま絵里は日本家屋の立ち並ぶ通りを走り抜け、トラが曲がったはずの角を強引に急転回。しかしその先には、真夏の太陽が照りつける無人の道が続くだけ。
「トラー! どこ行ったのー!」
あの老体のどこにあんな力が残ってたんだろう。それも、なんでこんな急に。
途方にくれた絵里が足踏みを繰り返していると、少し離れたところで「うわあっ」という高めの声が聞こえる。
とっさに、声が聞こえた路地へと飛び込んだ。家々の間の石畳の坂道を駆け上がった先に、何かにまとわりつくトラのでっぷりとした体が見えてくる。そして仁王立ちになったトラの陰に隠れた、もう一つの何か。
「トラ!」
絵里が声を上げた瞬間、トラが地面に着地する。直後、トラの向こうにいたそれとはっきりと目があったのだ。
――瞬間、言葉を忘れた。
大きな丸い瞳の、十歳くらいの小さな男の子だった。時代劇から抜け出たような、萌葱色のかすり十字の夏着物。華奢な体に不釣り合いの、少し大きすぎる下駄。
そして、くりくりと絵里を見つめる大きな瞳と短い髪の色は、
(赤……?)
一見茶色のようにも思った。けれどその瞳も髪も、日の光に照らされる度にゆらゆらと色を変える。水彩のような鮮やかな赤にも、夕暮れ時の深い茜色にも、夜闇の提灯の優しい緋色にも見える、そんな不思議な色。
そしてその色は、彼の萌葱色の着物にとてもよく映える。
「きみは……」
「ヌシ、この猫の主人かの?」
言いかけた絵里の声をさえぎって、男の子が口を開いた。年相応の、幼い舌足らずな高めの声。しかしその物言いは妙に尊大で、絵里は最初何のことを言われているのかもわからなかった。
「え、ヌシって、私?」
「決まっておろう、今この場におるのはヌシ一人じゃぞ」
なんなのだろうこの子は。そう思ったけれど、不思議と腹は立たなかった。どう聞いてもちぐはぐなはずのその口調は、どうしてかよく似合っているようにも思えたのだ。
「うちの猫だけど……」
「ふうむ」
男の子は考え込むようにトラを見下ろしている。そのトラはしきりに男の子に体をこすりつけては、時折甘えるような鳴き声をあげる。やっぱりおかしい、トラは滅多に他人に慣れないはずなのに。
ふいに、男の子が何かに気付いたようにはっとした表情になった。
「そうじゃ! 源蔵は元気かの?」
「え、源蔵て、じっちゃんのこと? じっちゃんなら三年前に死んだけど」
そう答えると、男の子の瞳がひときわ大きく見開かれた。不思議な色に覆い隠されて少し表情が読み取りにくい。でも、多分驚きの感情だったと思う。
「そうか……もうそんなになるのか」
男の子の目が遠くを見るようにすっと細められる。その仕草もまた、幼い見た目に不釣り合いなものだった。
「ヌシは、随分と長生きしたのじゃのう」
そう呼びかけながら男の子がそっとトラの頭をなでる。するとトラはますます嬉しそうにゴロゴロとのどを鳴らすのだった。
そして、さっと男の子は絵里へと向き直る
「して、ヌシ!」
「は、はい!」
なぜか反射的に気をつけの姿勢になってしまった。しかし男の子は気にした様子もなく、余裕たっぷりに小さな胸を張る。
「頼みがあるのじゃ。久方ぶりに出てきたはいいが、すっかり町の様子がわからんくなっておってのう」
彼の不思議な瞳が、日差しの下で揺らめく赤が絵里を射貫く。見つめていると奥深くまで吸い込まれてしまいそう。けれど目を離すことができない。
「源蔵の孫なら丁度良い。ヌシはたった今からワシの道案内じゃ!」
一方的に命令して、しかも案内しろと言ったくせに男の子は自分ですたすたと歩き始める。その背に慌てて絵里は追いすがった。どうしよう、何をどう言えばいいんだろう。何から突っ込んだらいいんだろう。何もわからない、何も――、
「待ってよ、きみ、名前は!?」
ぐるぐる回る思考の中から最初に出てきたのは、そんな言葉だった。風が通り抜けて、男の子がくるりと振り返る。路地裏の控えめな日差しに照らされて、短い癖っ毛の上で無数の赤色が遊ぶ。
ふわりと、笑ったように思った。
「カヤリ――カヤリじゃ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます