奇跡

 王妃ジニは十七歳の誕生日に、男の子を産んだ。


 不死身の王の跡継ぎとなるべく生まれてきた、奇跡の王子。民はますます喜び浮かれて王の屋敷の前に毎朝行列をなし、産屋を拝んでは祝いを述べた。


 祝祭の日取りも決まり、ミッシカはますます忙しく、ジニの前に現れない日も多くなった。アジュラは常に王妃と王子に付き添っていたが、どこか上の空で、話をしていても時々黙り込むありさまだった。


 あの日以来、王族キギンは沈黙を守っていた。不気味ではあったが、ジニには彼の企みを暴くすべがない。である以上、あれこれ憶測をめぐらせても甲斐がなかった。



 そして、祭りの当日。祝言のときと同じく、高原のただ中に壇が置かれ、御座が敷かれて、王妃はそこに座った。隣にはいつものように紗布を吊るした天蓋が設えられ、不死王ナーダが運び込まれた。初めて人前に披露された王子は、王妃の腕におとなしく抱かれていた。


 老若男女貴賤を問わず、臣民は奇跡の王子を間近で見たがって、捧げ物を持ち寄っていた。富める者は珍宝を、貧しい少女は野花を。職人は手製の籠や食器を、農民は作物を。絵描きは王妃の肖像を、楽隊は創りたての歌を。


 だがそれらが捧げられる時間が来る前に、宴は中断されることになった。キギンの仕業である。


 祝祭の始まりに、彼とその取り巻きは高原に姿を現さなかった。王と王妃が御座に居並んでいる以上、遅刻者を待つ理由はなく、高僧ミッシカは天地を祓い清めるための祝詞を唱え始めた。その声をかき消すように、仰々しく錦のマントをまとったキギンらが地を踏み鳴らしてやってきたのだ。


 ミッシカは、あくまで祝詞を唱え続けていた。その低くしみ通るような声がやんだのは、静まり返った観衆を引き裂くようにしてキギンが御座の方へ歩を進め、赤子を抱いた王妃の前に立ちはだかったのと同時であった。


 彼が何かを企んでいるとして、この祝日を選ぶであろうことは、予測のできないことではなかった。しかし、キギンの引き連れてきた郎党の中に、本来なら自分のそばに控えているべき侍医の顔があるのは、ジニの想像にはなかったことだ。昨夜はいつも通りに寝所まで母子に付き添っていたアジュラが、今朝からまったく姿を見せないことを不審に思ってはいたが。


 ジニが顔を見つめると、侍医は目を伏せた。それで仕方なく、ジニも視線を外し、代わりに彼女の隣に立つ見覚えのない人物を眺めた。年のころはわからないが、帽子をかぶった痩身の男だ。いかにも急いで連れてこられた様子で、肩で息をしている。


 腕や脚をぴったりと覆った風変わりな衣服を着ていたが、一度も見たことがない類の身なりではない。何年か前に、遠い国からやってきて一晩村に滞在した異邦人たちも、男と似たような装いをしていた。彼らは自分たちを「カメラクルー」と称したが、それが部族の名なのか家名なのか定かではなかった。誰も足を踏み入れたことのない秘境を見たいのだと言って、物々しい荷物を担いで森の奥へ消え、その後どうなったかは知れない。


 尊大に肩をそびやかしたキギンの後ろに突っ立っているその男も、海の向こうから来たのだろうか。舶来物好きの王族なら、物だけでなく人を連れてくることもありえないではない。だが、何のために?


 王族キギンの表情には、絶対の自信があった。それは後ろ姿にも表れているのだろう、観衆は皆怯え切ったように目を見開いて、彼を注視していた。まるで誰もが、彼がこれから言おうとしていることを知っていて、それによって自分たちの信じているものが瓦解するのを恐れているかのようだった。


「畏れながら、王妃さまにお尋ねしたい」


――彼がそれを口にすれば、誰かが死ぬことになる。

 耳元に囁きかける声が聞こえたのは、そのときであった。


 致し方のないことだ、とジニは思った。生まれる者がある以上、死ぬ者もある。それが自分なのか夫なのか、キギンなのかミッシカなのか、それとも腕の中の我が子なのかは、神の決めることだ。


 問え、と、王妃ジニは命じた。


 髭面の王族は、問いを発した。王子は真に、不死王ナーダの子なのかと。


 高原に風が走り、群衆の声にならない悲鳴と混じり合って渦巻いた。驚きではなく、おののきの反応だった。


 それはつまり、内心では誰もが疑念を持っていたということだろう。ご聖体、すなわち木乃伊ミイラである王に、子どもを生ましめることなどできるはずがない、誰か別の、生身の男の胤なのではないか。その疑いに目をつぶり、「奇跡」と称して受け入れようとしてきたのだ。ジニも、おそらく、彼らと同じだった。


 もし今、真実が暴かれようとしているなら、避ける手立てはないとジニは思った。そもそも不死王は、本当に不死身なのか。腐敗しない屍に過ぎないのではないか。誰も口にはできず、心の奥底に隠匿されてきたこの疑念がもし正しいのだとすれば、キギンこそが今度は英雄になるのかもしれない。


 いずれにせよ、王妃ジニには、彼に与する道は残されていなかった。子を抱いたまま、御座の上に立ち上がる。


「我が義弟のすえなるキギンよ。おまえの問いは、わたくしを辱め、ナーダ王をないがしろにし、我らの王子を貶めるもの。そうとわかって問うからには、覚悟はできていような」


「正義のためにはあえて命を危険にさらすのも、王族たる者の務めですからな。さて、ご返答は頂けようか、王妃」


「言うまでもないこと。わたくしが王妃である以上、この子の父はここにおられる不死王ナーダに相違はない」


 古老たちの間から、呻き声にも似たため息が漏れた。しかし大半の観衆は、息をひそめて成り行きを見守っている。


「ならば、証を見せていただこうか」

 キギンは勿体つけるようにゆっくりと言い放ち、肩越しに後ろを振り返った。そこには、彼女がいた。侍医アジュラが顔を上げると、痩せた頬に天空から陽光が降り注いだが、かえって目の暗さを際立たせるばかりだった。


 アジュラは微かに頷くと、隣の男に何事か囁いた。男の呼吸は、いくらか静まったようだ。水瓶の蓋のような形をした帽子の下で、色白の顔が頷く。肩から掛けた茶色い袋を地面に下ろし、留め金を外した。


 男の手元に、眩しい反射光がひらめいた。と見るや、取り出されたのは紙だった。見たこともないような白く、滑らかな紙の封筒。口の閉じられたその封筒を、アジュラが受け取り、開くことなくキギンの手に渡した。


「これほど白い紙は珍しいかね。村育ちなれば是非もあるまい。しかし王妃、世界はあなたが思うよりもずっと広い。地の果てには海があるが、その海の果てにはまた別の大地がある。そこでは、こうした紙などありふれていて、誰も驚きもしないのだ。この違いはどこから来ると思う」

 まるで自ら海の向こうの大地とやらに行ってきたかのような口ぶりで、キギンは問う。そしてジニが答える前に先を続けた。

「科学だ」


「かがく?」


「そうだ。紙は草木から作られる、それは世界のどこでも変わらん。だが科学の進んだ国では、同じものを原料にしても、このような質のよい紙がたやすく作れる。そして、科学があれば、こんなことも可能なのだ……」


 キギンは腕を高く上げ、芝居がかった身ぶりで封を切った。封筒の中から抜き出されたのは、またも白い紙、の束だ。幾枚にも及ぶ、形のそろった紙は左肩が綴じられていた。

「ここに、科学的な証拠が記されている。あなたの腕の中の子と、ナーダ王に血のつながりがあるか否かのな。そうだな、アジュラ?」


 今度は振り返りもせずに、後ろへ問う。アジュラは返事をせず、代わりに隣の男にまた何か囁く。どうやら彼女は、通訳を担っているらしかった。

「正確には血のつながりではなく、DNAの型の一致度の検査ですと、申しております」


「言い方はどうでもよい。要するに実の父子かどうかがわかるのだろう」


 アジュラがその言葉を訳す。後ろの男は、これまた芝居がかった様子で肩をすくめてみせた。


「その男は何者か。おまえの言う、『かがく』の国の学者か」


「相変わらず察しのいいことだ。そう、この男は世界一の先進国から招いた。学者ではなく、商人だがな。こういった検査をする商いが、よその国にはあるのだ」


「するとおまえは、天に誓ったわたくしの言葉よりも、よそ者の商人の言葉を信じるのか」


「信じるか信じないかとは、まったく非科学的な問いですな。今問うべきは、何が真実かだ、王妃」


「わたくしもこの子も、検査など受けてはおらぬ。今日初めて見たばかりのその男に、どうしてわたくしたちの真実を知りうるというのか」


「無論、検査には材料が要る。あなたと、あなたの子と、そして王の体から、それを採取させてもらった」


「まさか……」


「あなたの医者がな」


 ジニが視線を向けると、アジュラは静かに頭を垂れた。


「眠られている間に、お口の中の組織を少し、拝借いたしました」

 言葉はそこで途切れたが、ジニは先を促すように見つめ続けた。キギンもまた愉快そうに黙って成り行きを見守る気配だ。アジュラは観念したように顔を上げた。

「キギンさまのおっしゃることは本当です、王妃さま。わたくしは海の向こうの国で産医学を修めましたが、そのときにこの商人に出会ったのです。彼は特殊な機械を持っていて、わずかな体細胞からDNA鑑定を行い、真の親子かどうかを見極めることができるのです」


「つまり、アジュラ、『かがく』とやらをこの国へ持ち込んだのは、おまえなのですか」


「わたくしが海の向こうで学ぶことができたのは、キギンさまのお力ですから……その成果を、お伝えしないわけには参りません」


「そういうことだ」

 ようやくキギンが口を挟んだ。

「しかし王妃よ、恐れることはあるまい。あなたの言葉が正しいとするならば、科学がそれを証明してくれるはずだ。たった今、この記念すべき日のために届いた、この白い紙がな」


 紙束を高々と掲げたキギンは、この場にいる誰よりも自信に満ち、おそらくそれゆえに、説得力を持っていた。


 ジニはまだアジュラを見ていた。再会してから昨夜までの間、彼女の表情や挙動の端々に、怪しむべき気配を感じたことがなかったかと言えば嘘になる。否それどころか、王妃はすでに、侍医が裏切りをなした瞬間を思い出していた。王子が生まれて間もないある夜、母子が眠りにつくまで寝床に付き添っていたアジュラが、匙のような金物をジニの口中へ差し込んできたのだ。夢か現かの境目で、曖昧な記憶ではある。が、彼女の冷たい指先に顎を押さえられた感触は、なぜ今まで忘れていたのかと思うほど鮮明に蘇ってくる。


 我が子のあどけない顎にも、その冷えた手を触れたというのか。王妃は腕の中の赤子に目を落とした。眠っていたはずの王子はいつしかまぶたを開け放ち、母の顔を見返していた。


「キギンさま」

 ずっと黙っていた高僧ミッシカの、静かな声が響いた。観衆は一斉にすがるような目を向けたが、ジニはその誘惑に耐えた。今彼を振り返っては、キギンが喜ぶだけだ。


「あなたのおっしゃる科学とやらが、王妃さまの潔白を証明したら、そのときはいかがなさるおつもりですか」


「もしそのようなことがあるとすれば、王の声をかたるにも匹敵する不敬であろうな。死に値する大罪と言われても致し方あるまい」


 キギンの挑発的な回答に、ミッシカはどんな顔をしたのか、ジニには見えなかった。しかし、そこで取り決められたことは、誰の目にも明らかだ。赤子が確かに王の子ならば王族キギンが、そうでなければ、高僧ミッシカが咎を負う。もちろん、王妃ジニとて他人事ではない。


「さあ、いつまでも御託を並べていても始まらん。答えはもう出ているのだからな。この紙に書かれている真実を、今、天地に示そうではないか。アジュラ!」


「はい」


「おまえが読み上げるのだ。ありのままにな」

 紙の束が、アジュラの青白い顔の前に突きつけられた。

「もし、書かれていることと寸分でも違うことを口にすれば、おまえも命はない。わかっているな」


 紙束を受け取る手が震えていた。その横で異邦の商人が、当惑したように眉をひそめていた。


 アジュラは、紙の一枚目から順に、たどたどしく文面を翻訳しながら読み上げていった。その内容の大半は、民衆が耳にしたことのない用語であったが、誰もが息を詰めて聴き入っていた。彼女は時折、確認を求めるように隣の商人に視線を走らせた。商人も、少しはこの国の言葉を聞き取れるらしく、小刻みに頷いてみせた。


 紙の数の割には、さして長い文ではなかった。読み上げながら一枚ずつ紙を送り、最後の頁を目にしたアジュラは、しばらく言葉を失った。


 人々は辛抱強く続きを待ったが、あまりに沈黙が長いので、キギンが苛立ったように先を促した。

「言え、アジュラ。結論を」


 それでも黙ったままなので、キギンは大股にアジュラへ歩み寄り、紙束をもぎ取って隣の商人の鼻先へ押しつけた。

「あれは誰の子だ。言え」


 急に矛先を向けられた商人は困惑して、口を半開きにしたままアジュラの肩を叩いた。このときアジュラは、その目を王妃ジニに、より正確にはジニの腕に抱かれた赤子に向けていた。目の中に炎のような光が見えた。


「奇跡です」

 つぶやくような声ではあったが、ジニにははっきりと聞こえた。


「何と言った?」

 キギンが荒らげた声で聞き返す。するとアジュラはキギンを鋭い眼で睨み返し、次いで体をくるりと翻して、民衆を見渡した。その燃えるような目に、人々も圧倒された。


「奇跡です」

 今度は、誰の耳にも明瞭な声でアジュラは宣告した。

「王妃ジニのお子は、紛れもなく、不死王ナーダのご実子。奇跡の王子です」



 一拍の間を置いて、高原が地鳴りのような歓声に包まれた。


 馬鹿な、そんなはずがあるものか、とキギンが喚いていたのは口の動きからそうわかるだけで、声は完全にかき消されていた。商人につかみかかって何事か詰問しようとしたが、槍を持った役人たちや屈強な若者たちが飛び出してきて一族もろとも取り囲んだので、それ以上の悪あがきはできなかった。


 ジニはいつしか御座の上に座り込んでいた。騒ぎに驚いた赤子の泣く声が耳についたが、それが自分の腕の中から聞こえているのだと気づくまでに時間がかかった。


 王子をあやすジニの前に、ミッシカが背を向けて立った。


「キギンさまへ、王よりのお言葉です」


 瞬時にして、民衆は静まり返る。泣いていた王子すら泣きやんだ。すべての耳はミッシカに、すべての目は不死王ナーダに向けられた。


「このたびの我が妃への侮辱、いかに弟の嫡孫と言えど許しがたく、死をもってしても足らぬ行状である。しかし、我が息子の祝い日に免じて、命ばかりは取らずにおく。すべての財産を捨て、即刻この地を去れ。おまえの信じる科学の国にでも行くがいい。そして二度と、姿を見せるな」


 今や、ミッシカが王の代弁者であることに疑いを呈する者はなかった。去れ、出ていけと観衆が口々に罪人一族を罵り、キギンの声にはもはやそれを圧する力はなかった。追放される彼の後ろを、異邦の商人が片言に「カネはどうなる、カネをくれ」と喚きながらついていった。人々は石を投げてそれを見送った。


 高僧ミッシカが人々をたしなめ、宴の仕切り直しにかかる。その後ろ姿を漠と眺めながら、ジニは何か引っかかるものを感じていた。



 本当に、これですべてが終わったのだろうか?


――いいや。まだ、誰も死んでいない。


 次の瞬間だった。鋭い悲鳴が民衆の一角からほとばしり、重いどよめきになって周囲に広がっていった。ミッシカが押し止めるのを振り切って、ジニは赤子を抱いたまま御座から駆け下りた。


 液体のこぼれ出した小瓶。

 青白い手の甲。

 唇からあふれた血。


 乾いた土の上に投げ出されたそれらを見て、ジニはしばらくすべての感情を失った。無表情のまま立ち尽くしていると、静けさの中に我が子の鼓動が響いてきた。


 死ぬ者があるから、生まれる者もある。


「アジュラ」


 王妃ジニは侍医の亡骸に呼びかけた。返答の代わりに、血の気のない唇に微かな笑みが浮かんだように見えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る