反逆

 王族キギンが王妃ジニを訪ねてきたのは、彼女が臨月を迎えたころのことであった。



 「奇跡の子」誕生に備えて、祝祭の準備が進められていた。高僧ミッシカを始め、大臣たちから村長、民も家畜も、誰もが走り回っていた。


 その慌ただしさを知ってか知らずか、胎児もしきりに腹の中で動き回った。動かずに座っていたのは、王妃ジニと、不死王ナーダだけだ。


「お会いになりますか? お加減が悪ければ、日を改めていただくよう、わたくしから申し上げて参りますが」

 侍医アジュラが耳元で尋ねた。窓辺の椅子に腰掛けていたジニは、大きく膨らんだ腹部から手を離し、窓枠を頼りに立ち上がった。


「ミッシカは?」

「お祭りの準備で、朝からお出かけです」

「そうでしょうね。ではアジュラ、付き添いをお願い」

「かしこまりました」


 キギンは不死王ナーダの実弟の血筋を引き、王族の中では最大の勢力を誇っていた。体躯の秀でた男で、屋内で会うと窮屈そうに見えるほどだ。髭が濃く、眉も濃く、髪は薄かったが、眼光は鋭かった。


 裕福なだけに、身なりも立派なものだ。不死王ナーダとジニの祝言でも、つばの広い帽子に日光を和らげる眼鏡、派手な刺繍の入ったマントを身につけていて、実のところ新郎新婦よりも目立っていた。キギンは王族たちの中でも特に舶来物好きとして有名で、そうした装身具も海の向こうから伝わってきた貴重なものなのだろうと、人々は口を開けて眺めていた。


「お人払いをお願いしたいのだが」

 挨拶もそこそこに、キギンは割れ鐘のような声で要求した。


「ミッシカも留守だというのに、何のお話です」


「そう警戒なさることはない。わしはあなたの味方だ。あの名高き僧正が明かさない真実を、ともに語り合いたいだけだ」

 王族キギンにそう言われては、ジニも召使いたちを下がらせないわけにはいかなかった。ただ一人、アジュラだけは、王妃のそばに残った。キギンがそれを許したからである。


「身重の王妃に何かあっては一大事だからな。のう、女?」

 キギンは胸元に光る首飾りを指先で弄びながら、意味ありげな笑みでアジュラに問いかけた。首飾りの先には針の三本入った円盤が吊り下がっていた。それもまた自慢の舶来物で、持ち歩き式の時計なのだという。しかしこの機械じかけの時計はなぜか毎日少しずつ時刻がずれていくため、日時計に合わせて調節しなければならないのが面倒で、今はほとんどただの装飾品と化しているという噂であった。


「さて、おかわいそうな王妃ジニよ。あなたは真に、その腹の子を、王の胤と信じておられるのだろうな」


「言うまでもないことを」


「さよう。わしとて王妃の操を疑うことなど考えもせぬ。しかし、あのミッシカはどうであろうな。あなたは、あの若年寄の僧正にだまされておるのではないかのう」


「キギン。あなたは、自身がとても恐ろしいことを口にしているとわかっていますか」

 ジニは腰掛けにしがみつくようにして、脂の浮いた男の顔を見上げた。


「哀れなる王妃ジニ。心に一点の曇りもなく、誓えるのか。その夜、ナーダ王と契ったと? 立つことも喋ることもできぬ、あの枯れた体と交わったときのことを、はっきりと思い出せるのか?」


「それは」


「ミッシカが妙な術をかけて、あるいは何か薬のようなものを使って、あなたを眠らせた。そうして気を失っている間に、あなたは何者かに犯された。違うかね?」


 ジニは嘘をつくということを知らなかった。その表情に肯定を見て取り、キギンは満足げに笑った。


 あの不思議な初夜の翌朝――。自分の体が前日までのそれとは確かに違っていることを知ったジニは、独りで泣いていた。それが喜ばしいことなのか悲しいことなのかわからなかったが、なぜか涙があふれてきたのだ。


 そこへミッシカがやってきた。彼女が泣きやむまでただ黙って待ち、やがて、王妃ジニ、と初めて呼んだ。彼の落ち着き払った声にそう呼ばれたから、ジニは王妃であることを自覚できたのだ。


 しかし、もしもキギンの言うように、ミッシカが自分をだましたのだとしたら……。薬酒で意識を失っている間に、彼は何をしたのか?


 ジニは激しく頭を振った。

「あの時、わたしはナーダ王の声を確かに聞きました……わたしの名を、お呼びになりました」


「その声音は、誰かに似てはいなかったかね」


「いいえ、初めて聞く……声でした……」


「王妃よ。あなたは聡い娘であったと聞く。そろそろ目を覚ますがいい。いや、あなただけではない。この国全体が、目を覚ますべき時にあるのだ。不死王の威光だと? そんなもので国が治まるかね。よいか、生ける民を導けるのは、生ける人の言葉だ。今、それを語っているのは誰だね。そしてそれは、正しいまつりごとと言えるかね」


 腰掛けの縁をつかんだ手が震えて、耳を塞ぐことも、逃げ出すこともできなかった。ジニは彼の言っていることを十分に理解できたし、言っていないこともわかるような気がした。恐ろしかったのは、キギンの不敬よりもむしろ、そちらの方だ。


 もしかしたら自分も、心の底で同じ疑惑を抱いているのではないか――。


 そのとき不意に、侍医アジュラの手が、ジニの手に重ねられた。見上げると、彼女はキギンに背を向け、王妃をかばうように屈み込んでいた。しかしその手はやはり冷たく、ジニの震えは止まらなかった。


「その女医者にも、訊いてみたらどうかね。海の向こうの神なき国で、知恵を付けてきたのだからな。のう、


 重ねられた手が強ばるのが、ジニの皮膚に伝わった。


「わたくしの修めた学問はすべて、王さまと王妃さまのお子が無事にお生まれになるためのもの。それ以外のことを、わたくしは知りません」


「ふふ、まあよい」

 アジュラの背中を見下ろしながら、キギンは意味ありげにせせら笑った。そして今度はジニに視線を戻し、声を少し和らげた。

「わしはな、王妃。初めに申した通り、あなたの味方だ。あなたが不義密通の末に子を成したなどと、言い立てるつもりはない」


「密通なんて……」


「そんなことを世に知られては、生きてはおられまいな。だが、あなたにもその子にも、何の咎もないのだ。そこでわしに一つ、提案がある。聞いていただけるかな」


 ジニはすがる思いで侍医を見た。アジュラは眉間に険しく皺を寄せたまま、目を閉じていた。


 耳を貸す必要はないと、その口が告げるのを期待した。医師の権限で、これ以上の謁見を禁じてほしかった。ジニ自身が望んでこの場を離れたなら、逃げたことになる。キギンはそれを喜ぶだろう。


 しかしアジュラに口を開く気配はなかった。代わりに別の声が、どこからともなく降って湧いた。

「ご提案ならば、私も一緒にうかがいましょう」


 キギンもジニも驚いて、声のした方を振り返った。そこには、高僧ミッシカが立っていた。


 ジニはミッシカの留守中に密談していたことが後ろめたくなり、思わず顔を伏せた。しかし高僧はジニを責める様子もなく、無表情に王族キギンに相対した。


 キギンはばつが悪いのをごまかすように、動かない時計を弄びながら咳払いをしたが、すぐに気を取り直して声を張り上げた。

「これはこれは僧正、いつの間に戻ったのかね。立ち聞きとは人の悪いことだ」


「声をおかけしましたが、お気づきになりませんでしたか」


「ふん。わしら王家の会話に口を挟むなど、分をわきまえるがいい。坊主は祭りの準備でもしておればよいのだ」


「もとより余計な口を差し挟むつもりはありませんが、王家の会話なら、その内容を王にお伝えしないわけには参りません。それもまた、私の仕事です」


「不死王への通訳か、なるほど。ならば今わしが王妃に話すことを、そのままご注進に及ぶがいい。できるものならばな」


 キギンはそう言うと、もうミッシカには目をくれず、再びジニに向き直った。一歩、距離を詰めてきたので、ジニは後ずさりしたくなったが、手はアジュラに押さえつけられ、背は腰掛けにせき止められていた。


 何を思ってか、腹の内を胎児が蹴った。


「提案というのは、こうだ。その腹の子、王の胤というならそれでよい。なに、民などいずれ愚かなもの、無理に目覚めさせることもあるまい。不死王の起こした新たなる奇跡、そう信じさせておけばよかろう。問題はその後だ。奇跡の子がお生まれになったならば、王家にふさわしい教育を施さねばならぬ。だがご聖体のナーダに、子作りはともかく、子育てまでは難しかろう」


「何が言いたいのです」


「あなたのお子には、守役もりやくが必要だということだ。王家の血を引く者の」


「つまり……あなたが王に代わって、この子の後ろ盾になると?」


「お望みとあらばな。王妃が守れと仰せならば、このキギン、命に代えてもお子をお守りいたそう」


――守れ。


 その言葉が自分の口から出たものかと思い、ジニは慄然とした。しかしそれは、どうやら空気中に発せられた声ではなかった。


――おまえの子を、守れ。


 身の内からせり上がってくるその声に衝き動かされて、ジニは腰掛けから勢いよく立ち上がった。アジュラが驚いて手を引っ込め、キギンも半歩退いた。胎児が鼓舞するように、また腹を蹴った。


「そなたの提案はよくわかりました、キギン。王をないがしろにし、民の信頼をも裏切るその了見、王家の恥と言わねばなりません」


「これは王妃……わしはあなたのためを思って」


「お黙りなさい、選ばれざる者。王の妃たるわたくしにあらぬ疑いをかけ、脅しによって権力を握ろうなどとは卑怯千万。今すぐにこの場を去り、父祖の霊に詫びなさい。そうすればこの子にも通じるその血に免じて、今日の無礼は不問に処しましょう」

 何かに取り憑かれたかのように、一気にそこまで喋ると、ぴたりと言葉がやんだ。


 キギンの顔色は一変していた。首筋や耳が赤いのは頭に血が昇っているためだろうが、顔色はむしろどす黒く、目は黄色みを帯びている。唇が震え、憤怒に頬の筋肉が強ばっていた。


「小娘が、調子に乗りおって」

 唾とともに吐き捨てられた声もまた、どぶのように濁っていた。

「哀れと思えばこそ救いの舟を出してやったものを、己が分もわきまえぬ愚か者よ。ならばよい、こちらにも考えがあるぞ。おまえのような田舎娘には見当もつかぬ、決定的な切り札がな」


 それを聞くと、また王妃の唇が勝手に動き出した。

「好きにするがよい。わたくしに非があらば、天がわたくしを滅ぼすでしょう。さもなくば、そなたが何を企もうと、恐れるに足りません」


 しばらくの睨み合いの後、キギンは鼻を鳴らして笑い、王妃の後ろへ目を逸らした。見やったのはミッシカか、アジュラか。ジニは振り返って確かめることをしなかった。


 王族キギンはそのまま、言葉もなく立ち去った。苛立たしげに踏み鳴らす足音が遠ざかると同時に、ジニは床に膝を突いた。すぐに支える手が伸びてきたが、それがアジュラではなくミッシカのものだったので、身を任せるのにわずかな躊躇があった。


――あの夜も、この手が我が身を支えたのか?

 キギンの前ではあれほど淀みなかった確信が、今は跡形もない。


 高僧ミッシカは、王妃の惑いを察してか、彼女を腰掛けに座らせるとすぐに手を離した。そして、うつむいたままの彼女の傍らにひざまずき、落ち着き払った声で、王妃ジニ、と呼んだ。


 ミッシカの目は常に澄んでいて、私心というものを欠片も感じさせない。キギンとは対照的であった。しかし、私欲の有無と、その言葉の真偽とは別の問題であろう。自分がキギンよりもミッシカを信じたいと思っているのは確かで、その願いが真実を見抜く目を曇らせているのではないかと、ジニは恐れた。


「私を信じるか、彼を信じるかで苦しむのはおやめなさい、王妃ジニ。あなたはご自身の中から生まれる言葉を信じればよろしいのです。先ほどのあなたは、ご立派でした」

 ミッシカはそう言うと、つと顔を上げ、王妃を寝室へお連れするようにと指示した。


 ジニが振り返ると、侍医アジュラが壁際に貼り付くようにして立っていた。まるで人形のように顔色を失った彼女に、アジュラ、ともう一度ミッシカが呼びかける。


 目が覚めたかのように、女医は表情を取り戻した。すぐに前へ進み出て、王妃が立ち上がるのを支えようと手を差し出す。


 ジニは、自分の手の甲に重ねられたときの、彼女の手の冷たさを思い出した。

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