ハグの日

@Candle_Noel

第1話

「今日は何日ですか?りょうさん」

「八月九日ですよ」

「八月九日ですか」

「…何かの記念日でしたか?」

「はい、とても大事な日です」

朝ごはんの卵焼きを口に運ぶ途中で、困った顔をして固まったりょうさんに、京子は笑った。

「すみません、今のは意地悪でした。取り立てて特別な日ではありません」

途端にほっとした表情になるりょうさんが愛おしくて、思わず頬が緩む。

「今日はハグの日なんですよ。八月九日。わかります?」

「ハグの日」

はぐ、はぐ、はち、きゅう…と口に出して、あぁと心得たように何度かりょうさんは頷いた。

「面白いですね、ハグの日ですか」

ぱくり。卵焼きを無事口の中に収める。

「はい、ですから、今日、りょうくんと私はハグをしなければなりません。何があろうとも、可能な限り、今日はとにかくハグをしなければなりません。」

だってハグの日だから。


朝に弱い彼女がアラームより少し早く起きた時に、今日は何かあるな、とは思ったのだ。

いつも起きているのか寝ているのかよくわからない状態で、死ぬほどゆっくり歯を磨くのに、今日は鼻歌を歌いながら軽快なリズムで手を動かしていた。

そのまま洗面所を占領し、身支度を整えてダイニングまで出てくるまでにかかった時間はいつもの半分。にも拘らず、いつもよりおめかしをしている気がした。

朝ごはんのお味噌汁を作りながら、はてさて何だろう、ショッピングに行きたいのかな、それとも映画館かなと考えていた。

今日は珍しく、京子が1日フリーの日だった。仕事が忙しい彼女は休みがあまり取れない上に超がつくほどの面倒くさがりだ。昼まで寝潰して、家でゆっくり休むかと思っていたけれど。

ハグの日か、なるほど。

そういうイベント事は京子の好きな類だ。

「じゃあ、さっきの大事な日というのは」

「はい、りょうくんといかに長い間ハグをするか考えかつ実行する日という事です。せっかくの貴重なお休みです。最大限に有意義に使います」

「いいんですか?そんなので。買い物行きたいとか、観たい映画とかあるんじゃないですか?僕付き合うつもりでしたよ。滅多にないお休みですし。もったいなくないですか?」

ブラックなんて生易しい言葉では足りない労働時間に拘束されている京子は、お金を稼いでもそれを使う時間がない。したいことが沢山あるはずだ。只ハグだけに使うのは流石に

気が引ける。

付け合わせのきゅうりの浅漬けに箸を伸ばしてそのまま口に運ぶ。ポリポリといい音が立った。

「…もったいないってなに」

「ん?」

なかなかの味付けだな、と少しいい気分になっていた私の目の前で、静かに京子がお箸を置いた。声は低かった。

「もったいないって何ですか?私とりょうくんとがハグをする時間はもったいないんですか?」

――ぽりぽりぽりぽり。ごくん。

「京子?」

まさかと思って顔を覗き込むと、さっきまでのにこにこはどこへやら、泣きそうな顔をしていた。

「りょうくんは分からないんだ。お仕事終わって帰ってきたらりょうくんもう寝ちゃってて、明日は早く帰ってくるねって約束も出来なくて、ちゃんと顔合わせて話すのも週に何回かあればいい方で」

「ちょっと京子」

「そういうの、ほんとにきついし寂しいし泣きたくなる時あるよ」

「….どうした」

「ああ、りょうくんに会いたいな、話したいな、顔見たいな手も繋ぎたいな、ハグもしたいな、いちゃいちゃしたいなって」

「….」

「毎日ただいまって、おかえりって言える人達いいなって、羨ましいなって思ってて。でもそれ全部私のせいだし、どうにか出来ることでもないし。だから、だから今日は絶対、何があってもりょくんと一日一緒にいるんだって、ずっとくっついて一緒にいるんだって決めてたんだよ。りょうくんとくっついてる時間は私にとっては一番欲しくて欲しくてたまんないものなの。だから今日はそうするの、そうしたいの!」

一息で言い切って、肩で呼吸する京子は多分自分がなんて言ったのか分かっていない。

静かに席を立って、コップにお茶を注いで京子に渡した。

無言で受け取り、一気に飲み干す。

コトリと机の上にコップを置いて、そのままふらふらとリビングのソファーに向かった。

――ぼすんっ

うつ伏せにダイブした京子はそのまま動かなくなった。

僕は机の上に残ったご飯を手早く片付ける。

洗い場に食器を持って行って、水に浸す。

台ふきをして、京子の使ったエプロンと一緒に洗濯機に放り込んだ。

洗面台で軽く歯を磨き、温かいミルクティーを作ってソファーの横のミニテーブルに置く。

「京子」

呼びかけても動かない。寝てるかもしれないと思って揺すると、顔を逆側に向けられた。起きているらしい。

「京子、なんでいじけてるの」

「……」

「ミルクティーあるよ。砂糖2杯ちゃんと入ってるよ」

「……」

「せっかく入れたのに飲まないの?冷めちゃうよ」

「……」

――まったく。

手を伸ばして、ゆっくり京子の髪を撫でる。黒くて癖があって、しっかりした質感がある。

サラサラしていて、どれだけ繰り返し撫でても飽きない。

「…りょうさん」

「なーに?」

「さっきの忘れて」

「さっきのって何?」

「忘れたならいい」

「京子が僕のこと好きで好きでたまらないってこと?」

「……」

「嬉しかったのに」

「私は恥ずかしかった」

「うん、だろうね。でも僕は嬉しかったよ。とっても嬉しかった。だからごめんなさい。もったいないなんて言って悪かった。京子も寂しい思いしてたのにね」

「…りょうさんのほうが寂しいと思いあがってた私がわるいから」

「僕の方が寂しくなかったなんて、言ってないでしょう。他にやりたいことがあるなら、それをやってほしいと思っただけです。ただ…」

言葉を切ると、京子が寝返りを打ってこっちを向いた。

「ただ?」

「一日中付き合うとは言ってないよね?」

「……ん?」

「夜はとことん僕に付き合ってもらうつもりだったよ」

「……へっ」

「あのねぇ、僕だってほんとに寂しかったよ。仕事終わって暗い部屋に帰ってきて、二人分のご飯作って、その食卓で一人で食べて、京子の分お弁当に詰めて残りはラップして冷蔵庫に入れて、帰ってこない京子待って、待ちきれなくなって寝て。朝起きたら机の上には「いってきます。ご飯美味しかった。ありがとう」の三文だけ。ほんとにあり得ないからね」

「ご、ごめん」

「彼女がいるのにいちゃいちゃ出来ないし、ダブルベッドで一人で寂しく寝る男の夜の虚しさなんて知らないでしょ」

「…ごめん」

京子の声の調子が落ちた。

「ほんとはね、僕だってハグの日だろうとそうじゃなかろうと一日中京子と一緒にいたいよ。僕の好きにしたい。外になんか出てほしくないし、誰とも話してほしくない」

「りょうさん?」

自分がどんな顔をしてるのかわからなかった。

京子の手に指を絡ませる。

太ももの間に膝を割り入れて、そのまま上がった。

京子の顔が赤くなる。

「わ、わかった。けど、あの、ここソファー」

「うん、知ってる」

何かを言いかけた京子の口をそのまま塞いで、久しぶりの感触を味わう。

息継ぎの為に少し唇を離すと、潤んだ目をした京子が少し息を荒げていた。

「りょうさん、ベッド行きたい」

「ごめん、あとで。余裕ない」

ホックを外そうと、背中に手を滑り込ませる。

「りょうさん」

「ん?」

「さっきのは…嘘じゃないからね」

パチッと音を立てて外れたのは、ホックだけじゃないみたいだ。

「大好きだよ」

――ねえ、やっぱりハグだけじゃもったいない

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