第2話 あの子を幸せにしてあげて
ポストの中に多分学校からの配布物と思われる封筒があった。けど、学校にもう行かない僕には関係ないものだ。けれど、親に見つかると面倒なので自分の部屋に隠しておいた。父は会社に泊まり込みで仕事をしていて滅多に帰ってこない。母はいろんなパートを掛け持ちしていて一緒に食事する機会もないほど多忙だ。でもちゃんと家には帰ってくるので僕は普段通り学校に行っているように見せないといけない。
朝食はいつものように食パンを牛乳で無理矢理に流し込んだ。制服を着ながら鞄の中に教科書やノートの代わりに私服を詰め込む。出かけようと靴を履くときにぼろぼろになったスニーカーが目に入った。今日はどうやら帰ってきているようだ。
「いってきます」
挨拶をしても誰も返してくれない。それが我が家の日常だ。
途中で広場にあるトイレに寄り、私服に着替えて昨日行った建物の屋上へ向かった。まだ七時にもなっていないので人通りは少ないがこっち方面に住む生徒も少なからずいるだろうから出くわさないようにしないといけない。誰にも出会うことなく建物の屋上まで行くことが出来たが、そこには先客がいた。しかも同じ高校の制服だった。柵の前に屈んでいた女子生徒はこちらに気づいたらしく立ち上がった。
「おはようございます」
「お、おはよう……」
元気よくけどどこか悲しい挨拶だった。
「先輩は何をしに来たんですか」
先輩という言葉に心臓が跳ね上がる。私服姿なのに気づかれたことに。
「人探し。ここに来れば会えるかなって」
「それって、私のことですか?」
そう言われても僕は彼女のことを知らない。会ったことがあるのか、それとも忘れているだけなのだろうか。なんて言葉を返していいか悩んでいると。
「……冗談ですよ。少なくとも先輩とこうして面と向かって話すのは初めてです」
困っているのに気づき、助け舟を出してくれた。溺れさせた張本人から船を出されるなんてもしかして弄ばれているのだろうか?
「私は千条明里です。先輩のひとつ下、つまり一年生です」
一年生ということは後輩なのだが、僕は部活や委員会に入っているわけではないので関わりは無いはずだけど。
「そして、遠山先輩とは部活の後輩で良くしてもらいました」
「そっか、遠山と……」
彼女がさっき屈んでいた場所には花束と小さな缶ジュースが二つ置いてあった。昨日もそれらはあったのだろうか。
「さっき人探しと言いましたが、先輩は遠山先輩に会いに来たんですか」
「違うよ」
半分は正解だけど、もう半分は昨日あった不思議な少女を先に探している。
「……ところで先輩は知ってますか。ここは遠山先輩のお気に入りの場所なんです。私が落ち込んでいた時、ここに連れてきてくれました」
それは知っている。中学の時、ここで遠山と普段誰にも言えないような心の内を語り合った。あの時間だけは特別でとても楽しかった。
「そして、ここで遠山先輩は自殺しました。そこから飛び降りたらしいですね」
「そうなんだ……」
それも知っている。それを知ったからこそ、昨日までここには来れなかった。けど、せめて何か持ってくればよかった。
「私は用が済んだので、先に行きますね」
すれ違う際に彼女は僕を睨んでいた。そのまま階段を降りるかと思ったが、足音が無くなった。
「遠山先輩はいじめられていたらしいですね。知っていましたか」
「そうらしいね」
もちろんよく知っている。その現場を何度も目撃したのだから。
「どうして親友の東谷先輩はどうして助けなかったんですか」
心臓が握りつぶされるかのように胸が苦しくなった。呼吸の仕方を忘れたかのように息が止まった。僕は何も答えることができなかった。
「東谷先輩の気持ちも理解できます。助けたら次は自分が標的になるってことぐらい。けど、遠山先輩は見捨てません。きっと知り合いじゃなくても助けます。遠山先輩は正義の味方みたいな人でしたから。でもそんな人でも私達と同じで一人じゃ生きていけない弱い生き物なんです」
彼女の言葉には怒りが込められていた。その矛先は僕に向いていた。
「間違っているかもしれませんが、私はあなたを憎みます。遠山先輩を裏切ったあなたを、大好きな先輩を奪ったあなたを、私は許しません」
後方で再び足音が鳴りはじめ、それはどんどん遠くなっていく。
「あなたが死ねばよかったのに」
小さい声だったが、しっかりと聞き取れた。足音が聞こえなくなってようやく口を開くことができた。
「安心してよ。僕も近いうちに死ぬから……」
その後、午前中は屋上で午後は広場に行った。昨日あったクレープ屋がないからか少女の姿も見当たらず、夕方になった。今日は諦めて家に帰る。施錠されていたのできっと仕事にでも行ったのだろう。持っている鍵で解錠する。
「ただいま」
誰も返してくれないとわかっているけどつい挨拶してしまう。
「……おかえり」
けど、今日は違った。小さい声だったが確かに聞こえた。反射で玄関にある靴を確認したが、親の靴はない。暗いので壁伝いに恐る恐る足音を立てずにリビングへ向かう。急いで照明のスイッチを押すとそこには声の正体。
「……遅い」
昨日と何も変わらない黒いローブの少女がいた。
「なんでここに? てかいつ、どうやって家に入った!」
「質問が多い。とにかくそこに座って。お茶でも飲む?」
一日中探し回っていたのになぜ自分の家にいるのかと混乱していた。それにどうしてここが分かったのか、見覚えのない湯呑みで飲みながらくつろいでいるのか、他にも聞きたいことはやまほどある。
「…………お願いします」
喉が渇いていたのでありがたいけど、なんで僕は自分の家で赤の他人におもてなしされているんだろうか。色々と納得出来ないまま少女と食卓を挟む形で座る。
最近見なくなった家の急須を使っていた。それからガラスのコップにお茶を注いでもらった。色はほとんど透明。一口飲んでみたけど、ほとんどお湯だった。
「一つ目の質問、私はあなたに頼み事をするために会いに来た」
「頼み事?」
「あなたに会いたい人がいる。明日の午前九時に広場で」
「僕に会いたい人って?」
「おばあちゃん」
この少女の祖母だろうか。どうして僕なんかに会いたいのか検討もつかない。
「二つ目の質問、今日の午前七時からここで待ってた」
僕は七時前には家を出ていたのですれ違ったのだろう。その時間ならまだ母が家にいあたはずだから入れる。それも驚く出来事だけど、それよりも気になるのは。
「三つ目の質問、玄関から入った」
「母さんにはなんて言ったんだ?」
母に昨日のことをそのまま伝えられたら面倒なことになる。会話の内容次第ですぐにここを出ていかないといけない。
「何も言ってない。あなたがいなかったからここで待った」
「母さんと会ってないのか? 何も言われなかったのか?」
知らない人が家にいたら、男の人ならともかく小さい子だったら、母なら会話を試みると思うのだけど。
「質問が多い」
少女は不機嫌そうだった。確かにさっきから質問ばかりしているけど仕方ない。考えてもわからないことばかりなのだから。
「あなたの母親らしく人物は午前十一時にここを出た。会話はない」
家は決して広いわけでもない。少なくともリビングにいたなら一回ぐらい会うはずなのだけど、何も会話しなかったのなら母はリビングには来なかったのだろうか?
「これ以上は質問は受け付けない。要件が済んだから帰る」
もっと詳しく聞きたかったけど先手を打たれてしまった。けど、今さっき思いついた策で会話の機会を掴みに行く。
「そっか。帰る前にこれから夕食なんだけど――」
「いらない」
言い終わる前に失敗した。食べ物で引き止められると思ったけど、そんな簡単にはいかないか。
「それなら、もう外も暗いし家まで――」
「いらない」
これも玉砕。少女は立ち上がりそのまま玄関に向かう。僕はやけになったのか、咄嗟に行く手を阻む。
「……どいて」
全身に鳥肌がたった。今までよりも冷たい声に紫の眼で睨みつけられた。
「最後に一つだけ質問させて」
「…………わかった」
渋々だったが、許可が降りた。聞きたいのは僕が一番知りたいこと。
「……君の名前は?」
「名前はない。けど、おばあちゃんには『カゲちゃん』と呼ばれている」
時計の針は間もなく九時を指そうとしている。僕は私服に着替えた状態で、広場のベンチに座っていた。
「ここでいいのかな」
よくよく考えてみると、集合場所は広場としか言われてなかった。ここの敷地面積は広く、端から端まで歩いて十分以上はかかる。とりあえず、クレープを食べたときのベンチで待っていた。そして、約束の時間になったが姿は見当たらない。
「……おはよう」
「うわぁ! お、おはよう」
突然、隣から挨拶された。さっきまでいなかったのにいつの間に座ったのだろう。
「来てくれたおかげで手間が省けた」
突然手を握られ、それは驚くほどに冷たかった。すると、少女は立ち上がって僕の手を引き、どこかへ連れて行こうとする。
「どこに行くの?」
「おばあちゃんの家」
それから会話も特にないまま歩き、ここからそれほど遠くもない目的地に着いたのだった。
「すいませんね。わざわざこんなところまで来てもらって。この子が無理を言いませんでしたか」
「いいえ、構いませんよ。僕も暇だったので」
とても優しそうなおばあさんだった。立ち話もなんだからと中に招かれ、お茶も入れてくれた。ここの居間はいぐさの匂いがしてどこか懐かしい気持ちになる。
「カゲちゃん、台所の棚にお菓子があったはずだから取ってきてくれる?」
こくりと頷いて席を外した。
「ええと、お名前を聞いてなかったのだけど、いいかしら?」
「あ、そうですね。僕は東谷優です」
そういえば、少女にも名前を言ってなかった。それにあの子の名前もあやふやになって未だに確信を得ていない。
「それじゃ、優さん。こうやってあなたと会って話したかったことはあの子についてなの」
「お孫さんのことですか?」
「いいえ。あの子とは血のつながりはありません。五日前に契約して一緒に住んでいるだけです」
契約とは養子のことだろうか。だから、二人はあまり似ていないのか。
「そして、明日私は死にます」
「…………えっ、ど、どこか悪いところがあるんですか」
突然の告白に固まってしまった。見たところ元気そうだけど。
「あの子が来る前は動くことも大変でしたが、今はなんともありません。それより」
「は、はい」
「あなたにあの子のことをお願いしたいの。あの子を幸せにしてあげて」
「………………えっ! それってどういう――」
どういうことか聞こうとしたら、突然ふすまが開いた。そこから、お菓子を持った少女が帰ってきた。
「持ってきた」
「カゲちゃん、ありがと。ささ、優さんも遠慮せずに食べて」
「……は、はい」
その後はお菓子を食べたり、一緒にお手玉や折り紙で遊んだ。おばあさんの提案で三人で散歩に出かけたり、寄り道して色々食べたりした。おばあさんは少女と一緒に遊んでとても楽しそうだった。その二人を見ていると気持ちが和んだ。なおさら明日死ぬ人に見えなかった。
家に泊まっていっていいと言われ、お言葉に甘えてお邪魔になった。夕食を誰かと食べるのは久しぶりで何を話していいかわからなかった。お風呂もいただき、布団も敷いてもらい、少し横になったらそのまま眠ってしまった。
僕は話の続きをしたかった。しかしあの会話以降、おばあさんは少女と離れることはなく、聞くことは出来なかった。僕はあの時、すぐに眠ってしまったことをひどく後悔した。なぜなら、おばあさんと話す機会はもうなかったのだから。
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