拝啓、マイルドセブン
「お元気ですか?」
そう始まるメッセージは、大概が学生時代の先生方からだ。
高校時代の社会科教師から、「高校一年生へ進路について話してほしい」と連絡がきた。彼とは、昨年だったか、仕事の都合で連絡を取った以来だった。
高校時代の思い出は、図書室と進路指導室の記憶しか残っていない。嫌なことはなんでもすぐ忘れてしまう性分から察するに、きっと教室にいる時間が耐え難かったのだろう。あれだけ打ち込んでいた部活のことも、もう殆ど思い出せない。
進路指導室は、大好きな先生の部屋だった。私はお昼休みになると、おにぎりと、前の日の晩に書いた小論文を持って先生の部屋に行った。
お昼を食べつつ、先生は小論文の直しをしてくれた。楽しくて静かで穏やかで、ずっとそこにいたかった。お昼休みを繰り返して、大学に受かって、先生と先生の部屋にさよならをした。
メールの返信をしながら、あの頃のことを思い出す。先生とは、大学時代に一度だけ連絡を取った。専攻を定めようという時に、当時の交際相手からの重圧やらなにやらで爆発してしまった私は、彼の目の前で先生に電話をかけた。
何を言ったのか、何を言われたのかも忘れてしまったが、先生の声を聞いた途端に涙があふれ、言葉をかけられた途端に涙が引いたことは覚えている。
先生と会うのは、それ以来だ。噂では、20年連れ添った奥さんと別れ、年下の女性と再婚したらしい。
小雨に打たれながら、懐かしの校舎に踏み入る。
鮮やかだった赤絨毯はすっかり色褪せて、石でできた階段は危なっかしいほどなめらかだった。この建物は、もう随分古いのだ。
生徒たちに進路の話をするうえで、社会人生活中に一年間仕事をお休みしていた話をした。「映画を観て、本を読んで、文章を書いて、ひたすらのめり込んだ一年が、いまの仕事に繋がってる」と話した。それを聞いていた先生が、「ほんとに、よく書いてたよな」と、声を掛けてきた。
「先生、若い女と再婚したんでしょ」と、下品な冗談をぶつけてみる。
「おまえ、そういう言い方するかあ?」
笑いながら肘で突いてくる。あの頃と同じで、思わず胸が色付く。
「図書室を見に行きたい」と言うと、特別に鍵を開けてくれた。ふたりきりの図書室は、まるであの頃のお昼休みが帰ってきたみたいだった。
あの部屋は、今はもう先生のものではない。
かつての先生の部屋は、他のひとのものになっていた。
昔は書類がきちんと仕舞われていたけれど、今は開いたまま机に置き去りにされている。
「先生って、綺麗好きだったんだね」
「そうかあ?」
「そうだよ、もっと整理されてたもん。あとお菓子も置いてあった。それから、ここの引き出しにいつもタバコが仕舞ってあった」
奥の壁に付けられた三台のデスクの内、真ん中のデスクの引き出しを指さす。私が小論文を書き直している間、先生はここからタバコを取って喫煙所に行っていた。
その間、先生に用がある人はわたしに声をかけて、その度にわたしは「タバコを吸いに行きました」と、答えていた。
「もうやめたよ、タバコ。やめたか?」
「やめてないよ。たまに吸う」
「やめた方がいいよ~体に悪いよ」
あ、俺が言えたことじゃないか。先生が笑う。
あの頃の先生は、シャツからタバコの匂いがした。タバコと、澄んだ水のような匂いが混じっていた。
話が尽きない先生に、色んなことを思い巡らせた。
26年間の人生で、三度だけ恋をした。
その内の一人が先生だった。
三度とも、実らない恋だった。
それで良かった、美しいままに留めておきたかった。
この人より愛しい人なんて、もう現れなくていい。
「久しぶりに話せて良かったよ」
はにかむ先生の肩に、昔と同じように頬を寄せる。
タバコの匂いも、澄んだ水のような洗剤の匂いもしなかった。
拝啓、マイルドセブン。
もう出会うことはないけれど、あなたの匂いを、またきっと思い出す。
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