第31話


 家の扉を開けると、待ち構えていたかのようにあの人が台所から顔を覗かせた。蹴飛ばすように靴を脱いで、あの人の着ている割烹着の襟を掴む。落ち窪んだ瞳が、きょろきょろと揺れ動いているのを見ながら、私は震える声であの人を問い詰めた。


「手紙、何処にあるの」


 あの人は私から目を逸らして、私の手を離そうと蛙のようにもがいている。


「何を、言っているの。それより、夕飯までに帰ってきてって言ったじゃない」

「お願い。石川樹里からの手紙、出して。早く。でないと私、あなたに、何をするかわからない」


 私が異常な興奮状態にあることを察知したのか、あの人は怯えたように身体を強張らせた。それからおそるおそるといった風に私から離れ、箪笥の二段目の中からゴムを巻きつけた手紙の束を取り出した。私は息をのんで、恐る恐る、石川樹里がかつて少女だった私に向けてしたためた恋文を受け取った。


 カーテンを閉め切った真っ暗な部屋に光を灯して、深呼吸をする。


 ピンクや、橙、アイボリーやベージュ。私の好きな色ばかりで統一された綺麗な色の封筒が目の前に並んでいる。宛名の欄には全て私の名前が書かれていて、封筒の後ろには石川樹里の名前が記されていた。私ははやる気持ちに掻き立てられながら、最も消印が古い手紙を一通手に取り、ゆっくりと開いた。


 お元気ですか。

 今日、夢を見ました。あーしたちが一緒に、この何もない場所で、穏やかだけど幸せな毎日をおくっている夢です。


 その手紙に書かれているはじめの一文を読んだだけで喉の奥が震えた。続いて、しゃくり上げるほどの嗚咽が止まらなくなった。今は私たち、同じ場所に生きてはいないけれど、この文字を私に向けて綴っているときの石川樹里は、確かに私のことを愛していたのかもしれない。


 その取り返しのない時間を思って、私は泣きじゃぐった。次から次へと涙の粒がぽろぽろとこぼれて、薄い色の封筒を濃く染めあげていくのを見ていたら、また泣けた。石川樹里の決して綺麗とは言えない「好きだった」が二重に滲む。

 私の届くことを願ってしたためられた手紙が、ようやく時を経て、辿り着いた場所。ベッドに寝そべって、温暖色の封筒をぱらぱらと顔の方へ落としていく。


 まるで桜の花びらのように見える手紙たちは、時間を止めたくなるくらい綺麗な姿をしていた。息が止まるほど、心が震えるほど。


 いつか私は、あなたの不器用な優しさを、忘れることができるだろうか。

 

 さよなら。

 さよなら。

 さよなら、あの頃の私。

 さよなら、大好きだった人。


 −さよなら。


 とんとん、と扉を叩く音がして、手の甲で乱暴に涙をぬぐう。伸ばした右手が、かつての私が住んでいた部屋の扉を開けた。






【終】

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さよならノスタルジー ふわり @fuwari

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