第29話


 5年ぶり、と答える声が微かに上ずっていることに、石川樹里は気がついただろうか。淡く透けた柔らかそうな茶髪が、夜風にさわさわと揺れている。

 ベンチに座ると丸くなる猫背も、伸ばすと血管が浮く骨ばった手足も、石川樹里のすべてがひどく懐かしいのに、纏っている雰囲気はまるで別人そのものだった。


 私の知っている石川樹里は、こんなに大人っぽい表情をして、タバコを吸う女の子だっただろうか。私の知っている石川樹里は、女の子のような顔をして幸せそうに笑っていただろうか。違う。全然違う。だって、私の知っている石川樹里は。

 石川樹里の変化は、残酷にも私たちの間に平等に流れていた時間をくっきりと浮かび上がらせていた。


「さっきの子、帰らせちゃっていいの?彼女なんでしょう」

「そう。よう、分かったなあ。付き合ってもう3年目やけ、全然いい。せっかく久しぶりに会えたんやし。なあ、草間、今まで何しちょったん」


 3年。私と石川樹里が過ごした時間よりもずっと長く、彼女たちは一緒にいるという事実が私を打ちのめした。何をしていたんだろう。私は今まで、ずっと、あなたのことを忘れられなかった。忘れることなど、できなかったのだ。

 でも、そんなこと、当然、口にできるわけが無かった。


「私、東京の大学に行って、そのまま東京で就職したの」

「そう。念願叶ったんやな。やったやん」

「石川樹里は、何してるの?」

「あれ、運転してる。毎日、じじいやばばあに料理を届ける仕事」


 石川樹里は公園の入り口付近に止まっている、日動フーズと書かれた黄色のトラックを指差した。トラックの運転手。それは石川樹里に似合いの職業のように感じた。誰かの前で自分を飾ったり虚勢を飾ったりしない石川樹里の率直な優しさはきっと、おじいちゃんやおばあちゃんの心を和ませるだろう。

 互いの近況を粗方話し終えると、私たちは無言になった。冷たい匂いのする秋の風に髪を靡かせながら、バレないようにこっそりと、石川樹里の横顔を盗み見る。何処か居心地悪そうに俯いている横顔に、石川樹里も私と同じような気まずさを抱えていることが分かった。木の葉の揺れるざわざわとした音に耳をすませていると、石川樹里が私の方を向く気配がした。真剣な瞳で私を見つめる石川樹里の顔は緊張しているのか強張っている。


「あのさ。草間は好きだった、あーしのこと」

「何でそんなこと、聞くの」

「何か、夢見とったみたいなんやもん。フィクションの中に存在する嘘みたいで。二人でこの町を出て東京に行ったりこと、二丁目のバーでアルバイトしたこと、あんな・・・」


 そこで口をつぐんだ石川樹里が今誰のことを考えているのか、私にはすぐに分かった。


「好きじゃなかったら、駆け落ちなんて、するわけないじゃん」


 好きだったよ。ずっと。ずっと好きだったよ。

 口に出すことを許されない恋文を心の中でそっと呟きながら、私は自分の腕の中に石川樹里を入れてそっと抱きしめた。ぴょんぴょん跳ねた短い髪の毛が私の頬をくすぐる。


「そっか。良かった、良かった」


 何度も何度も、良かったと繰り返す彼女はきっともう、私という厄介な思い出を箱の中に閉じ込めて、一生外に出さないだろう。目の前に開かれている未来だけを見据えて、あのピンク色のワンピースの彼女と一歩一歩を歩いていくために。これも良い思い出だったと、偶に振り返って懐かしむために。

 だけどたった一人取り残された私は亡霊のように、この街を漂いつづけるのだろう。


 たった一人。馬鹿のひとつ覚えみたいに。

 たった一人。取り残されて。たった一人。ずっとあなたを好きでいる。

 勢いよく立ち上がる私に、石川樹里は驚いたような顔をした。


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