第26話
「なあ、何処行くん」
ラブホテルを出て、携帯も持たず、一直線に人ごみの道路を歩く私の背中に石川樹里のか細い声が突き刺さった。息の詰まるような思いを飲み込んで、振り向かずに「もう帰らなきゃ」と呟く。けれど私の声は石川樹里の耳には届かなかったようだった。
「何処行くんっ」
それは悲痛な叫び声のように聞こえた。限界だった。私はついに立ち止まって、石川樹里の方を見遣った。石川樹里はきっと私をにらみつけて、その場から動こうとしない。幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を浮かべる。
「わかってるでしょ。もうここにはいられないって」
「わっかんねー。全然、わかんねえ」
「だって、私たち、何にもできないもの。力はないし、お金もないし、売れるものっていったら心だけ。でも、心は売っちゃいけないの。それは自分を殺すってことだから、ダメなの。だから、愛子は、きっと・・・」
きっと、の後に続ける言葉を、私は見つけられずに俯いた。重い沈黙が流れ、一台のトラックが私たちの横を通り過ぎていった。排気ガスの煙たい煙が漂って、すぐに風に吹かれて消えた。
「もう、終わりなのかよ、あーしら」
石川樹里は子どもみたいなことを言って私を困らせた。でも、目が赤く充血しているのを見たら、何も言えなくなってしまう。いつもは飄々としているくせに、こういうときにこんな顔をするなんて、ずるい。
「うん。終わりだよ、終わり。きれいさっぱり、ジ・エンド」
「別に、いいやん。ここで暮らせんなら、あっちで一緒にいればいいやん。家賃だって安いし、仕事も選ばなけりゃあるし。贅沢はできないかもしれないけど、何とか暮らしていけるって。そうしようや、な?」
捨てられた犬のような瞳が、私を責める。
そんなこと言わないで欲しかった。未来永劫来るはずのない「いつか」を願って亡霊のように生きるなんてまっぴらだった。だってそんなの、悲しすぎるから。
「できないよ。私、子どもだから、自分の思う通りには生きていけないもの」
「じゃあさ、大人になったら、結婚せん?」
あまりにも幼い問いをされて、言葉に詰まる。大人になっても、私たちは女同士、結婚なんてできない。でも、石川樹里が欲しがっている回答はそれでないということだけは分かった。彼女の求める不確かな「約束」はきっと、これからの生き地獄のような日々をやり過ごしていく麻酔のような薬になるのだろう。
だけど。だけどそんなものに、意味などあるのだろうか、とやけに冷静になっている頭で思う。私は、石川樹里と一緒に過ごした時間を、安っぽいセンチメンタルに浸る材料になんてさせたくなかった。多分、石川樹里よりもずっと、きっと、今日までの日々を愛しているのは、私の方だったから。今にも放出されそうな涙の粒を飲み込んで、深呼吸する。
「しない。結婚はしない。それから私たち、もう会わない」
「・・・なんでだよ」
身を切るような思いで、続きの言葉を告げた。
「私はもう、石川樹里と一緒に、夢を見ることができないから。だから、朝が来たら、さよならしよう」
石川樹里が声を出さずに泣いていることに気づいて、私は歩くスピードを速めた。後ろからついてくる石川樹里に追いつかれないように。石川樹里が私の背中を見失ってしまうように。足を止めれば弱々しく震える彼女の肩を抱きしめてしまうことが分かっていた。
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