第25話
新宿をふらついても、家出少女の私たちに行く宛などあるはずもない。パトカーの信号の赤色や、警官らしき青色の制服を目にする度、息が止まるような思いをしながら二丁目に向かった。私と石川樹里の間には、今までになく重い空気が漂っていて、毒にも薬にもならない話、例えば煙草を吸う時に咳込まないようにするためのコツとか、そういったどうでもいい話をすることしか、私たちにはできなかった。
扉の鍵穴に鍵を差し込み、ぐるりとドアノブを回転させると、鼻腔をつく腐臭がした。昨晩シフトに入っていた女の子が生ゴミを出し忘れたのかもしれない、と思う。一歩足を進めるほど強まる異臭の正体を、私たちはすぐに知ることになった。
最初に視界に入ったのは、床に落ちている割れたワインの瓶だった。紫色の液体がまあるく円を描くように散らばっていて、その中央につま先が黒く汚れたコンバースのスニーカーが揃えて置かれている。次に目に入ったのは、宙に浮いている裸足の足だった。石川樹里がその場の空気を切り裂くような悲鳴をあげるのと同時に、私は倒れている椅子の上に乗って、吊るされた愛子の首に巻きついているロープに手をかけていた。
その肌の硬さや、血の気の失せた顔色、服の間から飛び去っていく大きな蝿から見て、愛子が死んでいるのは明白だったけれど、それでも私は、愛子の生から離れられなかった。石川樹里の叫び声が、狭いバーカウンターいっぱいに反響する。
暫くして、地面に落とした愛子を見つめて泣いている私の代わりに、石川樹里は震える声で沙月に電話をかけて、事情を説明した。石川樹里は明日からのシフトについて何も言わなかったし、沙月も何も聞かなかった。きっともう、分かっていたのだと思う。私たちが明日、この場所にやってこないということを。
私たちは手を繋いでバーを出ると、新宿の街をふらふらと彷徨った挙句、誰も好きこのんで入らないような、壁が茶色く変色したラブホテルに入った。辺りは既に闇に包まれていて、客引きの黒服の男が私たち二人を見て意味深に微笑んだ。私たちが同じ時間を過ごす最後の夜になるということを、痛いほど良く分かっていたから、性急にことは始まった。
部屋に入るなり、石川樹里は私を強く抱きしめた。あらん限りの力を込めて抱きしめるので、私はこらえていた涙を放出させずにはいられなかった。息もできなくなるほど、私たちは互いの唇を貪り合った。頭の中に浮かぶ愛子の亡霊を振り払いたくて、私は石川樹里の大きな胸に顔を埋めた。石川樹里もきっと、同じ気持ちだったんじゃないかと思う。膨らんでいく死への欲望を身体の中に抑え込むために、私たちは互いの身体の奥に深く触れるしかなかった。
石川樹里の赤くざらついた舌が、白熱灯に照らされた私の肌の上を這っていく。恥ずかしいとか、きたないとか、そういう気持ちは一切、浮かんでこなかった。それは後ろめたく性的なものからは離れた自由な場所にあり、ごく自然で当たり前のことのように感じられてならなかった。
どうしてもっと早く、石川樹里と肌を触れ合わせてこなかったのかと不思議になるくらい、石川樹里の身体は私にぴったりと寄り添った。とろとろとした液体が身体の中心から溢れてきたのを見ると、石川樹里はそれを啜りながら、切なそうに顔を歪めた。何度目かのキスをして、唇と唇の間に透明な光が落ちてきた瞬間、石川樹里のことを愛してる。がさつで、鈍感で、私なんかについてきた頭の悪いこの女の子のことが、世界で一番特別で大切だったのだと、そう思った。
のたうち回りたくなるほどの感傷が胸を襲った。いつの間にかぼろぼろと泣いている私に、石川樹里は涙の理由を聞かなかった。私たちがお互いだけで生きていけない不自由さが苦しかった。好きだというだけで世界を革命できない自分の力の無さが切なかった。石川樹里の肌はしょっぱい海の味がした。きっといつまでも今日のことを忘れることができない、17歳の最後の夏の味がした。
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