第23話


「どうしたの、顔色、めちゃくちゃ悪いよ」

「うん、ちょっと眠れなくて」


 石川樹里のすっきりとした顔を見ていると、私は何だか苛々としてきて、個室を出るとネットカフェに備え付けられている簡易製のシャワーに向かった。このままだと、石川樹里に当たり散らしてしまいそうな自分が怖かった。

 濡れた髪の毛をタオルで拭きながら廊下に出ると、突然右腕を掴まれる。全身の毛穴が収縮するのを感じながら振り向くと、そこには一人の男が立っていた。

 にやにやとした笑みを浮かべて、私の腕を撫でさする男の身体からは、アンモニアと汗の混じった強烈な腐臭がした。手で鼻を覆いたくなるのを何とか自制しながら「何ですか」とつぶやいた声はひどく小さく耳に聞こえた。


「君たち、ここに住んでるの?もう一人いるでしょう。ショートカットのボーイッシュな子。僕ね、なんでも知ってるんだよ。君たちが付き合ってることも、二丁目の変態バーで働いていることも」


 男は甲高い笑い声を上げたが、目は少しも微笑んでいなかった。世間と相容れない者のみが持つ仄暗い闇を全身に纏った男は、頭の天辺からつま先まで、私をじろじろと視姦した。


 気持ち悪い、怖い、逃げたい。

 

 気づいたときには販社的に男の手を振り払っていた。男は私をぎろりと睨んだ。しかし、私の身体が小刻みに震えているのに気づくと、顔中を弛緩させて、私に体を近づけてきた。

 一歩、また一歩と後ずさる。右足のかかとが、背中の本棚の存在を知らせた。逃げることはもはや不可能に思えた。男の油臭い息が、私の首筋に吹きかけられて、体中にぷつぷつと鳥肌が立つ。


「ねえ君、もしあの子と一緒にいたいなら、僕の言う通りにするんだ。いい子だから。悪いようにはしないからね」


 男は私の肩に爪の先が真っ黒に染まった手のひらを私の肩に置いた。その瞬間、ぽろぽろと、それまで我慢していた涙が溢れた。

 恐ろしかったという訳ではない。私は私の無力さに絶望していたのだ。自分が何の力も持たない、ただの子どもであるということをまざまざと思い知らされた。好きな場所で好きな人と一緒にいることさえ、今の私にはできなかった。


「どうする?君に任せるよ」


 値踏みするような目つきに、男の目的をすぐに察して、一瞬の躊躇もせず、私は首を縦に振っていた。男はにやにやと意味ありげに笑い、「じゃあ行こうか」と明るく言った。男の背中を追いながら、こんなことなら、もっと早く、石川樹里に触れておけばよかった、と考えていた。たったひとつ後悔していることがあるとするなら、ただそれだけ。

 手のひらを握りしめた瞬間、男の丸まった背中がいきなり目の前で静止し、つんのめるようにして距離をとった。


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