第22話


 すりガラス窓の向こう側が白く明るくなった頃、愛子はようやく席を立った。今日は随分飲んでいたせいか、立ち上がるときに身体が少しふらついたので、慌てて腰を支えてやる。

 愛子はバーから出ていく直前、私の方を振り返って言った。


「・・・ねえ、この暮らし、きついでしょ」


 遠慮がちに頷くと、愛子は「正直だね」と笑った。すぐ近くに他人が眠っているネットカフェ、昼夜逆転する毎日、いつ終わりが訪れるかわからない生活の不安。何をしていても、常に灰色の霧が心を覆っているようだった。


「家出、してこなきゃ良かった?」


 2つ目の質問には、迷わずぶんぶんと首を振った。不安定な暮らしが苦しくても、石川樹里と一緒にあの街から逃げるという選択を後悔したことなんてなかった。例え過去に戻れるとしても、あの日をやり直せるとしても、私はきっと同じように、石川樹里の手を取るだろう。大切なものだけをキャリーバックに詰めて、蒸せ返るような匂いのする森林を抜けて、後先考えず衝動的に、ピンク色の夜行バスに飛び乗ってしまうのだろう。

 背後から石川樹里の腕が回ってきたかと思うと、不意に抱きしめられる。人前でいちゃいちゃすることなんて、今まで一度もなかったのに。頬が熱くなるのを感じながら、いたたまれなくて俯く。


「ふたりがらぶらぶで、良かったよ、あたしも。じゃあね、元気でやりなよ」


 片手を上げて去ろうとするガリガリの背中を石川樹里が「あの」と呼び止める。硬くて小さい声だった。


「愛子さん。身体、大丈夫なん。幾ら何でも飲み過ぎだし、それに、随分・・・」

「大丈夫。あたしはまだ、大丈夫だよ。あたしのこと心配する前にさ、自分たちのこと、心配しな。中卒の女ふたりが生活するって、あんたたちが思ってるよりずうっと、難しいことなんだからね」


 私と石川樹里はそれ以上何も言えなかった。愛子のタバコの量が以前より増えていることにも、お酒を飲むスピードが早くなっていることにも、指が小刻みに震えていることにも、気付いていたのに。恐らく随分前から、きちんと眠れていないのだろう。目の下にギャルメイクでも隠しきれない大きな隈をつくっている彼女に、私はかける言葉を見つけられないまま、背中を見送ることしかできなかった。

 ネットカフェに帰ったのは明け方だった。眠りに落ちようとした頃、隣の部屋にカップルがやってきて、何やらひそひそと囁いていたかと思うと、女の子の方の声が段々と喘ぎ声に変わり始めた。あっあっあっ。女の子の喘ぎ声と共にソファの軋む音が同じテンポに聞こえる。その音を聞きながら何だか私はうんざりしていた。足を思い切り伸ばすことすらできないこの狭苦しい空間にも、知らない誰かの立てる生活音で眠りから覚める朝にも。


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