第20話
「寝ちゃいましたね、愛子さん」
時計の短針が午前4時を回った頃、愛子はバーカウンターに突っ伏して寝息を立てていた。呆れたような顔で、愛しい者を見るような目をしながら、沙月は愛子の肩に毛布を掛けた。
「しょうがないなあ。満員電車の中とか、平日昼間の公園のベンチとか。何処でも寝るんだよね、この子」
この子、という言葉の響きに何だか親密な気配を感じ、「もしかして二人も、恋人同士だったりするんですか」と興味本位で尋ねると、沙月は笑って首を振った。胸を締め付けられたのは、その笑顔が寂しそうに見えたからだった。
「ううん。あたしはお客さんだから、好きになっちゃいけないの」
「お客さんって?」
「愛子に聞いてない?この子、デリヘルやってるの。女の子専門のね」
絶句した私たちに向かって、沙月は「あたしも似たようなこと、やったことあるよ。それくらい、生活するって厳しいんだよ」とあっけらかんと言ってのけた。私は返す言葉を見つけられなかった。ショックを受けたというよりも、好きでもない誰かに身体を売ってお金をもらうということが、一度もセックスを経験したことのない私には、良く分からなかったのだと思う。
沙月の欠伸につられて石川樹里も大きく欠伸をした。私はほっとして、「そろそろ帰ります」と言って沙月に頭を下げた。私にも石川樹里にも、帰る場所なんてなかったのだけれど。歌舞伎町のネットカフェに戻る途中、石川樹里の背中で眠る愛子の目から、一筋の涙が頬へ伝い、黒いマスカラが滲んだ。
ネットカフェの受付を済まし、薄い板で仕切られた個室の中に座ると、あちこちから鼾のような音が聞こえた。ちっとも慣れる気がしないけれど、住めば都と言うし、それ程居心地の悪い場所でもないかもしれない。必死に気分を立て直そうとするも、愛子の涙が頭の中をぐるぐると回っていて、何だか上手くいかなかった。そんな私の気持ちを知ってか、石川樹里はひそひそ声で私に耳打ちした。
「でもよかったよな、働き口見つかって」
私たちふたりは今日から、二丁目のバーでアルバイトをさせてもらうことになった。沙月の紹介で、人が足りていない店にヘルプに回るらしい。お酒も碌に飲んだこともない私たちにバーテンダーが務まるのか不安ではあったけれど、私たちに与えられた選択肢は一つしかなかった。お金を得るために、何が何でも働くしか。
隣でギャグ漫画を読みながら船を漕いでいる石川樹里を見ていると睡魔が襲ってきた。足を曲げて、泥のように眠った。色々なことがあって、身体の隅々まで緊張していたのだ。夢の一つも見なかった。
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