第19話
新宿東口から10分ほど歩き、つけ麺店の角を曲がると、男性ふたりがこっちを向いて笑っているピンク色の看板が目に入った。両者共に筋肉がモリモリとついている。書かれているキャッチコピーを見てやっと、HIV検査を呼びかけるポスターだと気づく。
辺りを見回すと、男性同士のカップルが肩を組んで歩いている様子に軽いカルチャーショックを受けた。背中からピンク色の羽を生やした客引きのニューハーフが、男性カップルを冷やかすように、ほんの少し羨ましそうに口笛を吹く。生まれて初めて目にする光景に、私と石川樹里以外気をとられている様子はない。これが新宿二丁目の「ふつう」なのかもしれない。
私たちに気づいた人たちは皆、明るい笑顔で愛子に声をかけている。愛子がうるさそうに「へーい」と返事をするのにも、特段気分を害した様子はなかった。愛子はこの街の常連なんだろうか。もしかしたらこの子も、女の子が好きな人なんだろうか。気になっていたことを遂に口に出してしまう前に、愛子は路地の奥まった部分にある寂れたマンションの302号室のチャイムを押した。
「はーい。いらっしゃい。珍しいね、お友達も一緒なんて」
出迎えてくれたのは黒髪を短く刈り上げたファンキーなヘアスタイルの少女だった。歳は18くらいだろうか。軟骨だけでなく唇にもピアスを嵌めている。ロックな出で立ちに些か不安を覚えながら、石川樹里の背中に続いて中に入る。席が10つもない程の小さなバーのカウンターには、カラフルなお酒の瓶が敷き詰められるように置かれている。
「つったってないで、座ったら」
「あ、はい。すいません」
「沙月、この子たちにコーラちょうだい。あと、あたしにはビールね」
「はいはい。程々にしときなよ。忘れてるかもしれないけど、あんただってまだ未成年なんだから」
「相変わらず過保護だね」
愛子はビール瓶をラッパ飲みしながら、人差し指と中指で挟んだタバコをふかす。
何故かガチガチに緊張している石川樹里の右の席に腰掛ける。沙月と呼ばれた少女はにこやかに微笑み、私たちの前にコーラの入ったグラスを置いた。からからに乾いていた喉に炭酸が弾ける感触が嬉しかった。
「ねえ、どっから来たの、あんたたちふたり」
私たちは顔を見合わせて、目配せをした。あまりべらべら人に話すべきことではない。石川樹里も私と同じく用心した方が良いと感じたのだろう。
「家出?」
「いーだろ別に」
私たちが口を開く前に、愛子が面白くもなさそうに言った。沙月は重いため息をついて、私と石川樹里の顔を交互に見比べた。
「今時甘くないよ、家出少女なんて。家泊めてやるって言う変態男の家渡り歩いたってさ、その内変な奴に捕まって、フーゾクで働かされるのがオチ。下手すりゃ一生鳥かごの中から出られなくなるよ。それでもいーの」
私は何も言えなかったし、石川樹里も何も言わなかった。沙月は両親から庇護されている力のない子どもの私たちに「でも、仕方ないよね」と言って微笑んだ。
火のついたタバコからぽろりと落ちた赤い閃光が、一瞬にして消える。
「あたしも愛子もね、家出少女なの。あなたたちと同じように、ボーリョクする親から逃げて、ここにやってきた。私たち、贅沢の味なんて生まれたときから知らないけど、それでも何とか暮らしてる。明日どうなるかなんて分からないけど、今日はまだ生きてる。大丈夫なんて言ってあげられないけど。歓迎なんてしてあげられないけど。でも、良く逃げてきたね。えらい、えらい」
石川樹里の手のひらが肩に触れるまで、私は自分が泣いているということに気づかなかった。私の周りに、こういう言葉をかけてくれる人はいなかった。惨めに耐え忍ぶ他、この不平等な世界を生き抜いていく方法はないのだと信じていた。
でも。東京の中にある新宿の街の、小さなぼろアパートの一室で、自分と同じ立ち位置から、同じ視線で、同じことに悩み、同じ未来を志向した人と出会った。まるでそれは奇跡のような瞬間で、何も見えない孤独の穴の底に、一筋の光が差しているようにも感じられた。私はひょっとすると、幸せになることを怖がらなくてもいいのかもしれなかった。涙は止めどなく溢れて、着ていたグレーのワンピースにいくつものシミをつくった。
石川樹里との出会い、一緒に見た海月の藍色、31アイスクリームの味のことを、沙月は心から楽しそうに聞いてくれた。ピンクのパーカーのフードを頭にかぶっている愛子は黙って、ジョッキに注がれたビールに口をつけていた。朝がくるまで私と石川樹里と沙月は大いに飲んで食べて、笑い、話しつづけた。
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