第17話


 街灯の少ない田舎町では、20時を過ぎると辺りは暗闇に包まれる。しんとした静寂の中に、赤いトランクケースが道路の砂利を踏む音が響いている。

 登山に行くときのような大きめのリュックを軽々と背負っている石川樹里の背中がどんどん遠ざかっていく。不安になって、「ちょっと、待ってよ」と声をかけると、石川樹里は振り返って、私の体力の無さに呆れたような顔をした。


「早くしねーと、夜行バス、発車すんぞ」

「だって、重いんだもん。これ」

「荷物、詰めすぎやろ。余計なもん、持ってきたんじゃろ」

「そんなことない。樹里の荷物が少なすぎるんだよ」

「持っちゃる」

「・・・ありがと」

 

 礼を言うと、被っていた野球帽を目深に被りなおす。真っ暗な中でも照れているのが分かって、何だか気まずかった。黙って夜更けの路地を歩き出す。

 田んぼだらけの道を抜けて、黒い虫がたかっている街灯を眺めながら、途中自動販売機で三ツ矢サイダーを買ってもらったりして、駅までの道をふたり歩いた。23時発のピンク色した夜行バスの中に乗り込む頃には、夏の湿気で体中の皮膚がべとべとになっていた。

 隣同士に座り、じんわりと湿った石川樹里の手のひらのぬくもりを確かめる。私たちここにいるのだと、大嫌いなこの町から今日ふたりで出て行くのだと、バスが動き出してそう感じられた瞬間、生まれ育った土地を後にする感傷なんて、淡雪のように溶けて消えてしまった。埃っぽいエアコンの風を思い切り吸い込んだ時、目をつぶっている石川樹里が言った。


「こわい?」

「ううん、こわくないよ」

「嘘つき」

「本当はこわい」

「やっぱり」

「石川樹里は?」

「うん。こわい。でも、大丈夫だよ。あーしには草間がいるし、草間にはあーしがいるから」


 これからどうしようか。

 本当は不安でどうかしそうだったから、縋るように尋ねたかったその言葉を胸の奥に飲み込んだ。信じたいのはひとつだけ。信じられるのはひとつだけ。今の私が大切にしたいものはこの右手の感触だけ。窓ガラス越しに通り過ぎてゆく海や山や風その全てが、私の体をこの小さな街に縛り付けていた鎖を葬り去ってくれるように思えた。

 すぐに寝息を立て始めた石川樹里とは違って、目を閉じても、ちっとも眠気はやってこなかったから、アイポッドの電源を入れて、ドビュッシーのアラベスクを聞いていた。いつまでも、こわい夜が明けるまで。


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