第15話


 あーし。くさまのこと、すきかもしれん。

 うん。私も、石川樹里のこと、好きだよ。


 メッセージにそう返信することができたのは、大分後になってからだった。

 もう一ヶ月ほど学校には行っていない。顔の横半分を殴られてできた内出血の黒い痣が消えるまで、あのひとは私を家の中に閉じ込めて、一歩も外へ出さなかった。

 スマートフォンを取り上げられ、カーテンを閉め切った部屋の中にいると、まるで時間が止まってしまったように感じられた。今までの出来事が過去のものになり、砂が海水に流れていくようにさらさらと消えていくのが分かった。


 あのひとの耳をつんざくような怒号を聞いたとき、あのひとの手足が私を破壊しようとしたとき、私の体の中では音楽が鳴っていた。座っているだけでタバコの臭いが体に染み付きそうなカラオケルームの中で聞いた安っぽい恋愛ソング。笑っちゃうくらいセンチメンタルなその曲に、石川樹里のかすれた甘い声に、私は命を救われているのかもしれなかった。


「今日から、学校、行っていいわよ」


 ここ一週間ほど、服に隠れて見えない場所をけられ続けていたのはこの為だったのだろう、と私は嘆息した。昨日の晩とは打って変わって、憑き物が落ちたような表情でお弁当箱に玉子焼きを詰めているあのひとの背中に、肉が何重にも盛り上がっている。なにせ、早く死なないかな、ということばかり考えていたのだ。鏡に映った自分の光のない瞳はすっかり落ち窪んでいた。

 「いってらっしゃい」というあのひとのいやに明るい声を背景に家の玄関の扉を閉める。ピンク色の水玉模様の風呂敷に包まれたお弁当の重さが、ずっしりと肩にのしかかるようだった。


 「おはよう」というやけに明るい声が聞こえたとき、私は振り向くことが怖かった。何かが決定的に変わってしまう予感がしたから。何かが終わり、何かが始まってしまうことが、何かを失い、その代わりに何かを手にするということが、私にはひどく怖いことのように思えたから。けれど石川樹里は私を待っていてくれた。水族館に一緒に行ったあの日からずっと。


「おはよう。石川樹里。ノート、見せてくれない」

「いーよ。多分、起きてるとこ少ねーけど。しかも字、きたねーけど」

「なにそれ。じゃあ、やめとく」

「元気そーやね」

「元気だよ。石川樹里に会えたから」

「そっか」

「うん」

「よかったよ」


 石川樹里は立ち止まって、泣きそうな顔で私を見た。


「お前が死ななくて、本当によかった」


 石川樹里が沈黙したので、同じように私も沈黙した。自転車をついて歩く石川樹里の表情は髪に隠れて読み取れない。あの、私たち付き合っているのでしょうか。そう聞いて安心したかったけれど、つまらない女の子だと思われたくなくて、勘違いが露呈するのが怖くて、私は何も言えないままでいた。


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