第14話
「おかあさん」
呼吸をする度軋むような胃のあたりを両手で押さえ、階段の踊り場に立ちゆっくりと振り向くあのひとの顔を見上げる。階下に転がり落ちたせいで、打ち付けられた全身が痛みに悲鳴をあげているのが分かった。あのひとは目のふちに涙をいっぱいに溜めて、髪を振り乱しながら猛獣のような唸り声をあげている。
「この家から逃げるなんて許さない」
あのひとは私のお腹のあたりを勢い良く蹴り上げた。息もできなくなるような強い衝撃が襲い、身体をえびのように曲げて、痛みから逃れようとする。興奮したあのひとの白い唾が私の頬に飛んできた。
「お前は、一生、私のそばにいて、私が世話してやった分だけ、私を世話するんだ。あたしを置いて、自分一人だけ、幸せになろうなんて、許さない。絶対に、許さない。許さない」
あのひとは許さない、と何度も繰り返し、その度に、私の腹部を蹴った。サッカーボールを扱うような気軽さでそうするので、途中から私はまるで自分がモノになったような錯覚に陥っていた。
いつからだろう。えも言われぬ寂しさに心を支配されたあのひとが、私を殴ることに快感を覚えるようになってしまったのは。ごめんね、ごめんねと繰り返していたころ。全てが終わったあと、泣きながら私を抱きしめていたあのひとはもうここにはいない。ここにいるのは誰だろう。このひとは誰だろう。
蹴られながら、殴られながら、踏みつけられながら、スクールバックに忍ばせていた携帯電話に手を伸ばす。
「何やってんだ、お前」
手を引っ込めようとしたが、遅かった。あっと言う間に、私の右手はあのひとの右足に踏みつけられていた。ごり、と骨が割れるような音がして、声にならない叫びが喉の奥で爆発する。意識が遠のくような痛みが、右手から全身に広がっていく。
「お前なんていなけりゃ、お前なんていなけりゃ私がこんな目に合うこともなかったんだよ。全部お前のせいだ。お前なんていなけりゃいいんだよ。死ね。さっさと死ね、死ね」
死ね、死ね、死ね。
死ね、という言葉が、頭の中で反響し、分裂し、何処までも広がっていく。どいつもこいつも気が狂っているこの世界の中で、私の精神を今ここに留めようとする確かなものはただひとつだけだった。
指を動かしただけでびりびりとした衝撃が走る身体にムチを打ち、身体を横たえたまま、スマートフォンの画面を必死に見遣る。画面には一通のメッセージが白く浮かんでいた。涙で二重に見えるぼんやりとした視界の中、「ずっといえんかったけど。あーし。くさまのこと、すきかもしれん」という文章だけが、はっきりと色鮮やかに、映し出されていた。
あのひとが力一杯振り下ろした拳が、私の頭を割ろうとした。それを最後に、私の意識はそこで途切れた。
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