第10話
部屋の端っこに座ると、石川樹里が右隣に寄ってきて、「もうちょっと、詰めて」と言った。広くはないカラオケの個室に名前も知らないクラスメイトが15人ほど集まっているので、少し動けば膝がぶつかりそうだった。
目の前に居るクラスメイトの男子が私のことをちらりと見て、目を逸らした。誰もが私のことをここにいるべきでない人間だと感じているのが伝わってきて、いたたまれなくなる。
行きたくもなかった狭いトイレの個室の中で、重いため息をついた。
嫌な思いをするとわかっていたのに、どうしてついてきてしまったのだろう。やっぱり、用事を思い出したとかなんとか、理由をつけてこの世界から出よう。そう心に決めて301号室と書かれた扉を開けると、石川樹里はマイクを片手に、机の上に立って歌っていた。
それは携帯のCMの後ろでかけられている安っぽいJ−POPだった。ラブアンドピースを歌う、私が決して聞くことのない音楽のひとつ。クラスメイトたちは石川樹里の歌に合わせて、手拍子をし、合いの手を入れ、タンバリンを叩いた。
ドアに一番近い椅子に座って、声のかぎりに熱唱している石川樹里をそれとなく眺める。いつもの少ししゃがれたハスキーボイスとは違って、ビターチョコレートみたいに甘くって、胸の奥を切なくさせる声。テレビの音楽番組でこの曲を聞いたとき、あまりのお花畑ぶりにすぐにチャンネルを消したくなったのに。どうしてだろう、いつまでも彼女の歌を聞いていたいと感じるのは。
サビが終わり間奏部分に差し掛かったところで、石川樹里は照れ笑いを浮かべながらコーラの入ったコップに口をつけた。クラスメイトたちは「本気じゃん」と口々に言いながら、石川樹里の肩に腕を回した。仲の良い女の子たちが戯れ合う、それはとても自然な光景だった。この空間で異質なのは、私ひとりだけだった。
何故か熱いものがこみ上げてくるのを目の縁で押しとどめようとしていると、石川樹里がこっちを見ているような気がしたので、思いきり顔を伏せる。良く分かっていたはずなのに、石川樹里の周りにはこれだけ多くの人間が集まっている。そんなの、勝ち目なんて初めからなかった。
「はい。草間さんだっけ、次だよたぶん」
隣に座っていたポニーテールの女の子から黒いマイクを渡される。
「え、私、予約なんてしてない…」
「そうなの?まあ、いいじゃん。有名だもん、知ってるでしょ?」
「えっと…」
マイクを握り締めて呆然としていると、石川樹里が悪戯っぽい笑みを浮かべて、私に向かってウインクをした。冗談じゃない。人前で歌うなんて、できるわけない。
「次だれ?」
「さあ」
「草間さんでーす」
石川樹里の声に、頬のあたりに視線が集まる気配がした。
聞き覚えのあるイントロが流れ始めて、俯いたままマイクを握りしめる。マラソンを走った後みたいに、心臓がばくばくしていた。
喉を開いて、唇を開けた。
ニヤニヤと笑う石川樹里の顔を必死で見ないようにして、部屋の奥にあるテレビの画面だけを見据えて、何も考えず、曲が終わるのを待った。それはバラード調のしっとりとした恋愛の曲だった。春。恋人との別れを歌ったセンチメンタルな曲。いかにもって感じがして、全然好きじゃない。好きじゃないのに。
マイクのスイッチを切ると、ひゅーひゅーと冷やかすような口笛が聞こえた。
「草間さん歌うまいじゃん」と、一人の女の子が口にすると、私が何か言う前に、「やろ。知ってる」と石川樹里が調子よく言ってのけた。
「草間さんの声、けっこーかわいいからね」
二人でいるときはいつも、呼び捨てにするくせに。みんなといるときは、苗字で呼ぶんだ。どうでもいいことに何故かいらいらとして、背の高い透明なカップに入れられたポッキーをぽりぽりと齧った。
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