第9話


 教室に入るといつも私は、あのこの姿を目の端で探す。面白いくらいに私の世界があの子でいっぱいになってから、もうすぐ一ヶ月が経つ。

 きっと私は同じ制服を着た女の子の群れの中から、あのこの背中を一瞬にして選び取ることができるだろう。上履きで乱暴に地面を蹴る少しガニ股気味の足音を聞いただけで、背筋がピンと張り詰めるような気がする。オレンジ色の夕日に照らされたあのこの横顔を携帯の待ち受けに設定したいし、目を合わせないまま廊下で何度もすれ違いたい。

 案外高いしゃがれた声も、先輩から譲り受けたとかいう緑色のジャージのたるんだ袖も、走ると上下する足首の骨も、あのこの全てが私の心のど真ん中を貫くから。

 あのこの全てを知りたかった。一瞬で消えてしまうような泡一つ残らず、あのこの全てを、目に焼き付けたいと思っていた。


「なあなあ、何聞いちょん」


 寝ているふりをして、イヤホンの中の音楽を聞いているふりをして、教室の人間関係ごっこや格付け合いごっこから逃避していた休憩時間。いきなりピアノの音が右耳から遠ざけられて、反射的に顔を上げた。和やかに談笑していたクラスメイトたちの視線が一斉にこちらに向けられたような気がして、すぐに身体が硬くなる。

 教室では話しかけないでって、言ってるのに。

 無神経な態度に少し苛立ちながら、小さな声で「ドビュッシー」と答える。


「知らねーバンドだな」

「の、アラベスク」

「なんだそれ」


 一ミリたりとも接点の生まれない、無為な会話だった。芸術的なものとは一生縁のなさそうな石川樹里の無知が私は愛おしくてたまらなくて、つい怒っているのも忘れて、頬が緩んでしまう。


「草間さん、音楽好きなん」

「まあね」

「じゃあ今日、カラオケいかん?」

「・・・ふたりで?」

「いや、彼奴らもいっしょに」


 石川樹里が手を振った方向をちらりと盗み見る。茶髪ロングの軍団の中にいるひとりと思い切り目が合ってしまい、心臓がどくんと波打った。不思議そうな顔をして私を見る石川樹里は私とは別の次元に住んでいる生き物なのだと実感しながら、首を横に振る。


「行かない。行けるわけないじゃん」

「何で?」

「何でって」


 私がノリが悪くておとなしくてコミュ障で、空気も読めないブスな根暗女だから。

 そう説明するのも、そう説明して自分が傷つけられるのも嫌だったから、私は何も言わない。それにきっと、目の前の女の子に話したってわかってもらえない。人は得てして、自分が持っている才能のことを忘れてしまいがちだから。それがどんなに価値のあるものなのか、彼女はきっと知らないのだろう。


「いいじゃん。行こうよ」

「行かない」

「行こうって」

「行かない」

「放課後、校門の前で待ってるから」

「だから、行かないって」


 そのとき教室の扉が開いて、数学教師の浅田がやる気のなさそうな態度で入ってきた。ちょっと、と言いかけた言葉を引っ込めて、上げかけていた腰を下ろす。授業が始まって5分もしないうちに、石川樹里はうとうとと船を漕ぎ始めた。私は彼女の頭がゆっくりと上下する景色を見ながらぼうっとしていた。ノートをとったり、先生の話も耳に入れたりする時間すら勿体無い。ただ、この時間がいつまでも続けばいいのにと、春の陽だまりのあたたかな木漏れ陽の中で彼女の背中を見ていた。

 

 チャイムが鳴るのと同時に教室を出て行く私にクラスメイトたちは怪訝そうな顔をした。早足で廊下を歩き、上履きを下駄箱に突っ込み、ローファーのかかとを潰したままの状態で校舎を飛び出す。走るのが早いあの子に追いつかれないように、体育の成績が万年2の私は普段よりも歩くスピードを上げた。


「草間」


 商店街にある駄菓子屋の角を曲がって熱帯魚の商店の前あたりに差し掛かったところで、私の背中に耳慣れた声が飛んできた。私の胸を楽器のように震わせる世界でただ一人の女の子の声。赤い魚が群れになって泳いでいる透明な水槽に目をやったまま、普通だったはずの私を諦めて、「なによ」とぽつんとつぶやく。


「お前、歩くの、遅すぎ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る