第8話


「ねえ!何処行くの!」


 連結するように走るバイクの大群のクラクションに負けないように、声を張り上げて叫んだ。持ち手の部分を高く上げたカースト上位女子高生の自転車の乗り心地は決して良いとは言えず、石川樹里の骨ばった背中にしがみつくほかない。街灯の少ない闇の中を切り裂くように、自転車のヘッドライトが小刻みに点灯をつづけている。


「あーしのお気に入りの場所、もういっこ、あんの。この場所が嫌いな草間さんに、見せてやりたくてさ」


 石川樹里は私と同じように声をはりあげてそう言った。辺りが暗くて本当に良かった、と心の底から思いながら、こっそりと石川樹里の匂いを嗅いだ。汗の匂いに混じって、知らないシャンプーの匂いがした。私よりも広い肩幅を見つめながら、彼女の背中に頬を当てる。

 市内でいちばん大きな神社に向かうゆるやかな坂を上って十数分走ったところで自転車は止まった。23時の市民公園の中には誰もいない。スキップするように砂場を超え、ジャングルジムを上った先に、石川樹里が私に見せたかった景色が存在していた。

 辺り一面に広がる工場地帯を前にして、私はただただ圧倒されていた。


「すごい、きれい」


 ぽろりと唇からこぼれ落ちた一言は、私の本心からの言葉だった。

 無骨な鉄筋たちの群れは生きもののように蠢いており、私が生まれ育った小さな町に灰色の煙を蔓延させ続けていた。青い光が蛍のようにちかちかと点滅している様を真剣に見つめる石川樹里がいつになく真面目な表情を浮かべていることに気づく。


「あーしのオヤジ、あん中で汗水垂らして働いちょるん。家、離婚しちょるけ、なかなか会えんけど、あの灯が点滅してる間は、オヤジがあそこに居るって分かる。毎日こーしてチャリ飛ばして、こっから見とるんよ、いつも」


 夜更けの湿った空気の中にぽつりぽつりと放たれる言葉に耳を傾けながら、私は動揺する気持ちを押し込めて、相槌をうった。何せ、石川樹里の家が離婚していることも、お父さんと会うことを禁止されていることも、その時初めて知ったのだ。今まで人と深くつながることを恐れてきた私は、こういう時に人の心を優しく撫でることができない。


「あーし、誰かをここに連れてきたのも、オヤジのこと話したのも、初めてや」

「そうなの。…石川さん、友達、たくさんいるのに」

「なんでやろな。なんでか、みんなには話せんのに、草間さんには話せた」

「私が根暗のメンヘラだから?」


 石川樹里は明るい笑い声をあげて、「まあね」と言った。自分で聞いたくせに、面と向かって肯定されると複雑な気分だった。


「ねえ、石川樹里」

「ん?」

「私この場所、気に入った。また一緒に、来てもいい?」


 勇気を振り絞ってそう言うと、石川樹里はゆっくりと頷いた。真夏のひまわりのような、黄色のワンピースのような、海の表面のきらめきのような、まぶしくて目がくらみそうな笑顔を前に、私の胸はぎゅっと締め付けられて、悲しくもないのに涙がこぼれそうになった。

 鉄の燃える煙の匂いも、夜の木の葉のざわめきも、目覚めたらすぐに忘れてしまう一瞬の夢みたいだった。石川樹里が私にくれた言葉も、思い出も、全部まるごと真空パックに詰めて、この先永遠に、いつでも取り出せるところにしまっておけたらいいのに。そんなことを考えながら私は、石川樹里とふたりきりで夜の公園のベンチに座っていた。


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