第6話
ざわめいている学生たちを横目に、私はすぐに教室を抜け出した。廊下を蹴る足のスピードが少しずつ早くなっていく。1時間の昼休みが特別な時間になってから、午前の授業が終わると、心がふわふわと浮き立つようになった。
晴れた日の屋上には心地いい風が吹いている。水色のチューブを絞りだしたような空の色を見上げて深呼吸すると、体のすみずみまで春の風が行き渡るようで気持ちが良い。まあるいビスケットのような形をした雲を見つめていると、背後にある扉がぎいっと音を立てて開く気配がした。もう振り返らなくたって、それが石川樹里だと分かる。
手渡したお弁当の包みを開けると、石川樹里は感嘆の声を上げた。
「悠のおかーさんって、料理上手そうよな。だって、この卵焼き、なんか高級な味がするし。この肉じゃがも」
「あのひとは、ストイックだから」
「ストイック」
「私の全てを、あのひとは管理したがってる。だから私が食べられるものは、あのひとに承認されたものだけ」
「マジかよ」
「マジだよ。マクドナルドもポテトチップスも女子高生の主食はなんだって、私、食べたことないの」
目を見開いた石川樹里はご飯を口いっぱいに詰め込んで、もごもごと何か言った。「なに」と聞き返すと、今度は喉に詰まったのか胸をばしばしと叩いている。アルミの水筒に入れられたジャスミン茶を手渡してやると、石川樹里は真っ赤な顔をして「ありがとう」と言った。
「なあ、今日、何で無視したん、あーしのこと」
何を言いたいのかは分かっていた。
朝、一時間目の授業が始まる前に、石川樹里とうっかり目が合ってしまった。気をつけていたのに、この頃彼女を観察する癖がついていた、私のミス。こちらに向かって手を振り上げた彼女に気づかなかったふりをして、私は手に持っていた本に視線を戻した。
クラスメイトの間に明確に引かれる線から唯一自由で居られる石川樹里にはきっと分からない。私がどれだけ、教室の空気に溶けることに心を砕いているのかということ。クラスメイトがからかい気味に放つ軽い言葉を、私がどれだけ引きずってしまうのかも。
石川樹里はハムスターのようにもぐもぐと口を動かしている。あのひとがわたしの為につくったものが、彼女の体に溶けていく。それは血肉となって、石川樹里の体の一部になるのだろう。本当はあのひとのつくったものなど、石川樹里に口にして欲しくなんてなかったのだけれど。
「ずっと思っちょったんやけど。ふたりで居るときは良く喋るのに、教室では知らんぷりよな」
「別にいいでしょ。あたしとあなたじゃ生きる世界が違いすぎるから」
「セカイ?」
無邪気な表情でそう返してきた石川樹里のことを、ほんの少し、妬んでしまう。口元についているご飯粒をぬぐってやると、石川樹里は「気づかなかった」と言いながら、子どものような笑顔を見せた。
空を仰ぐと、さんさんと照りつける日差しが私の頬を撫でるように照らした。
「あっつい」
「そう?今日、まだ6月やけど」
「盛谷さんって、見るからに夏が好きな顔してるもの。うんざりする、この日差し」
「じゃあ、今日の放課後、アイス食べにいく?」
「え」
「デート、しちゃう?」
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