第4話

 美術教師の鯨井先生は定年間際のおじいちゃん先生で、お経を読んでいるような声のトーンが教室に眠気を誘う。前の席に座る石川樹里は眠っていることを隠そうともせず、首を前後ろに上下させている。

 私は教科書の文字を追うことを止め、窓越しに見えるグラウンドに目をやった。ピストルの音を合図に赤いハチマキを閉めた少女が子鹿のような走りを見せると、体操着を着た女の子の群れから微かに歓声があがった。


「なあ、描かんの?」


 すぐ近くに首を傾げて私を見ている石川樹里の顔があって、仰け反るようにして距離をとった。どうやら思い切り眠ってしまっていたらしい。キャンバスに鉛筆を擦り付けている音に、辺りを見回す。


「自画像描くんやって。あーしと一緒にやらん、他にやる人おらんけ」

「えっと。…うん、分かった」

「じゃ、紙取ってくるから、待っとって」


 私が行くよ、と声をかける前に、ぱっと席を立たれてしまう。

 長年の友達にそうするようなフランクな接し方に戸惑いながら、あげかけた腰をゆっくりとおろす。ほとんど話したことのない相手に、どうしてこうも親しげに話しかけることができるんだろう。相手にどんな評価を下されるかが怖くて何もできない私には、石川樹里のような女の子が眩しくて、怖くて、ひどく羨ましかった。


「もうちょっと、右向いてくんない。右」


 ぎこちなく頷き、顔をほんの少しずらす。周囲からの視線が気になっていたせいか、鉛筆の動きはいつの間にか止まっていた。背後から聞こえる嘲笑が私に向けられたものでないことが分かってようやく安堵しながら、再びキャンバスに向かう。

 無遠慮な視線を送らないように注意して、石川樹里を覗き見た。

 女子高生のコスプレみたいだ、と思う。

 肩も手足も首もゴツゴツして骨ばっている。白いセーラーカラーが可愛いと評判の制服はまるで彼女に似合っていない。椅子に座った状態でさえ膝を覆い隠しているプリーツスカートの輪郭を象りながら、どうしてこの人の体は女の子になることをこんなにも拒否しているのか不思議だった。


「草間さんって、下の名前、何て言うん」

「…はるか」

「ふうん。イメージ通りや、くさまはるか。悠って呼んでいい?」


 石川樹里の顔を見ないまま、「別にいいよ」と答えると、「よっしゃ」とはしゃいだ声が向こう側から聞こえた。何も考えず思ったことを口にする子どものような無邪気な態度に、ふと気持ちが揺さぶられる。

 空気を読んで、相手に合わせる。気持ち悪いと言われているのを過剰に恐れているクラスメイトにとって、石川樹里のような女の子は貴重なのだろう。授業終わりの鐘の音が鳴ると、蜜を求めた蝶が花の周りに集まるように、彼女の周りに女の子たちが集まってきた。石川樹里が誰も傷つけない柔らかな冗談を言うたび、どっと周りの人々が盛り上がる。人は自分よりも格下だと思う相手に対してこそ、気を許せるものなのかもしれない。

 私の目の前には石川樹里の横顔を描いたキャンバスがあった。画面の中で佇んでいる彼女は何処か遠くを見据えている。まるで自己投影だ、と心の中で馬鹿にしながら、私は席を立った。

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