第3話
玄関に車が止まる音が聞こえて、飛び起きるようにして肩までかけていた羽毛ぶとんをはね除けた。少し横になるつもりが眠っていたようだ。右頬に流れていたよだれを拭いながら、階下にある木製のダイニングテーブルに急いで向かう。もしも勉強していないということがあの人に知れたら、とんでもないことになると分かっていた。
筆箱からシャーペンと消しゴムを出して教科書を広げる。ビニール袋が地面を擦る音とあの人の足音が微かに聞こえて、たちまち身体が硬くなる。
「あら、帰ってたん。おかえり、早かったね」
私が勉強しているのを見て、あの人は途端に機嫌を直したようだった。
背中にちくちく刺さる監視の目が気になって、マーカーを引いた箇所にいくら目を凝らしても全く内容が頭に入ってこない。「リビングで勉強させるようにすると、子供の成績が良くなる」という本当かどうか分からない情報を鵜呑みにしているあの人は、満足そうに大豆煮の入った鍋をかき回している。
あの人と一緒にいる時間が息苦しくなったのは何時からだろう。
子どもの頃は明るく元気なあの人のことが誰よりも大好きだった。特別用がなくても、あの人のまるい背中にママ、ママと声をかけるのが好きだった。呆れたような声で「なあに」と返事をされるのが嬉しかった。誕生日にはシフォンケーキを焼いた。あの人が好きだと言っていたオレンジペコの紅茶を少し混ぜて。喜んでくれる顔を想像しながら、ホイップクリームが硬くなっていくのをハンドミキサーを持つ手に感じながら。
だけど、あの頃の私はもうここにはいない。何処にもいないのだ。
食卓に並べられた小盛りの皿を見つめる。あまり食欲はなかったけれど、箸置きに置かれた水玉柄の箸を手にとって、大豆煮をつつく。薄すぎる食事が喉を通らないのは、あの人と向き合っているこの時間が私の小さな胃を締め上げているからだろうか。
「最近、どうなん。学校」
「…別に」
「進路、どうするん。早く決めんと。勉強遅れたら対策とか危ないやろ」
「…うん」
「ちゃんと返事しいや」
ごくりと唾を飲み込む。「それ」が始まる気配がした。
始まってしまえば逃げられない。何故ならこの家に居るのは私とあの人ただ二人きりで、あの人の癇癪を受け止めることができるのは私しかいないからだった。父や弟の帰りが次第に遅くなっている理由は良くわかっていた。家族を顧みない自分本意なその態度を卑怯だと感じながらも責められなかった。父や弟にはタイムリミットがない。だから永遠にあの人と共に、人生を棒に振る覚悟をしなければならないのだ。
食器が割れる音に続いて、地鳴りのように冷たい空気を震わせる叫び声がした。私は耳を押さえて目を閉じた。何も聞きたくなかったし、見たくなかった。私とあの人は似ている。私とあの人の感じ方は似ている。私にはあの人と同じ血が流れている。
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