第2話
「草間さんって、いっつも何読んでるん?」
石川樹里が話しかけてきたのは、入学して一週間目の水曜日だった。休み時間も常に席から離れず、読書に没頭するふりをして時間をやり過ごしている私はたちまち孤立した。暗くて絡みづらい奴だと周囲に思われていたのは分かっていても、不器用な私は他に時間をやり過ごす術を見つけられなかったのだ。
石川樹里は前の席に座る髪の短い女生徒だった。刈り上げに近い短髪、ひざ下のスカートからちらりと覗く筋肉質な足、肩から下げているエナメルのスポーツバッグ。まるで女の要素を感じさせない風貌は、クラスメイトからはまずまず好意的に映ったようだった。
女子たちからは自分たちの立場を脅かさないマスコットとして、男子たちからはぞんざいに扱っても構わないピエロとして。石川樹里は他者からのそんな評価を丸ごと受け入れ、空気を読むことを拒否したまま、輪のなかで笑っていた。
石川樹里は私とはまるで違っていた。好きなものも嫌いなものも噛み合わない。もしも教室の席が近くならなければ、永久に接点を持つことなんてなかっただろう。
椿柄のブックカバーで表紙を覆った文庫本はドストエフスキーの「罪と罰」だったが、本当のことを話して空気を盛り下げるのは気がすすまなかった。
「…えっと。なんか、ミステリーみたいな、そんな感じ」
「ふうん。ミステリーって、どんなん?」
「人が死んだりする感じの話。殺人事件を解決したりする、そんな感じ」
「草間さん、感じって口癖やろ。もう三回目、すぐ出ちょるで」
からかわれたと知り、頬がさっと紅潮する。
石川樹里は首をこっちに向けたまま、面白そうな顔をして「あっか、りんごみたいやん」と呟いた。途端に胸がざわつき始め、席を立って、廊下の突き当たりにある女子トイレに向かう。こんな些細なことで心を波立たせるなんて馬鹿げているとわかっているのに。
教室に戻った頃には石川樹里はもう私を見てはいなかった。「肩パンしようや」と男子に声をかけられて、女子にしては太い二の腕を露出させている。次第に数を増やして膨らんでいく五月蝿いはしゃぎ声がたまらなく耳障りだった。何てガサツなんだろう。どうしてこんなにつまらないことで盛り上がれるのか不思議だった。
うんざりして、窓の外を眺める。早くここから出て行きたかった。ドラッグストアと病院とスーパー、それにただっ広い平地以外には何もないここから。商業映画も2週間遅れでしか見られない感度の低い田舎町を捨てて、もっと広い世界が見たかった。
ただいまも言わず家の中に入ると、まだ誰も帰ってきていないようだった。サッカー部に所属している弟の拓真はともかく、この時間にあのひとが家をあけているのは珍しいことだった。思わずほっとして、詰めていた息を吐き出すと、少し身体の重みが消えたような気がした。
誰もいない家の吹き抜けを見上げ、手を広げてぐるぐると回る。ずっと一人ならいいのにと思う。ずっとこのまま一人きりで、この家の中でたった一人、誰にも会わずに居なくなれたらいいのにと。
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