ASSに掛ける箸

緑茶

ASSに掛ける箸

 恋人を失って自暴自棄になっていた私が出会ったのは、ケツ割り箸の男だった。


 その大柄の男はタンクトップにトランクスという潔い出で立ちで広場の中心に陣取っており、彼の周囲にはたくさんの子供達が居た。男は笑顔で彼らに話しかけながら、おもむろにパンツへ手をかけた。

 彼はそのまま半脱ぎ状態になる。子供達が一斉に歓声を上げると、男は更に人のいい笑顔を浮かべる。次に男が取った行動は、足元の鞄から何かを取り出すことだった。


 私のやや前方で開陳されたそれは、割り箸だった。未使用の新品である。その次に何をするのか、私はいつの間にか子供達と一緒になって見守っていた。


 男は……割り箸を、剥き出しになった尻の割れ目に対して平行に挟み込んだ。


 沈黙が流れる。あれ程はしゃいでいた子供達は皆黙り込んで、男の行動に意識を集中させている。


 それは、一瞬だった。


 男が顔を真っ赤にして尻に力を込めると、バキィ! という快活な音とともに割り箸が真っ二つに砕け散ったのだった。

 本来とは真逆の方向に割れたそれが地面に落ちる間、時間が緩慢になったように感じられた。やがて小さな音とともに落下が終わる。

 歓声が、一斉に花開いた。子供達は大きな声ではしゃぎ周り、笑い、男を湛えた。男は押し寄せてくる子供達で溺れそうになっていた。私はわけもわからず突っ立っている。

 そして男は間髪入れず、子供達を手で制して引き下がらせた。そのまま再び尻に割り箸を装填。再び割り箸が真っ二つに砕け散る。それからもう一本、もう一本。男の尻に割り箸が呑み込まれるたびに快音が響き、地面には木材の成れの果てが落ちていく。

 そこに至って私はようやく、男が尻で割り箸を割る行為を通して、子供達を楽しませる……いわば興行のようなものを生業としているのだということに気付いた。


 どれくらいの割り箸が折られていったのだろうか。鞄から取り出した最後の一本をへし折ると、男は鍛え抜かれた尻を大きく叩き、パンツをしっかりと履き直した。

 それから子供達に、今日のケツ割り箸はお開きである旨を伝えた。子供達は元気よく返事をして、男に群がり、その小さな手で僅かな報酬を次々と手渡していった。男は子供に目線を合わせて笑顔のままそれを受け取ると、一人ひとりに感謝を述べた。

 男から離れると、子供達は手を降ってにこやかな顔で去っていく。『また明日ね、ケツ割り箸のおじさん!』と言って。


 ……やがて、子供達が帰っていくと、夕暮れ時になった広場には私と男だけが残る。



 私は思わず、鞄を肩にかけて帰ろうとする男に、何故そんなことをしているのかと聞いた。

 子供達の他は、誰も見ていない。どこまでの人間が男の行為を許容できるのかも定かではない。だから気になった。

 すると男は、先程までの笑顔とはうって変わって、やや陰のある苦笑を浮かべて椅子に座った。男は、静かに言った。これは、自分の贖罪なのだ――と。

 私はその言葉がどうも耳に引っかかったので、その話を聞くことにした。

 隣に座ると、男は静かな口調で語り始めた。



 若い頃の自分は、とあるギャングの構成員として日々後ろ暗い活動に従事していた。

 そのきっかけというのはあくまでもどうしようもないほどの貧困からだったが、その活動自体は食いつないでいくためという目的を飛び越えて、自分の身体総てに染み込んでいくようだった。

 来る日も来る日も違法薬物や暴力と関わっていく日々。かつての友人たちは皆離れていってしまい、変わらないもの、誇れるものといえば、鍛え抜かれた肉体――わけても、物資の運搬作業によって鍛え上げられてきた下半身……臀筋ぐらいのものだった。自分の精神はどんどん擦り切れていって、明日など何も見えない状態だった。


 しかし、そんな生活をしていく中でも、不意に差し込んでくれる光があった。


 それは、ひょんなことから自分にできた恋人だった。

 彼女は、危険な稼業をしている自分には不釣り合いなほど優しい性格で、いつも自分を気遣ってくれる、まるで天使のような少女だった。彼女と過ごしているときだけ、自分は自分の仕事について忘れることが出来たし、とうに捨て去った人間性といえるものを取り戻すことが出来ていた。

 鍛えた尻で彼女を笑わせた日々は喜びというほかなかった。

 彼女の実家の林業を手伝ったこともあった。そのたび、自分はなんて幸せなんだろうと思ったものだった。

 だが、彼女はあまりにも自分のやっている仕事とは不釣合いで、完全にその二つを切り離したまま日々を過ごしていけるような安定した地位など望むことさえ出来なかった。

 だから自分は彼女のことを大切に思っていく中で、だんだんと彼女のことを遠ざけるようになっていった。すべては、彼女のことを思ってのことであった。苦しくて苦しくてたまらなかった。いつでも愛していたし、あんな仕事をやめて彼女と遠いところに行ってしまいたいと、いつも思っていた。

 しかし、それら本心を彼女に打ち明けることは許されなかった。だから自分は、あえて彼女に冷たく当たって、彼女が自分のために危険な目に合わないように仕向けた。いっそのこと、嫌ってくれても良かったと思っていたほどだった。

 それでも彼女は優しすぎた、あまりにも優しすぎた。

 そして自分の仕事は、経験を重ねる度に、加速度的に危険さを増していったのだった。

 すれ違いが続いていった。日々は過ぎていった。

 そのために、悲劇が起きた。自分はぎりぎりまで気付くことができなかった。


 彼女は病に倒れていたのである。


 彼女の為を思って危ない仕事に明け暮れていたが、そのせいで彼女の状況を知ることが出来ていなかった。

 後悔が駆け巡るのを感じながら、自分は病院へ向かった。

 そこには見る陰もなくやせ細ってしまった彼女が居た。


 医者に聞けば、彼女はもう長くない命ということだった。


 自分は絶望して、これまでやってきたこと総てが間違っていたことに今更気付くことになった。自分に必要なのは彼女を遠ざけることではなくて、彼女の傍に居ることだったのだ。

 自分を責め続ける日々が続いていったが、その中でやがて一つの決心をした。

 それは、最期の最期まで、残りの日を彼女を笑わせることに費やそうということだった。

 単調で、諦観の滲む病室。そこで出来ることは何かを自分は考えた。


 その果てにたどり着いたのが、尻で割り箸を割るという行為だった。

 かつて、幸せだった日々、尻で彼女を笑わせていたことを今更ながら思い出したのである。自分はその可能性に至った時、猛ダッシュで割り箸を仕入れたものだった。


 それから毎日、弱っていく彼女にケツ割り箸を見せつけた。彼女は笑ってくれた。かつての日々と同じように。自分を責めてくることもなく、自分とともに過ごすことの喜びだけを受け取ってくれていた。それを受けて自分も胸が締め付けられる思いをしつつも、嬉しさでいっぱいだった。かつての日々の自家撞着的な再演でしかないといえばそうかもしれないが、今の自分に出来る精一杯のことがそれだった。

 

 そして、最期の日がやってきた。

 自分は涙を流しながらも、笑みを壊すことなく、彼女にケツ割り箸を見せ続けた。彼女は笑い続けてくれていた。それを受けて、更に辛さがこみ上げた。床に積もる割られた割り箸の数は、自分が積み上げてきた後悔の数だった。

 彼女はまもなく、息を引き取ろうとしていた。

 自分の中に、声が響いた。

 どうして、もっと彼女に本心で接することが出来ていなかったのだろう。

 どうして、彼女を遠ざけるようなことをしていたのだろう。そんなことを彼女が望んでいないことは分かっていたはずなのに。

 やがて、彼女の呼吸は弱々しくなり……。

 静かに、旅立った。


 ……その日、どれだけ涙を流したのか分からない。ただ、失った歳月と、割り箸だけがあった。



 男は一呼吸置いて、静かに結びの言葉を告げた。


 ――自分が今、危険な仕事から抜け出してケツ割り箸を生業としているのは、彼女への贖罪なのだ。自分はこうして道化になることで、素直になれなかった過去の自分を戒めている。自分はもっと最初から、尻で割り箸を割ればよかった。その思いを抱えながら、これからは彼女の見られなかった笑顔の分まで、他の誰かを笑顔にすることを決めたのだ。


 私は全身が震えた。彼のケツ割り箸にかける思いに圧倒された。

 それと同時に、自分の中でも何か憑き物が落ちたような感覚がした。

 それは、恋人への未練への別れの時だった。

 悲しみを素直に認めれば、きっと明日へ進んでいける。そう思ったのである。


 私は男に感謝を告げた。男は肩をすくめて謙遜して、微笑んだ。そこには一人の漢の哀愁と、人生のすべてが滲んでいるようだった。

 私が別れの言葉を言うと、男は新品の割り箸を一つくれた。それに無類の勇気をもらったのは言うまでもない。



 去っていく女の後ろ姿を見ながら、男は満足げに背伸びをした。それから鞄を肩にかけなおして、尻を一度ピシャリと叩く。彼は晴れやかな顔をしていた。


 だが、今は去っていく。さらば、ケツ割り箸の男。また会う日まで……!








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