年度がかわり、私は3年生になった。少しだけ不安だったクラス替えも、穏やかな人が多そうなクラスでほっとした。3年生は希望する進学先によって、大きく文系と理系に分かれていた。そのため授業の1/3くらいは教室移動があり、クラスそのものの意味が軽くなったことも嬉しかった。

 私は大学を受験することに決めた。そしてもうひとつ、やりたいことがあった。



「免許?」


 母は洗い物をしながら、怪訝そうな声を出した。


「なにに使うの?学校へ行くのは禁止でしょ?」

「違うよ、普通の中型のバイクの免許」


 バイクの免許を取ってみたいと思ったのは、鈴木さんの影響だった。だけどもちろん、免許を取ってバイクに乗れても、彼女のようになれるとは思わない。ただ、気持ちよさそうだったのだ。


「危ないからやめなさい。必要ないでしょう」


 母はそう言った。また娘が面倒なことを言い出した。そういう気持ちが声色に表れていた。母が考えていることはたいてい、どうすれば娘が余計なことをしたがらないか、ということだ。そして『余計なこと』であるかどうかは母の頭の中だけで決められていた。

 私がなおも食い下がると、決まり文句の「お父さんに言いなさい」で話を終わらせてしまった。

 子供心にも、娘がバイクの免許を取りたいと言い出したら親がどう思うか、想像は難しくはない。危ないことはもちろん、あまり良いイメージを持たれる乗り物ではなく、まして受験生となればなおさらだ。案の定、父はそれを聞いてきた。


「いま取る必要があるのか?」


 必要か、という聞かれ方をされると、子供が望むほとんどのことは必要ない部類に入る。だから私はこの質問が嫌いだった。


「バイクを買うのは大学生になってからでもいいの」

「だったら免許も大学生になってから取ればいいじゃないか」


 父の言うことはたいてい筋が通っていて、正論だ。だから何も言い返せなくなってしまう。


「いいでしょ、受験生だからって1日中勉強してるわけじゃないんだし……」

「だからいま取らなければいけない里由はなんだ」


 私はものごとを論理的に述べるのは苦手だった。だからいつも、父にこういう言い方をされればあきらめるしかなかった。



 4月はあっという間に過ぎた。お花見なんて行かないし、部活に入っていなければ新入生も関係ない。バイクの話はそれ以来、親にはしていなかった。

 5月からは、週に数回予備校に通うことになった。予備校へ行くように言い出したのは母だったけど、自分でも行った方がいいだろうと思った。いつまた学校に、行きにくくなってしまうか分からないから。

 予備校はさすがに私語が少なく、それを注意する講師も多い。私にとって、勉強だけに頭を使えばいい環境は心地よかった。公立の学校しか見たことがなかった私にとって、試験に受かるための勉強をする、という場は新鮮だった。周りの生徒の会話にも、大学の名前がよく挙がる。自分も彼らと同じ受験生なんだと思え、なんとなく気が引き締まる気がした。


 ある日、6時間目の授業が早く終わり、いつもより早く予備校へ着いた。授業までは時間があるから自習室へ行こうと思って廊下歩いていると、声が聞こえてきた。


「ねえ、どこの大学行きたいか決まった?」


 女子の声がそう言った。進行方向にある廊下の曲がり角からそれは聞こえ、私は咄嗟に歩幅を縮めてしまった。


「だから、お前と同じところ」


 男子の声がそれに答える。その口調が、2人の関係を鈍感な私にだって把握させる。


「A大受けるの?ホントかなあ」


 聞いていていい話ではないし、それ以上に聞いていたい話ではない。私は少しずつ歩幅を戻すように努めた。


「ほんとだって。応援してくれないの?」


 それきり、声は聞こえなくなった。私は角を曲がって自習室へ急ぐ。2人の生徒がくっついて、何をしているのかなんて見たくない。女子生徒の制服が、有名な進学女子校のものであることも。その背中に添えられた男子生徒の大きな手も。ゼロ距離まで近づいた二人の顔も。でも歩きながらじゃ、耳も目も閉じられないんだ。

 ……人間って不便だな。



 不便なのは、私なのかもしれない。私はひょっとして、自分の身体の説明書を読まずに、どこかへ置き忘れてきたのかもしれない。ご飯を食べ、トイレに行き、お風呂に入り、布団で寝る。そんな最低限の行動はできるけれど、あんまりにも心が弱かった。カップルを見かけることくらい、どこでだってある。それを居心地のいいはずの予備校で見てしまったことが、どうしてこんなにショックなんだろう。

 結局、その日は自習はおろか、講義もろくに頭に入らないまま帰宅した。用意されていた晩ご飯を食べ、トイレへ行き、お風呂に入り、布団にもぐりこむ。なんだこれ、動物と一緒じゃないか。いや、動物は自分で生きている。私は自分で生きてなんかいない。どんなに嫌なことがあっても、動物は自分で餌をとり、自分で巣を作り、自分で暖かくして寝る。私は?私は嫌なことがあったら、何もできなくなる。与えられた自分の部屋で、布団にもぐって小さくなるだけ。身体だけが、無駄に動物より大きいいくせに何もできない。160センチで50キロという自分の身体が、大きなごみのように不快なものに思えた。

 情けなくて、閉じた目から溢れた涙が頬を伝う。外敵から逃げるように、必死に縮こまる。だけど逃げられない。いまは外敵なんていないから。どこにもいない。私は手を伸ばして、ベッドの下に落ちていた携帯を拾い上げる。いちばんしてはいけないことを、しようとして。

 夢の中で、人を殺してしまうことがある。お金を盗んでしまうこともある。当然、夢の中の私は犯罪者になり、警察に追われる。だけど夢から覚めて、罪を犯していなかったことを知り、安堵する。だけどその日の朝は、そうじゃなかった。私のしたことは夢ではなかった。その履歴が、はっきりと携帯に残っている。そして、返事はきていなかった。


 最悪な気分のままベッドから起き上がった。学校に行きたくない。学校が嫌だからじゃなくて、自分が嫌だから。こんなに嫌な自分を、人に見られたくない。いつもどおりの時間に家を出たけれど、いつものバスには乗らなかった。駅まで歩いて、駅ビルの中の書店に入ってみる。就職で差をつける。自分らしい結婚。彼に愛される方法。叱らないで子供を育てる。30歳からのアンチエイジング。あがらない面接。財務会計の基本。マネージメント。目に入ってくる活字はどれも、ますます私の気分を落ち込ませるものばかり。

 もう何も見たくない。そう思って書店を出ると、隣はCDやDVDのレンタル店だ。好きな音楽って、私にはなかった。かわいいアイドルやかっこいいバンドマンも、興味なかった。けれど、ちょうどそのとき流れていたのは英語の曲だった。歌詞が理解できないだけでもなんとなく落ち着く。作詞者の愚痴を聞かされなくてすむから。この曲は何だっけ、聞いたことがある。私が知っているくらいだから、有名な曲だろう。ヒットチャートなどというものにも興味のない私は、定番映画とポップの貼られた棚を眺めていた。鈴木さんなら、こういう映画はひととおり見ているんだろうな。同時に、昨夜してしまったことを後悔する。謝罪のメールを送ることも怖くて、なかったことにしてしまいたかった。

 そのとき目に留まったDVDのケース。そうか、これだ。さっき流れた曲は、この映画の歌だ。昔テレビで流れていたのをちらっと見た記憶はあるけれど、通して見たことはない。私はそのDVDを借りた。



 家に帰ると、母が居間から出てきた。


「どうしたの?」


 まだお昼前なのだから、当然の反応だった。


「ごめん、今日どうしても行く気しなくて」


 私がそう言うと、母は心配と恐怖が混じったような顔をして言った。


「何かあったの?」


 部屋にカバンを置いて、DVDを持って居間へ戻った。


「なにも。お母さんこれDVD見れる?」


 テレビの周りを見てみたけれど、やり方がわからない。


「ねえごまかさないで、何かあったんでしょ?」


 母は私の質問には答えず、顔を覗き込むようにして言った。


「今日、何かがあったわけじゃないよ」


 学校をサボっていることはもちろん、悪口のことを両親に話したことはなかった。たぶん、私と同じような立場にいるほかの子供も同じだろう。


「いつあったの、ちゃんと話して」


 母はすがるような姿勢で言った。


「これ、見てからがいい」


 私がそう言うと、母は泣きそうな顔つきになった。話を後にしようとする私の態度から、事実以上に深刻な話を想像しているのかもしれない。男女関係のなにか、とかそういう……。


「お母さんも詳しくないんだけど」


 と言いながら、テレビの下にあった四角い機械のスイッチを入れる。母が慣れない手つきでボタンを押すと、ディスクを入れるトレイが飛び出した。


「ここに入れればいいの?」


 私はケースから取り出したDVDをそこへ乗せた。さっき母が押したボタンをもう一度押すと、ディスクは機械の中へ入っていった。



 母は台所へ行って何かしていたけれど、途中から居間へ来て一緒に映画を見ていた。男の子が4人、線路の上を歩いていくシーンは見覚えがあった。どこが、とは言えないけれど、いい映画だと言われるのはなんとなく分かる気がする。

 こういう友達関係は男の子だけのものなんだろうか。それとも女の子にもあるの?私だけにないものなの?

 あの頃みたいな友達はもうできない、という語りで映画は終わる。そんな言い方しないで欲しい。もうできないなら、その歳を過ぎてしまった私には……?私にはもう大事な友達はできないの……?


「なんでこれ、見ようと思ったの?」


 母がソファに座ったまま言った。


「見ようと思ったわけじゃないよ。映画が見たかっただけ」


 どうして、と母は聞いた。


「映画が好きな友達がいたの」


 母は黙っていた。私は何を話そうとしているんだろう。自分でもよく分からなかった。


「ちょっと嫌なことがあったときに、その子が優しくしてくれて」


 母の表情は複雑だった。


「そんなことちっとも言わなかったじゃないの」


 そりゃ言わないよ。言わないのか、言えないのか分からないけど、子供なりに言わない方がいいって感じるんだよ。


「その子がバイクに乗ってたの」


 母を責めたいわけじゃない。ただ、思ってることを話してるんだ。


「それって男の子?」


 なのにどうして、どうしてそんなに、私の神経を逆なでするような言い方をするの。


「男の子だとどうなの……?」


 私は子供だから、そんなふうに言われたら素直に話せない。男の子だと何を心配してるのかくらい、私にももう分かるよ。でも早いよ。3年か5年か、わかんないけど早いよ。ナイフをもてない子供が、ナイフで手を切るんじゃないかって。お母さんが心配をしてるのはそういうことだよ。わたしはまだ、そんなところまで全然辿りつけてないんだよ。


「それでバイクに乗りたいなんて言ってたの」

「待ってよ、男の子だとどうなのよ」


 違う。こんな話をしたいんじゃない。どうしてこういうふうになっちゃうの?


「男の子だったら」


 母は言った。


「お母さんが何を心配してるのか、分からない?」


 分かるよ。そりゃあ心は読めないから違うかもしれないけど、親が女の子と男の子の関係で心配することは、単純だよ。


「分かるよ」

「でも男の子じゃないから」


 ぶすっとした顔のままで言うと、母は本当に?と尋ねた。

 そこがいちばん重要なの?お母さんは、私が心配してることが分からないの?私には分かれって言うくせに?単純なものとして私を見ないでよ。もっと複雑だよ。


「女の子だよ!女の子がバイクに乗るはずないと思ってるんでしょう!」


 少し大きな声を出すとは母は慌てたように付け加えた。


「そんなこと言ってないでしょ。聞いただけよ」


 聞いただけ?私は性別の話なんか、これっぽっちもしていないのに。


「……その子が、私が落ち込んでるときにカラオケに連れて行ってくれたの」


 ねえ、どういう子だと思う?お母さんが想像する女の子は、どういう人?どういう格好で、どういう話し方で、学校ではどうやって過ごしていると思う?


「活発な子なのね」


 活発ね。活発ってなに?アカネさんは活発かもしれないけど、鈴木さんは活発というタイプじゃないよ?

 どうしてこんなに伝わらないんだろう。分かってくれないんだろう。私が1.5と言っても、お母さんは1か2のどっちかとしてしか捉えてくれない。


「もういい」


 DVDを取り出して、自室へ戻る。お母さんはたぶん、私のことをあれこれ想像して、ありがちな結論を出すだろう。そしてそれは見当はずれではないかもしれない。だけどそれは一般論で、私を理解しようとしてくれた結果じゃない。1か2というメジャーな数字かもしれないけど、1.5という中途半端な数字じゃない。

 中途半端な私を、誰も見てくれない。



***



 講義の始まる5分前。前の列に入ってきて、斜め前の席に座った女子生徒に目がいった。少しパーマのかかった髪が背中を覆い、蛍光灯の明かりをまぶしいくらいに跳ね返す。濃い色のセーラー服は、全国でも学力でトップレベルといわれる女子高のものだ。その横には無造作ヘアを整えた男子生徒が座っていた。


「もう始まんぞ」

「ゴメン、先生に引き止められちゃって」


 女子がカバンから教科書やノートを取り出して机に並べる。


「お前に気があるんじゃないの」

「はいはい」


 先日廊下で見かけた2人だろう。まさか同じクラスだったなんて。早く講師が来て授業をはじめて欲しい。これ以上彼らのおしゃべりを聞いていたくなかった。

 私の願いが通じたのか、それからすぐに講師がやってきた。けれど私は彼らを意識の外に追いやることができなかった。おしゃべりはしていない。一言も発していない。けれど、シャーペンの頭で相手を突っついたり、ノートに落書きしたり、それをやり返したり。講師が注意するほどではないのが、かえって困る。集中できないことも困るけれど、また家に帰って不安な気持ちになるのはもっと困る。どうして彼らのせいで、一喜一憂、いや一憂一憂していなければいけないんだろう。

 そんなことを思いながら、辛うじて板書をノートに書き写していた。そのとき、何か白いものが女子生徒の背中に飛んできた。何かと思って見てみると、またひとつ飛んでくる。両側を見ると、左側の男子は静かに黒板を見ていた。右側の女子が、消しくずを投げていた。机の上に溜まった消しくずを、目の前の女子生徒の背中に投げる。消しくずは彼女の髪の上をすべり、カーブした髪の毛の中に引っかかった。

 私が見ていることに気がついたのか、その女子は気まずそうに、でもちょっと楽しそうに微笑んだ。そして私が見ている前で、目の前のセーラー服に向かってあかんべーと舌を出した。

 最初はあっけにとられたようにその子を見てしまったけれど、うっとおしかったのだろう。その子もきっと、前の席でいちゃついている2人が。彼女は舌を出したあとでもう一度私に向かって笑い、それで気が済んだのか、あとはひたすらノートをとっていた。



「さっきはごめんねえ」


 講義が終わってから、前の2人が出て行くのを待っていたかのように、彼女が話しかけてきた。


「あ、ううん……」


 慌てて首を横に振る。私が敵意を持っていないと感じたのか、彼女は顔を近づけてきてささやいた。


「あの2人さ、いっつもふざけてるんだよね」


 さっきの様子を見れば、それもうなずけた。


「しかも来るのが遅いから、避けて座るってのもできないし」


 家でやれっつーの、といって彼女は笑った。不思議な子だな、と思った。私にそう思われるなんて心外だろうけど、どっちかと言うといい意味でだ。

 言葉はわりと過激なんだけど、いかにものんびりした声と表情が、聞く側にそれを許す気持ちにさせてしまう。得な性格かもしれない。

 次の講義もそのまま隣で受けて、駅まで一緒に帰ることになった。その途中で彼女が


「ねえ、どこの高校?」


 と聞いてきた。私が○○高校と答えると、彼女はそっかーと言って私の制服を上から下まで眺め回す。


「いいなーその制服」


 そんなことを言う人を、はじめて見た。


「私は○△高なんだけど、知らないよねたぶん」


 知らない名前だった。高校なんて、学区内と私立の一部以外は知らない。予備校のようにいろんな学区の生徒が集まれば、知らない学校の方が多いのだろう。


「ごめん……」


 いいのいいの、と彼女は笑った。


「予備校来て、そこの学校の人けっこういるからさ、制服かわいいなーと思ってたんだ」

「これ、どこがかわいいの……?」


 いたってシンプルな、公立校ですと看板を立てているような制服だ。


「かわいいじゃーん。ジャケットとスカートの色が違うところ」


 色……と言うか、グレーの濃さが違うだけ。彼女の制服は濃紺の上下で、これもまたいかにも公立高校といった制服だった。けれど、結局は着ている人が問題なのであって、明るくて人懐こい彼女が着れば、紺だろうとグレーだろうと、何だってかわいいに違いない。

 JRと私鉄の乗り場のところで、彼女と別れた。


「それじゃ、おやすみー」

「おやすみ、またね」


 程よい丈のスカート姿が改札の向こうに消えていくのを、なんとなく見送ってしまった。



 その日以降、彼女とはよく隣に座るようになった。初めのうちは彼女が隣に来てくれることが多かったけど、慣れると私も隣に座れるようになった。


「カナちゃんごめん、シャーペンの芯持ってる?」


 私がペンケースからプラスチックの容器を取り出して渡すと、彼女はありがとーといって微笑んだ。人をファーストネームで呼ぶことに慣れない私は、彼女を姓で呼んでいた。

「水野さんの学校って、夏と冬でネクタイの色違うの?」


 彼女の首に巻きついた、赤いネクタイを見てそう聞いてみた。以前はもっと鮮やかな赤だったような気がしたから。


「ああ、これ?」


 彼女はちょっと恥ずかしそうな顔をすると、ベストの胸元にのぞくネクタイに手をやった。


「これはねー、違うんだよ」

「ほんとは学校のやつ使わないといけないんだけどさ、冬服と一緒にクリーニングに出しちゃって」


 だから似たような色のを使ってるんだ、と彼女は言った。彼女の飾らないマイペースさは、一緒にいてとても楽だった。飾らないという点では鈴木さんも同じだけれど、色で言えば鈴木さんは青。水野さんは黄色かオレンジ色だ。高校の偏差値も同じくらいらしく、いろんな意味で気を使わなくてすんだ。



 夏休みも近づいてきたある日、参考書を買いにいった。ターミナル駅のそばにある大きな書店を出ると、夏の日差しが目を刺した。

 すぐにUターンして帰る気もしなくて、少し街を歩く。以前鈴木さんと出かけた、映画館の前を通った。彼女はいま、何をしてるんだろう。一緒に過ごした時間はとても楽しかったはずなのに、それを思い出すととても悲しい。

 鈴木さんの中身はアカネさんだ。アカネさんの中身が鈴木さんだとも言えるけれど、とにかく、明るくてきれいでかわいいアカネさんなのだ。友達だって、恋人だって、すぐにできてしまうんだろうな。そうしたら忘れてしまうんだろうか、私のことも。この街でのことも。

 参考書の入ったビニール袋が指に食い込み、それを胸に抱えなおす。


(勉強しなきゃ……)


 アカネさんが私に不釣合いなくらい立派な人だってことは、はじめから分かっていた。なのに私は、アカネさんにとっての特別な人でいたいと思ってる。そんなの無理だ、どう考えたって。人間の出来が、ぜんぜんちがう。だけど……。

 だけど少しでも近づきたいなら、私にできることをがんばってやるしかない。


 私は向きを変えて駅へ歩き出した。受験まであと半年ちょっと。鈴木さんがこっちへ戻って来るのかどうかは分からないけど、せめて半年くらい、がんばろう。

 そんなことを考えて、歩幅を広げて歩いていたら、水野さんがいた。こっちに向かって歩いてくる。明るい色のワンピースを着て、表情はいつも以上に明るくて、その隣には男の人がいて、二人の手は繋がっていた。

 知らん振りして通り過ぎるべきかどうか、一瞬悩んだ。彼女のためにではなく、私のために悩んだ。だけど水野さんは、まだ10メートルくらいあるのに私に気がついた。私は軽く会釈をした。水野さんは


「やっほー!」


 と手を上げた。そうだ、水野さんはたぶんこういう子だ。彼氏の手を解いて駆けてきて、私に笑いかける。


「ごめんね、びっくりしたでしょ」

「あ、ううん」


 恋人のことを言っているのはすぐ分かった。


「いちおう彼氏なの」

「い、いちおう……」


 水野さんの言葉に、後ろから追いついた彼氏が情けなさそうな顔で笑った。水野さんは彼に向かって、


「ほら、この間話したカナちゃん」


 と言った。彼はああ、と言う表情を見せると、


「高木です。可南子ちゃんだよね、舞から話をよく聞くよ」


 と落ち着いた口調で言った。


「あ、橋本です。水野さんにいつもお世話になってます」


 ありきたりすぎる挨拶を返す私。それを聞いた水野さんは、


「もう!ぜんっぜん。私が一方的にお世話になってるだけ」


 ね、と言って笑う。うんとも言えないで困っていると、高木さんが


「うん、言われなくても分かるよ」


 と言って私たちを笑わせてくれた。いつもありがとね、と高木さんが言ったあとで、


「本買いに来たの?」


 と、水野さんが私の抱いている袋を見てそう尋ねた。


「あ、うん参考書」


 なんとなくあまり見られたくなくて、抱えなおした袋がぱりっと音を立てた。


「そっかー、偉い」


 私はそんなことないよと言って笑おうとしたけれど、今日もまた、上手く笑えたのかどうか分からなかった。


「じゃーまた月曜日に」


 水野さんはそう言って手を振った。高木さんもまたね、と言って軽く手を上げる。


「はい、また」


 2人の後姿を確認して、私は歩き出した。駅まで戻り、切符を買った。改札を抜けてホームへ降りると、生暖かい風が髪を揺らした。

 びっくりしたでしょ、と水野さんは言った。びっくりしたと思う、確かに。だけど、水野さんに恋人がいることは、びっくりするようなことじゃない。むしろ、いないほうがおかしいくらいだ。だからショックじゃない。そのことがショックなんじゃない。そのことに動揺してしまう、自分の小ささがショックなんだ。

 ホームに電車が入ってきて、たくさんの人が降りてくる。座席に空きが目立つくらいになった電車の、窓際に突っ立って外を見る。小さな揺れとともに電車は走り出し、次の駅へ向かう。時刻どおり。予定どおり。なのにどうして私の心は、予定どおりに動かないんだろう。

 寂しい。今の気持ちを一言で言えば、そうなる。そりゃそうだよ、中学から友達なんかほとんどいない。やっと仲良くなった鈴木さんは転向してしまうし、水野さんには恋人がいた。もっとたくさん友達がいればいいのかな?そうすれば寂しくないのかな?想像もできないけれど、もしも友達に囲まれて毎日を過ごしたら、寂しくは感じないのだろうか?

 たぶん、違う。だって、私よりずっと友達が多い人たちも、いつも寂しそうにしているのだから。だからみんな、しょっちゅう携帯の画面を見てる。車内に目をやると、7人がけの座席に座った6人のうち、半分が携帯を眺めてる。反対側の座席も似たようなものだ。

 友達がたくさんいても寂しさは消えないのなら、どうしたら寂しがらずに暮らせるんだろう。どうしたら自分を嫌わなくてすむの。


 鈴木さん。

 鈴木茜なら、なんて言うだろう。バカだねって言われそう。そのままの意味で。きっと私バカなんだと思う。生まれるときに、何か忘れてきたんじゃないかって本気で思う。

 どうしたらバカじゃなくなるんだろう?そんなこと、茜には聞けないけれど。死んでも聞けない。


 家に帰って携帯を見る。以前、私が鈴木さんに送ったメールを見る。ひどい文章だと思う。鈴木さんを、寂しさが治る薬か何かだと思ってる。しばらくして帰ってきたメールは、私が書いたことに触れていなかった。


「もおおおぉっ!」


 手にしたそれを、思い切り床に叩きつける。ガンという音がして、カコンと何かが飛んだ音が続いた。ベッドの上に置いてあった、買ってきた参考書をはたき落とす。ばららっとページがめくれ、それからパタンと閉じる。帯だけがだらしなく外れている。

 ベッドの足元にたたんであったタオルケットにもぐりこみ、丸くなる。結局私はこれしかできないのだろうか。寂しくて悲しくて情けなくて、布団の中で縮こまることしか。こんな自分が嫌だ。死にたい。死ねば誰も私を嫌わない。私も私を嫌わない。


 気がつくと、私は高い建物の上にいた。

 自殺するためなんかじゃない。そんな勇気が、私にあるわけがない。これは夢だった。夢だと分かる夢がたまにあるけれど、まさにいまがそう。にもかかわらず、夢とは思えないほど怖い。高いところが怖いのだ。足元がぴりぴりするような感覚が、リアルに感じられる。夢だから落ちることはない。もし落ちても死なない。なのに身体は怖がる。夢の中で頭が描いた妄想を、身体は本当に怖がってる。

 そんな状態がどれくらい続いたのか分からないけれど、しばらくして目が覚めた。外は暗くなっていた。タオルケットを巻きつけていたせいで、上半身は汗びっしょりだった。 ベッドから起き上がり、机の上のスタンドを付ける。床に落ちていた携帯を拾うと、バッテリーがコロリと落ちた。それをはめ込んで起動ボタンを押してみても、電源は入らなかった。


「起きたの?」


 開けっ放しだったドアの隙間から、母がのぞいた。


「何度か呼んだけど起きないから、ご飯先食べちゃったわよ」


 私が黙っていると、母はそう言って戻っていった。濡れた服を着替え、散らばっていた参考書を机に戻した。頭が働いていないだけかもしれないけれど、気分は少し落ち着いていた。

 ダイニングへ行き、伏せてあった茶碗にご飯を盛る。居間のテレビで、父が野球中継を見ていた。


『さあ、ジャイアンツの攻撃は7番○○からです』


 ずっと同じアングルで写した映像が続く。何が面白いのか分からなかった。


「野球って何が面白いの?」


 私が聞くと、父は「はぁ?」と言ってこっちを向いた。


「なんだ、突然」


 母も怪訝そうな顔でこっちを見ていた。私がおかしくなったとでも思っているのだろうか。


「お父さんなら理屈で説明してくれるかなと思って」

「理屈で聞いてどうするんだ」


 いいから教えて、と私が言うと、父はしばらく考え込んだ後でこう言った。


「楽しみにしてるから、面白いんだ」

「なにそれ……。理屈じゃないじゃん」


 父は少し笑ったけれど、


「いや、人間は楽しみにしてることは、面白く感じるんだ」


 と続けた。私が「同じことでも?」と聞くと、そうだと頷いた。


「例えばこのビールがあるだろ」


 そう言って、グラスに入ったビールを持ち上げる。


「これを朝会社に行く前に飲むのと、帰ってきて野球を見ながら飲むのと、同じ味だと思うか?」


 同じ味じゃないの、と私が言うと、理屈で言えばな、と父は答えた。


「でも違って感じるんだ。なんとなく分かるだろ?」


 分からないでもない。でもそれは、


「理屈じゃないよね」


 私が笑うと、


「お父さんはそういう分野の専門家じゃないからな」


 と父は言ってビールを飲んだ。気になるなら大学で勉強すればどうだ、と。



***



 夏と言えば、思い出を作る季節、みたいなイメージがある。それは動物の本能からくるものなのか、ありきたりな価値観に染められてるだけなのかは分からないけれど。

 間違いなく言えることは、いままにそんなことはなかったし、そして今年も、特別な思い出なんか残らないだろう、ということだけだった。

 電車の窓の外を流れていく景色を見ながら、またしても卑屈なことを考えてしまう。


「それでさあ、やることやったあとで終電で帰れって言うの。ひどくない?」


 反対側の窓のところで、大学生くらいの女性が2人で話していた。声は大きくないものの、基本的に静かな車内でその声ははっきり聞こえる。


「別れちゃいなって」


 もう1人はそう答えながら、携帯の画面を鏡代わりにして髪を整える。朝から、爪楊枝で胸をかき回されるような嫌な気分だった。そしていつもどおり。そんなことに気分を害する私自身が、なにより嫌なのだ。



「カナちゃん、おはよー」


 水野さんがやってきて、隣の席に腰掛けた。薄手のブラウスに、ほんの少しだけ汗が染みている。


「走って来たの?」


 私が聞くと、え、分かる?と言って、カバンからハンドタオルを取り出した。


「ちょっと寝坊しちゃってさ」


 夏休み中は予備校の時間が前にずれ、普段学校へ行っている時間帯になる。この時間に水野さんと一緒にいるのは不思議な感じだった。

 スカートからブラウスを引っ張り出し、裾から腕を入れて汗を拭いている。それをすると、下着の帯の部分が背中に透ける。ブラウスを前に引っ張ることになるのだから。ちらりと後ろを見ると、おとなしそうな女子生徒が座っていた。


「この間3年になったかと思ったらさー」


 水野さんがハンドタオルをカバンにしまいながら言った。


「もう夏休みだもん、早いよー」


 ほんとだった。このぶんじゃ、気がついたら受験当日になっているのだろう。


「そういえば、高木さんて大学生?」


 年上に見えた彼が、大学という言葉から連想された。


「んーん、もう社会人。今年30歳」

「えっ」


 思わず声を上げてしまった。そんな歳には見えなかったから。


「若く見えるよねー。子供というか」


 水野さんは言いたい放題だけど、私は素直にうんと言うわけにもいかない。適当な相槌を打つと、


「しかも奥手でさー」


 水野さんがポソリと言葉を加えた。私がそうなんだ、とだけ言うと、


「あ、ごめんね」


 と苦笑いした。水野さんはきっと、彼氏の話をしたいんだろうな。でも私にはいないのを知っているから、わざと避けてくれているのだろう。自分から話題を出してしまったくせに、上手く聞いてあげられない。そんな自分が情けなかった。

 水野さんはどうして私なんかと一緒にいるのだろう。隣県から来ていて、学校の友達が少ないせいもあるだろう。それにしたって、私よりは水野さんを楽しく過ごさせてあげられる人が、きっとたくさんいるだろうに。


 昼休みになって、私たちは予備校の近くの公園へお弁当を食べに行った。ずっと教室にいると身体が凝ってくる。休憩室もあるけれど、生徒が一斉に使うだけの広さはない。

 こういう時間に1人でいるのはすごく寂しいものだ。中学高校とそれを体験してきた私にとって、隣に水野さんがいてくれることは幸せなことだった。きっと私1人だったら、教室でボソボソと、乾いたご飯をお腹に詰め込んでいたんだろう。水野さんにその気はなかったとしても、いまの私は彼女に支えられていた。


「さっきの話なんだけど……」


 だからもし、水野さんが私に話したいことがあるなら、私はそれを聞いてあげたかった。役不足であることは承知の上で。


「ん?」


 箸を持つ手を休めて、彼女がこちらを見る。


「高木さんの話……」


 水野さんはああ、という顔になってから、笑って言った。


「ごめんねー、つまんないこと言っちゃって」


 つまんなくないよ、と私が言うと、水野さんは黙ってお茶を飲んだ。

 それから少し小さな声で


「……まだ何もしてなくてさー」


 と言った。男女の間ですることを、ということだろう。鈍い私でも、それくらいは分かった。

 サアアッと気持ちいい風が吹き、公園中の木がざわざわと葉っぱを鳴らす。


「えっと……その」


 次の言葉を。

 聞きたくないわけじゃないんだ。ただ次の言葉が見つからないんだよ。


「その、水野さんは……したいの?」


 ひどい、直接的で気づかいのかけらもなかったけれど、水野さんは気にしていないふうだった。


「分かんない」


 でも、と彼女は続けた。しばらく、セミの声だけがあたりに響いた。


「不安になっちゃって」


 その理屈は私にも分かった。実際にどういう気持ちがするものか、はっきりとは分からない。でも、水野さんが言いたいことはつまり……


「私のこと好きなのかなぁ」


 うん、そうだよね。もちろん、その答えは私には分からない。高木さんは水野さんのことを愛しているように見えたけど、そもそも愛がなんだか知らない私が判断できることじゃない。


「好きなんじゃないかな……?」


 私が言うと、水野さんはその顔をこっちへ向けた。黒い瞳が私を見る。鈴木さんと目の形は違うけれど、瞳が黒いのは同じなんだな、と変なところで感動する。どうして?と彼女は聞いた。唇が、ほとんど動かなかったように見えたけれど、確かにそう聞こえた。


「だって、水野さんかわいいし、いい子だし……」


 私の感想を言ったところで理由になんかならない。そんなこと分かってるはずなのに。

「もう……っ」


 水野さんは噴出すように笑った。食べかけのお弁当を横に置いて、私のブラウスの袖を掴んだ。


「理由になってないよ……」


 顔は笑っていて、眉間にだけは少し力が入っているような複雑な表情。日が陰り、セミの鳴き声がぱたりとやんだ。聞こえるのは少し離れた国道を通る自動車の音だけ。


「でも、そう思うよ」


 どこかから、電話の音が聞こえる。プルルルル、という標準的な呼び出し音。近所の家か、会社の中からだろうか。


「ありがと」


 水野さんは私のブラウスを掴んだままそう言った。その顔は、いつもの笑顔になっていた。




 夏休みも終わりに近づいたころだった。家に帰ると、机の上にはがきが置かれていた。母は私宛の郵便物を机に置いていく。カバンを置き、はがきを手にとって眺める。どうせ予備校のお知らせか何かだろう。そう思っていた。

 宛名のところに、


 ○○市○○町2222-304


 橋本可南子様


 と書かれている。手書きの丁寧な文字だった。その横に目をずらして、私の心臓はどくんと跳ねた。


 △△市△△1-10-1-201 鈴木茜


 震えそうな手で裏をめくる。夕焼けの景色が描かれたプリントとはどこか不釣合いな、鈴木さんの筆跡。



 可南子へ


 暑いけど元気?

 最近携帯の電源切ってる?住所を聞こうと思ったけどつながらないので、連絡網に載ってた電話番号で調べました。

 受験まであと半年だね。勉強はかどってますか?

 また会えるのを楽しみにしてるよ。

                    茜



 このはがきを、私はきっと死ぬまで大切にする。たかが残暑見舞いでそんな大げさなと思われるかもしれないけれど、それくらい嬉しかった。ひどいメールを送った挙句に携帯を壊してから、連絡もしていなかった。

 鈴木さんのはがきは、そんな私とはすれ違っている。いい意味で。彼女は私に、その場限りの優しい言葉をかけてくれたりはしない。委員長だったころの鈴木さんを思い出せばよく分かる。彼女はただ、行動で私を気づかい、助けてくれた。


 私の憂鬱なメールに、それらしい返事をするのはきっと簡単だ。私が欲しがっている言葉が、鈴木さんにはすぐ分かるだろうし、実際私もそういう返事が欲しかった。だけど心の奥で、そのやりとりに何の意味もないことは分かっていた。そして鈴木さんはそれをしなかった。その代わりにいま、わざわざ住所を調べてはがきを送ってくれたのだ。私が欲しい言葉なんかじゃなく、鈴木さんの言葉を書いて、送ってくれたのだ。

 やっぱり彼女は大人だと思った。私なんか、到底追いつかないくらいに。



***



 12月に入り、受験生としての生活もあと3か月あまりとなった。あとはもう、自分のペースで勉強を続けるだけだ。高校生活もあとわずか。寂しいと思う人が多いだろうけど、私はほっとした。

 もう少しで、いやがらせや悪口というものから逃げ切れる。卒業というラインを超えれば、それらはもう追いかけてはこない。小学校、中学校と同じ思いで卒業式を迎え、けれどその上の学校でも結局同じことに傷ついてきた。

 だけどもう終わりだと思う。大学は違う。きっと違うはずだ。大学が素晴らしい場所だなんて期待していない。普通でいい。周りの人から否定されず、普通に過ごせればそれでいい。その思いだけが私を動かす燃料になっていた。


 そんなある日。学校の廊下で、2年のときの悪口グループに会ってしまった。彼らの顔は、私の中に恐怖の象徴として刻み付けられていた。それを見ただけで立ちすくんでしまい、早くなる心臓の音が耳の中で響く。知らん顔で立ち去ろうとしたけれど、たまたま目が合ってしまったのだ。

 すぐに目をそらしたけれど、もう遅かった。


「おっ、橋本さんじゃん」


 目を合わせた男子が、標的を指示するようにわざとらしい声を上げる。その場にたむろしていたメンバーの視線が私に向けられた。ニヤけた顔で、口は薄く開いて銃口のよう。今にも私を撃とうしている。


「お、橋本さん久しぶりぃ~、元気?」


 別の男子がヘラヘラ笑いながら、私を覗き込むように横を歩く。言葉の弾丸で死なない程度に私を撃ち抜いて、それを見て笑うのだ。逃げよう、逃げなきゃ。殺されちゃう。早く、早く廊下の端まで。


「なんだよシカトかよ~」


 誰かが投げた紙くずが頭に当たった。痛くはなかった。当たり前だ、紙だもん。


「おい投げんなって、かわいそうだろ。なあ橋本さん」


 彼らの言葉はその何倍も硬く、鋭い。そんなものから身を守る術は、私にはない。それに身体中が貫かれて、立って歩けるのが不思議なくらいだった。大げさじゃない。私の心はもう、半分くらいは齧られてなくなってる。全部なくなったら、私はどうなるの。


「あーウケる」


 見ているものすべてが幻覚なのかと思えるほどに、自分が自分を否定する。リアリティのない視界の中を、走ることもできず、俯いたまま歩き続けた。

 彼らはそれ以上追いかけてこなかった。後ろから投げつけられる言葉と笑い声に突き飛ばされるみたいに、廊下の端までたどり着いた。嵐の夜道を何キロも歩いてきたみたいに、全身が疲れきっていた。


 今日は、もう帰ろう。

 まだ昼前だったけれど、とても授業を受けられる気分ではなかった。この建物の中にいるのも辛かった。予鈴が鳴って、廊下に人がいなくなった頃合を見計らって、廊下側にある自分の席から素早くカバンを取った。周りの人がこっちを見たけれど、構っている余裕はなかった。とにかく逃げたかった。地獄のような、この建物から。階段を駆け下り、職員室から上ってくる教師たちとすれ違う。


「おい、もう授業始まるぞ」


 それに答えることもせず、ひたすら駆け下りた。授業は休みます。休んだ方がいい。周りの迷惑にもならない。先生に何とかしてくださいとは言わない。だからせめて、それくらい許して。

 昇降口を抜けて、校門をまたいだ。完全に高校の敷地から抜け出して、ようやく少し落ち着けた。貧血で倒れそうなときに、ようやく空いた席に座れた。そんな気分だった。



 いちばん近いバス停には、まだ誰もいない。授業中なのだから当然だ。それでもそこを使う気にはならなかった。商店の横の路地を通り、神社の脇を抜けると、いつもの坂道に出る。比較的新しいマンションが立ち並び、その先は段々になった土地に民家と空き地が交互に続いている。空き地に生えた枯れススキが、サワサワと音を立てて揺れていた。

 2度目にアカネさんと会ったのが、ちょうどここだった。あれは3月だったから、もうすぐ1年近くが経つ。頂上まで上ると、視界が明るく開けた。南向きの斜面に日が当たり、地主さんの土地なのか、道の両側を覆っていた林もここで途切れる。

 この坂道が、私はなんとなく好きだった。たぶん、遠くが見えるからなのだと思う。せまい学校、せまい日常、せまい心。そこから抜け出したくて、でも抜け出せない。そんな私にとって、遠くまで見渡せるこの坂道が小さな希望だった。少し先にある県道は、いつも車で賑やかだった。そこまで降りてバスに乗るのが、私の常だった。

 最寄り駅で降りてから、DVDのレンタル店に入った。いつかと同じ、定番映画の棚を探す。流れている曲は違ったけれど、あの映画のDVDはそこにあった。

 12時過ぎに帰った私を見て、母はあの時と同じような心配をした。私は適当な理由を探してそれに答え、居間のプレーヤーにDVDをセットした。ほとんどすべてがあの時と同じで、再現映像のようだった。


「またそれ借りてきたの?」


 母がまた、心配と恐れが混じった声で聞く。本来学校へ行っている娘が2度も同じ時間に帰ってきて、同じ映画を見ているのだから、親としては心配になるのだろう。

 でも、その時の私は映画のほうに集中していた。以前見たときとは少し印象が違ったのだ。よく見ると、この男の子たちは皆悩みを抱えている。それに傷つけられている。それは子供という立場にいる限り逃れることができない悩みで、程度の差はあれ私と似ていた。

 私の周りの人たちも、悩みを抱えている。鈴木さんも、水野さんも。私が知っているのは彼女たちの悩みの一部でしかないのだろう。アカネさんのあの満面の笑みの裏に、鈴木さんという人格が隠れているなどとは想像もできなかったのだから。

 みんな悩みを隠していて、親に分かってもらえず、毎日が寂しくて、自分が憎い。そうなの?だとしたら、私もみんなのようになれるの?


 鈴木さんのように、なれるのかな?



「カナちゃん、昨日どうしたの?」


 翌日予備校へ行くと、水野さんが隣に来て言った。


「ん、ちょっと気分悪くて……」


 私が答えると、水野さんは不安そうな顔をして、大丈夫?と聞いた。


「うん、今日はもう大丈夫」


 水野さんはそっか、と言っていつもの笑顔に戻った。そして、その笑顔のままで言ったのだ。


「心配事とかあれば言ってね」


 と。

 そのとき私はどんな顔をしただろう。自分では分からないけれど、表情を読むのが上手い人ならば、私の動揺を見抜いたかもしれない。


 昨日は映画を見て、部屋で夜までぼーっとしていた。今朝起きて、学校でのことはそれほど引きずっていない、そう思った。少なくとも学校では1日過ごせたし、予備校に来ることも億劫ではなかった。

 だけどもちろん、心配でないわけじゃない。またいつ、彼らに会うか分からない。同じ校舎の同じフロアにいて、彼らの気分次第でいつでも私はターゲットにされうるのだから。だけどそんなこと、水野さんに言ってどうする。彼氏に愛されているか不安、という水野さんの悩みに比べて、私のそれはとても格好悪いものに思えた。


 講義はいつの間にか終わっていた。2、3時間なにを考えていたのか。ノートだけはとってあったけど、それについての講師の説明を、一切覚えていなかった。


「やっぱり元気ないよ」


 予備校が終わり、駅までの途中で水野さんが言った。


「そうかな」


 3年になってからはあんまり悪口を言われていなかったから、思った以上に昨日のことがショックだったのだろうか。


「何か嫌なことあった?」


 なんと答えればいいのか分からなかった。嫌なことはあったよ。でもそれは今までもそうだったし、人に言うようなことじゃ――


「カナちゃんはあんまりそういうタイプじゃないかもしれないけど」


 水野さんが私の目を見て言った。商店の明かりが、彼女の顔を横から照らした。


「話すと楽になることもあるよ」


 だから気が向いたら話してね、と言って水野さんは微笑んだ。その気遣いが、とても嬉しかった。彼女になら、いいのかもしれない。水野さんになら、私の格好悪いところを見られてもいい。そんな気がした。


「あのね」


 それだけ言ってつかえてしまった。後が続かない。それを言うのが怖い。やっぱり怖い。ダメな奴だと、水野さんに思われたくない。


「うん?」


 水野さんは先を促すように、優しい声を出した。

 言っていいの?


「私……」


 汚いものを吐き出そうとしてるんじゃないの?


「いいよ、ゆっくり」


 包みこむような、優しい声だった。歩幅を私に合わせ、ゆっくりと歩いてくれた。


「学校で……悪口言われたりして、たんだけど……」


 つっかえながら、何とか言葉に出していく。例えが悪いけど、気分が悪いときに、嘔吐しようと口を開いている感覚に近かった。

 水野さんは私のそばに寄り、小さな声で頷いた。


「昨日……久しぶりに、それがあって」


 水野さんが答える代わりに、その手が私の手を握った。


「辛くなっちゃって……」


 そこまで言って、涙がこぼれた。こんなことを言いながら泣くのは嫌だったのに、一度溢れてしまった涙は、私の意志では止められなかった。


「ごめん……っ」

「ううん」


 水野さんは私の手を引っ張り、少し人の流れからそれて歩き出した。私は怒られたあとの子供のように、ただ彼女に手を引かれて歩いた。

 駅前の広場に植わった木々は葉を落し、クリスマスのイルミネーションに飾られていた。人通りは多くもなく、少なくもない。

 そのうちの1本の木のそばまで歩くと、水野さんは黙って私を抱きしめた。


「ごめんね、知らなかった……」


 私はもう声が出せず、彼女の肩に顔を付けたままで首を振った。


「大変だったんだね」


 その言葉に、私の涙の蛇口は更に開かれてしまう。


「う…ぅ…」


 うめき声を上げて泣くことしかできなくて、私は子供みたいに水野さんの腕の中で縮こまった。自分が格好悪いと分かっていながらも、感情が押さえられなかった。


「我慢しないでね」


 親にも先生にも言えなかった。誰にも言えないと思ってた。排泄のような行為を、黙って受け止めてくれる水野さんにしがみついて、私はバカみたいに泣き続けた。

 



 高木さんの部屋でクリスマスパーティをしよう、と言われたのは、それから1週間後のことだった。クリスマスと言えばキリストの誕生日。でも日本の若者にとっては、恋人同士が愛情を確かめ合う日、という意味合いの方が強いだろう。もちろん、高木さんという恋人がいる水野さんだって、その例に漏れないはずだった。


『うん、でも今年はカナちゃんと居たいな~なんて』


 私のことを気づかってくれているのは、バカな私でも分かった。私が答えられずに居ると、


『高木さんもさ、予定ないならおいでって言ってたよ』


 でも


『だって……』


 だってその日は……。

 奥手な高木さんにとってはその日は大事な日なのに違いない。2人の心づかいは嬉しかったけれど、それでもはいとは言いづらかった。


『カナちゃんが来れなくても、ただご飯食べて、10時過ぎには帰るから』


 水野さんはそう言って、意味ありげに笑った。

 結局、言いづらいかどうかの問題だった。行きたいかどうかと言われれば、行きたいに決まっていた。



「はい、じゃあ乾杯しようか」


 高木さんがグラスにジンジャーエールを注いでくれ、それを持って乾杯した。こたつの上にはキムチ鍋とピザという、不思議な取り合わせのメニューが並んだ。


「お酒はあ?」


 水野さんがニヤニヤしながら言うと、


「未成年はダメに決まってるだろ」


 と高木さん。この2人はいつもこんな感じなんだろうな、と思う。水野さんが、私と居るときの水野さんそのままだったから。


「しょーがないな、食べよ食べよ」


 水野さんはピザを一切れつまむと、私の前の皿に置いてくれた。


「……ありがとう」

「鍋も適当に取っちゃって」


 水野さんはそう言ってこたつに座り、高木さんはテレビの天気予報を眺めていた。


「雪は降らなそうだな」


 1人暮らしの人の部屋に来るのは初めてだったし、友達の家で食事をしたのも初めてだ。はじめは緊張したけれど、のんびりとした雰囲気は不思議と落ち着いた。


「そう言えばね」


 水野さんがまたにやけた顔をして私を見た。


「カナちゃん、高木さんのこと大学生だと思ってたって」

「あ、す、すみません」


 突然のことでびっくりしながらも、咄嗟に謝ってしまう。


「あーそこ、謝らないの」


 高木さんはテレビから目を離し、私を見て笑った。


「いいじゃん、若く見られたんなら嬉しいよ」


 もう一度大学行こうかなぁ、と笑って言った。


「学生のとき彼女できなかったから?」


 水野さんがしらっと言ってのけた。


「まあ、それもあるね」

「でも、いまはこんなかわいい彼女がいるじゃないですか」


 私は思ったままに言ってみた。水野さんが、横でむせた。


「可南子ちゃん……」


 高木さんは私と彼女を交互に見ながら、


「君、いい子だね」


 と真面目な顔をして言った。その本気とも冗談ともつかない様子に、私と水野さんは噴出してしまったのだった。



***



 年も明けて、センター試験が間近に迫った日曜日の夜だった。


「可南子、電話よ」


 母が私の部屋に、コードレスの受話器を持ってきた。誰だろう、こんな時間に。しかも家の電話に?もしかしていたずら電話じゃないか、という不安がかすめる。

 しかし、


「鈴木さんていう子から」


 その名前を聞いて、不安は吹き飛んだ。心臓が鼓動を早くする。受話器を受け取って、部屋のドアを閉めた。


「も、もしもし」

「もしもし、可南子?」


 鈴木さんの声だ。当たり前だけど、本当に鈴木さんだった。


「うん、鈴木さん元気?」


 私が緊張しながら尋ねると、彼女は元気だけど、と言った。


「だけど……?」

「名前で呼んで」


 鈴木さんらしい、はっきりした要求。そう言ってもらえるのは嬉しかった。私もそう呼びたかったから。

 けれど、そう呼んだことは1度しかない。それも泣きながら。その時の記憶がよみがえり、どうしても気恥ずかしさを感じてしまう。


「茜……さん」


 あかね、と呼び捨てにするのが落ち着かず、さんをつけてしまった私に、


「可南子~?」


 と露骨に不満をあらわにする彼女。


「ごめん、緊張しちゃって……」


 結局私は、10か月前に別れたときから何も成長していないのだろうか。そんなことない、少しは、少しはましになったはずだよ。呼べないはずがない。いちばん呼びたかった、その名前を。


「茜」


 今度は少し、自信を持って、呼んでみた。大好きなその名前を。その響きはきれいな音楽のように、私の中で心地よく広がった。


「ふふ」


 受話器の向こうで、鈴木さんが小さく笑った。


「センター試験だね。来週」


 たぶん、鈴木さんが電話をくれたのはそれでだと思った。


「それで電話したんだ」


 彼女は静かに言った。


「頑張ろうね」


 こっちの大学を受けると、鈴木さんは言っていた。それを確認しようと、喉まで出かかった言葉を飲み込む。


「うん。頑張ろう」


 それは今聞かなくたっていい。いまは目の前の試験をがんばろう。1人で、だけど鈴木さんと一緒に。


「いろいろ話したいけど、今日はこれだけにするね」


 鈴木さんはそう言って、早々に話を切り上げた。そしてそれは正しい判断だと思った。いま長く話したら、きっと止まらなくなってしまう。少なくとも私はそうに違いなかった。


「うん」


 じゃあ、と言おうとしたとき、


「可南子」


 と鈴木さんが私を呼んだ。柔らかい声だった。


「おやすみ」


 私ももう、緊張せずに自然に言えた。


「うん、おやすみ。茜」



 それから後のことは、ほとんど覚えていない。唯一覚えているとしたら、受験当日の朝、鈴木さんがくれた暑中見舞いを見ていた時間くらい。時間は矢のように飛び、そのときそのときは感じなかったのに、後になってみれば本当に一瞬のように過ぎてしまった。悲しむ暇も、自分を蔑む暇もない、ある意味で健全な毎日だったんだと思う。それまで過ごしてきた日々に比べれば。

 すべての合格発表が終わり、同時に長かったようで短かった受験生活が終わった。残念ながら公立は受からなかったけれど、私立大学の学費一部免除枠に入った。1年前の私から見たら、頑張った方だと思う。鈴木さんと水野さんは、共に第一志望校に合格した。それが自分のことのように、嬉しく思えた。


 卒業式までの自由登校期間は、学校へは行かなかった。なるべく落ち着いて考えてみても、行く理由はないと感じた。卒業式だけは出席し、卒業証書をもらってそのまま学校を出た。私の思い出はやっぱり、あの校舎の中にはない。そんな気がした。

 その日の夜、買いなおした携帯に水野さんから電話があった。卒業祝いにご飯を食べようという誘いだった。翌日に鈴木さんが引っ越してくることになっていたので、その手伝いに行ったあとで、水野さんたちと待ち合わせることになった。


「ありがと、もういいよ。あと私やる」


 ひと区切りついたところで、鈴木さんが立ち上がってそう言った。時計を見ると15時だった。


「でもまだ時間あるよ?」


 水野さんたちと待ち合わせたのは18時。駅までの移動時間を考えても、17時に出かければ十分間に合うだろう。


「その前に寄りたいところがあるんだけど、いい?」


 鈴木さんはそう言って、窓から外を見た。


「うん」


 私が答えると、鈴木さんは冬物を詰め込んだクローゼットからスーツ用の袋を取り出した。


「制服、持って来てくれた?」


 そう、なぜか鈴木さんは私に制服を持ってくるように言った。私は同じようなスーツ袋を持ってきていた。


「何に使うの?」


 私が聞くと、鈴木さんはにやりと笑って言った。


「着るに決まってるでしょ」

「えっ」


 彼女はさも当然のように答えると、自分の制服を取り出した。転校先のではなく、○○高校の制服だった。私とおそろいの。


「早く」


 鈴木さんに急かされて。わけが分からないままで制服に着替える。

 お互いに後ろ向きで着替える中で、鈴木さんが言った。


「私ね、秘密にしてたことがあるんだ」


 と。アカネさんと鈴木さんが同一人物だったことだけでもびっくりしたというのに、それ以外にまだ、いったいどんな秘密があるというのだろう。


「なに?」


 私が聞くと、鈴木さんはこれ見て、と言ってカードを差し出した。


「免許証……?」


 アカネさんバージョンの写真がきれいに写った、鈴木さんの免許証。種類と書かれた場所には、普自二とだけ印刷されている。


「分かる?」


 鈴木さんはまたも、そんな聞き方をする。これを見たって、少なくとも私には何も分からなかった。


「分からないよ、免許なんて普段見ないし」


 免許は関係ないんだ、と鈴木さんは笑って言った。ジャケットを羽織る音が聞こえる。

「誕生日」


 鈴木さんはそう言って、私の手から免許を取った。そのまま見える位置に掲げてくれたので、私はブラウスのボタンを止めながら誕生日を探す。

 すぐにそれは見つかった。


 平成X6年 7月15日生


 私よりも2か月ほど早い。でも、鈴木さんが言わんとすることは分からなかった。


「可南子の誕生日と比べれば分かるよ」


 鈴木さんは笑いながら言った。私の誕生日。頭の中でそれを読み上げてみる。

 私の誕生日は、


 平成X7年10月1日


 だ。やっぱり鈴木さんのほうが早く生まれていて、その差は……。


 その差は約、1年3か月。


 つまり、同学年ではない。1年3か月差があれば、鈴木さんが満6歳で迎える4月に、私は満5歳。だから一緒に小学校には入学できない。

 ということは、鈴木さんは私より


「1つ年上……?」


 彼女はにっこり笑って、


「よくできました」


 と言って免許を下ろした。


「私、中学1年しか行ってなくて」


 残りの2年はサボってたんだ。免許を財布に戻しながら、鈴木さんはそう言った。


「なかなか溶け込めなくて、浮いちゃって」


 ああ。分かるよ。分かる。

 鈴木さんも、そうだったんだ。


「そのうち行けなくなっちゃった」


 聞いているのが辛くて、私は顔を伏せた。だけど鈴木さんは、身体を伸ばして私の顔を覗き込む。


「わっ」


 あはは、という笑い声。


「ごめんごめん、もう昔のことだからさ」


 鈴木さんはそう言って、私のネクタイに手を添えた。しめようとして首にかけたままになっているそれを、ゆっくり結んでいく。


「ただ、可南子には言っておきたかったんだ」


 どうして、と私が聞くと、鈴木さんはその黒い瞳を、私の目にまっすぐに向けた。


「そのおかげで、可南子に会えたから」


 そう言って、丁寧にネクタイをしめてくれる。


「茜……」


 そう言った私の肩を、鈴木さんが両手で叩いた。


「これでよし!行こう」

「えっ?」


 鈴木さんは新品のパンストを取り出して私に穿かせ、自分でも穿いた。


「どこ行くの?」


 それには答えずに、ナイロン地の袋を取り出して口を開け、マフラーやコート、それに私が狩りっぱなしにしていたジャージのズボンを突っ込んだ。


「内緒」


 けれどそれを見てようやく、私は彼女のやろうとしていることが分かったのだった。



 学生寮の駐輪場に、あのバイクが停めてあった。鈴木さんは荷物をつっこむと、キーを挿してシートに座った。


「乗って」


 私は手渡されたヘルメットをかぶり、シートの後ろに跨る。少しひんやりする感触が懐かしい。ゆっくりと駐輪場を抜け、車道に出る。小気味よい音を立てて、滑るようにバイクは走った。

 住宅街を抜けて国道へ出る。車の量が増え、大型の車も目立つ。鈴木さんのお腹にしがみついたまま、周りの車を見回す。スーツの男性、トラックの運転手、年配の夫婦、ドライブ中のカップル。いろいろな人がいて、車のナンバーもいろいろだった。彼らからは、私たちはどう見えるんだろう。

 制服姿の女子がバイクで2人乗りしているなんて、不良だとか非行少年だとか最近の若者はとか思われるのかもしれない。

 でも違う。そんなんじゃない。ただ必死なんだ。辛い毎日を生きていくために、自分自身を守ることで精一杯。それ以外のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなくて、周りからは変に見えるのかもしれない。それならいい。それでもいい。変だと思われてもいい。だから少しだけ、時間をください。私たちが大人になるのに必要な、静かな時間を。


 20分ほど走って、鈴木さんはバイクを止めた。そこは山のふもとで、よくあるハイキングコースの出発点みたいな場所だった。駐車場と車道の間の植木の中に、頂上までの道のりを書いた地図が立っている。


「夜は人気のデートスポットらしいよ?」


 何で見たのか、鈴木さんはそんなことを言った。

 山と言っても道は開けていて、石の階段が続いていた。これなら確かに、デートでも来やすいのかもしれない。

 私も鈴木さんも靴はローファーでなくスニーカーだったので、10分もせずに頂上まで上れた。そこはちょっとした広場になっていて、自動販売機やベンチが置かれていた。ちょうど人のお腹くらいまでの植木が柵の代わりに植えられ、その向こうには夕方の街が遠くまで広がっていた。


「いい景色だね」

「でしょ」


 鈴木さんの寮はどのあたりだろう。私の家の方まで見えるのだろうか。そんなことを話しながら、2人でしばらく街を眺めていた。


「大学生になる前に、同じ制服着たかったんだ」


 鈴木さんがぽつりと言った。


「私も……一緒に卒業したみたい」


 嬉しい。歳が違うのも、学校が違うのも関係なかった。


「ふふ、ありがと」


 そう言って笑った顔は、アカネさんでも鈴木さんでもなくて、ああ、これが本当の茜なんだな、と私は思った。


「茜のおかげで、高校が楽しかった……」

「本当?」


 私の高校生活は、あの校舎で過ごした時間ではなかった。アカネさんと出会い、鈴木さんを知り、そしていま茜と一緒にいる。それらの時間こそが、私にとっての高校生活だった。

 私が頷くと、茜は少し黙ってからこう言った。


「なら……ご褒美が欲しいな」

「え?」


 私が聞き返すと、茜は「メイクしてないから」といってその頬に指で触れた。


「え……あの」


 可南子ってさ、と彼女が口を尖らせる。


「そういうの言葉で言わせたいタイプ?」

「ち、ちがっ」


 なんだ、分かってるんじゃない、と言って笑う彼女の頬に、不意打ちとばかりに唇を押し付けた。


「……っ」


 一瞬のことだったけれど、茜はぴくりと震え、それからこっちを向いた。耳の先が赤くなっていた。


「あ、ありがと」


 明らかに恥ずかしがっているその表情を見て、こっちはそれ以上に恥ずかしくなってくる。


「あ、赤くならないでよ……」

「な、なってないでしょ?」


 なってるよ。見てて恥ずかしくなるくらいに。

 そのとき、私の手に茜の手が触れた。そんな近くに立っていたのだから、当たり前と言えば当たり前で、事故みたいなものだった。なのに、どきっとする暇さえもなく、茜の指が私の指を絡めとった。まるで水滴同士がくっ付くみたいに自然に、そして一瞬のうちに。


「茜……っ」


 彼女は黙ったままだった。そのしっとりとした手に吸い付かれ、そこに全神経が集中したみたいに、私の気持ちは高揚していた。カイロを握っているような不思議な暖かさが全身に広がっていく。

 少し濡れた黒い瞳に見つめられると、息が止まりそうだった。だからなのかどうか分からないけれど、


「私にもして」


 私は、そんな信じられない言葉を口にしていた。


「……いいの?」


 私が黙って頷くと、茜が私の顔に口を寄せる。首筋に息がかかり、私は目をぎゅっと瞑った。その直後、柔らかい感触が頬に触れた。それはすぐには離れず、しばらく私の頬の上を這い回った。


「ちょ……っ、くすぐっ……たっ」

「っぷ、あははは」


 私が思わず声を上げると、茜は笑いながらその唇を離した。


「もう……っ」


 照れ隠しにそんなことを言わなければ、とてもいられなかった。それくらいに、とにかく恥ずかしかった。そして、とにかく嬉しかった。


「あ、ありがと……」


 どういたしまして、と言って茜が笑った。

 一陣の風が吹き抜けて、私たちの髪を揺らした。春の匂いにほんの少し、茜の匂いを感じた気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠くが見える場所 uta @uta_yagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ