遠くが見える場所

uta


 見ざる聞かざる言わざる。

 人生を生きるための知恵と言われるけれど、聞かざる、は難しい。目と口は閉じられるけれど、耳は閉じられないからだ。


「ハハハ……。でさ……」


 授業中、クラスの後ろの方の席から聞こえてくるヒソヒソ話。怖いもの見たさと同じ原理なのか、私の脳はそれを聞き取ることに集中する。


「そう、んでさ……」

「橋本だろ……マジ……」


 そして律儀に自分の苗字を聞き取り、その意味を解析し、私に傷つけと命令する。そのたび私は傷つく。背中を刃物で切られているみたい。針金で胸の中を突き回されているみたい。暑いような寒いような、怖いような情けないような、そんな気持ちがぐるぐると回る。授業なんてこれっぽっちも聞こえない。

 それほど大きな声でないためか、注意する教師は少ない。もししても、またすぐに再開されるだろう。いつからこうだったのか、思い出せない。なぜ私なのか、考えても分からない。彼ら彼女らから見て、何かが気に入らないのだろう。

 生き地獄とも思えるような時間を、黒板を走るチョークの音と、周りの生徒が知らぬフリでノートに書き付ける音だけを聞いて過ごす。およそ、私の高校2年目はそうやって過ぎた。



 学校を休みはしなかったけれど、遅刻が続いた。その時間も次第に遅くなり、1時間目をサボるようになり、そうなれば2時間目も。といった具合で、今日も家を出てから書店や百貨店をうろつき、時刻は12時前だった。


「君、ちょっといいかな」


 男性の声がかけられ、何かと思って振り向くと警察官が立っていた。


「いま授業中だよね?何してるの?」

「いえ、これから行くところですけど」


 私が答えると、2人の警官が顔を見合わせる。何をやりとりしているのか分からないけれど、気分が悪い。


「本当に?学校に確認していいかな?」


 何を確認するのだろう。私が遅刻しているかどうかをだろうか。バカバカしい。私の行動は咎められ、その原因を作っている彼らの行動は誰からも咎められない。



 学校の前までやってきても、中に入る気がしなかった。いっそやめられればいいのにと、敷地を支えるブロック塀の周りを歩きながら思う。でも、それからどうするの?大学は?就職は?結婚は?

 やめる、とセットで必ず頭に浮かぶ難問の数々。私はこの先、どうやって生きていくんだろう。俯いたまま歩いていると、後ろからエンジン音が聞こえてきた。大きさからオートバイのようだった。


 いちおう、動物の本能として音の出所を確認する。まさかとは思うけれど、白バイが追いかけてきたのかとも思った。思ったとおり、けれど白バイではなく、普通の中型のバイクだった。徐行しながら私の横を通り過ぎていく。しかしその運転手――つまりライダー――は私の目と興味を惹きつけた。

 目の前でバイクは止まり、片足を地面についた少女がこちらを振り返った。ヘルメットを脱がなくても少女だと分かるのは、胸が大きいからでも髪が長いからでもない。彼女は制服を着ていたからだ。私が身に着けている物と、まったく同じ制服を。

 糊の効いたミニスカートがシートの上に辛うじて広がり、つまりその下は、黒いシートに下着が直に触れているのだろうか。そんな下品な想像をしてしまうのは、目の前の少女とバイクの組み合わせが、あまりに非日常的に見えたからだ。


「ね、いまから教室行くの?」


 少女はフルフェイスのヘルメットの風防を開けるとそう話しかけてきた。気軽な感じではあったけれど、気安い感じではなかった。それが私を安心させた。


「えっと、分かんないです」


 なんとなく先輩であるような気がして敬語を使う。すると少女はにっこり笑い、


「ふふ、サボり?」


 と聞いてきた。こんなふうに笑いかけられたのはどれくらい振りだろう。


「あんまり行く気がしなくて」


 私が答えると、彼女は片足で器用にスタンドを立ててバイクを降りた。そしてヘルメットを脱ぐ。私は目が点になった。なぜって、かわいかったからだ。彼女が。

 内側に向かって強めに巻かれた黒髪と、薄っすらとポイントを押さえて施されたメイク。そして上品な笑顔とが相まって、とても高校生とは思えない魅力をたたえていた。


「そっか」


 顔が熱くなり、思わず目をそらしてしまう。


「私も今日サボりなんだけど……」


 そう言いながら、彼女は上半身を伸ばして私の顔を追いかけるように覗き込む。


「わっ」


 反射的に身体を引くと、彼女は面白そうに笑った。


「ねえ遊びに行かない?」


 学食行かない、とでも言うような自然さでそう言った。私はなんと言えばいいのか分からず、驚きの連続で働かなくなっている頭をフル稼働させた。


「名前、なんていうの? あたしはアカネ」

「橋本……です」


 それを聞いた彼女はちょっと口を尖らせて、下のお名前は?と聞いた。


「可南子です」

「可南子ちゃんか。ね、行こう?」




 アカネさんに連れられてやってきたのはカラオケだった。平日の昼間に外で遊ぶのもまずいから、と彼女は言っていた。さっきみたいに、警察官にありもしないことを詮索されるのは嫌だった。


「よく来るんですか?」


 私が聞くと、アカネさんはたまにね、と答えてから言った。


「敬語じゃなくていいよ、同じ学年だし」

「えっ」


 一瞬信じられなかった。目の前の大人びた女性と、自分が同い年だということが。いや、というより。


「どうして知ってるんですか?」


 彼女と私は初対面のはず。確立で考えれば、同学年でない可能性のほうが高い。


「教えて欲しい?」


 いたずらっぽい笑みをたたえて私を見る。私が頷くと、彼女はピピっとリモコンのボタンを押した。マイクを手に取るとこう言った。


「タメ口で話してくれたら教えてあげる」


 スピーカーからそんな言葉が流れた。

 アカネさんが歌っているのは、少し古い歌謡曲。画面の文字を追いかける彼女の顔が、間奏に入ってこっちを向いた。目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうに笑って、また画面の方に向き直った。

 それを見て、ようやく彼女も同じ高校2年生なんだと思えた。普通の日本人なら、初対面の人の前で歌を歌うのは恥ずかしい。


「昔の歌が、好きなの?」


 そう尋ねると、彼女は笑った。まだどこか少し、恥ずかしそうな表情を残したままで。

「可南子ちゃんも入れなよ」


 そう言ってリモコンを手渡される。

 実は、この瞬間を恐れていた。


「私、カラオケ来たことなくて」


 今どき珍しいかもしれない。冴えない中高生活を送ってきた証だと思われるのかもしれない。遊び慣れたアカネさんには信じられないかもしれない。


「そっか、じゃあ一緒に歌お」


 けれどそんな心配をよそに、彼女はリモコンを突っつきはじめた。コレ知ってる?コレは?と言いながら、某アイドルグループの曲を入力してしまった。


「ええ、絶対無理」

「大丈夫、歌ってみると気持ちいいよ」


 前奏が終わってアカネさんが歌い始める。その目がチラリチラリと私を見てくる。恐る恐る、マイクに向かって声を出す。アカネさんの楽しげな声に混じり、スピーカーから自分の声が小さく聞こえる。彼女は目で笑い、整った親指を上に向けた。

 素敵だな、と思う。見た目もきれいで笑顔もかわいくて、おしゃべりも上手で気遣いができて。大人でも、なかなかこんな人は見かけない。


「なーに考えてるの」


 俯いた顔を、アカネさんの顔が下から覗くように見上げてくる。


「あ、アカネさんて、もてるんだろうなと思って」


 あああ、もっと違う表現をしたかった。しゃべり慣れていない私の口は、頭が考えるのと微妙にずれた言い方をしてしまう。

 それを聞いたアカネさんは、


「またぁ」


 と言って私の頬に触れた。


「どの顔がそんな事言うの」


 指の腹でフニフニと、私の頬を押す。意味が分からず、されるままになっている私に、彼女は続けて言った。


「可南子がその気になれば、彼氏の10人や20人すぐできるよ」


 そ、そんなにいらない。と言うか無理だ。お世辞だ。社交辞令だ。


「嘘だと思ってるでしょ」


 アカネさんはそう言って、指を離した。


「だ、だって」

「そうそう」


 彼女はそう言って私の言葉を遮った。


「なんで同学年だって知ってるか、だけど」


 そうだった。

 アカネさんはそこでいったん言葉を切ると、反応を確かめるように私の顔をじっと見た。その顔は笑っていたけれど。


「あたし、可南子のこと知ってたんだもん」



 カラオケから出る前に、アカネさんからジャージのズボンを渡された。

「穿いて」と言われ、わけが分からず言われた通りにすると、彼女も同じようにズボンを穿いた。

 それがバイクで送ってくれる際、寒くないようにだということに気づいたのは、ズボンを返し忘れたことに気付いたのと同時であった。



***



 アカネさんとの出会いは衝撃的だった。

 けれども、それで私の毎日が変わるわけではない。相変わらず遅刻が多く、休みがち。両親にバれるのも時間の問題だろうと思えた。

 休日に家の電話が鳴るたび、学校からではないかとびくびくしていた。曜日を問わず、私の心は休まるときと場所を持てなかった。


 だから祝日の月曜日の昼、机の上の携帯が鳴ったときも、私は心臓が冷たくなるのを感じた。液晶に映っているのは知らない番号。おそるおそる着信ボタンを押した。


「……はい」

「あ、もしもし」


 女の子の声だった。同い年くらいだろう。声を聞いても誰だか分からず、まったく心当たりがない。


「橋本さんだよね?」

「私、クラス委員の鈴木です」


 電話の相手はそう言った。クラス委員。鈴木。そんな人がいたような、いなかったような。


「進路希望のプリントを渡すように先生に言われてるんだけど、今日渡しに行ってもいいかな」


 鈴木と名乗った相手はムダ話をせず、すぐに用件を述べた。進路希望のプリントか。朝のHRあたりで配られて、受け取っていなかったんだろう。


「あ、……ごめんね、わざわざ」

「いいの。どこに行けばいい?」


 鈴木さんは抑揚のない声でそう言った。


「私の家……は分からないよね」

「家に行っていいの?」


 質問の意味が分からなかった。知っているならそれが楽ではあるけれど、さすがにそれは悪いと思えた。


「鈴木さんの家は……どの辺り?」

「○○駅のそば」


 駅名を聞いて、学校を頂点に、すごくつぶれた二等辺三角形を思い浮かべる。


「えっと、じゃあ△△駅でいい?」


 底辺の中間辺りと思える駅名を挙げてみる。


「分かった。1時間後でいい」

「うん、ありがとう」



 △△駅は私鉄同士の乗換駅で、駅前には鉄道会社のスーパーやファーストフード、レンタルビデオ店、ファミレスやコンビニがひととおり揃っている。

 鈴木さんの顔は分かるけれど、私服だとどうだろうか。そういえば彼女は、どうして私の携帯番号を知っていたのだろうか。


「橋本さん」


 考えていると、後ろから声をかけられた。

 立っていたのは、なぜか制服姿の鈴木さんだった。これなら見間違えようがない。真面目なスカートの丈に、上品な眼鏡、後ろで1つに結んだ黒髪。真面目な委員長のステレオタイプのような人だった。


「あ、ごめんね休みなのに……」


 彼女は首を振ると、鞄からクリアファイルに挟んだプリントを取り出した。


「今週の金曜までだから」


 お礼を言って受け取ると、二人の間にはそれ以上交わす言葉がないように思えた。じゃあ、と別れの言葉を切り出そうとしたときだ


「提出に来れそう?」


 鈴木さんが聞いてきた。それは、私のクラスでの状況を考えての言葉だろう。


「ん、なるべく行くよ」


 行くとは言い切れないし、鈴木さんの手前、行けないとも言えない。最悪、担任宛に郵送すればいい。そう考えていると、また鈴木さんが口を開いた。


「橋本さん、もう決まってるの?」


 進路の話だろうか。この段階での進路調査は、進学、就職といった大まかな内容でしかない。したがってほとんどの生徒が進学と書いて提出するだけだ。


「……今回のは」


 今後、どうすればいいのかはまるで分からないけれど。


「そしたら、今書いてくれたら提出しておくけど」


 鈴木さんはそう言った。


「え、でも悪いよ」

「全然」


 彼女は短く答えた。書いて渡して欲しい、その方が私も楽だから。そう言っているのだろう。


「えっと、じゃ……」


 私は鞄の中に筆記用具を探した。けれど鈴木さんは、


「ここじゃ書きにくいから、あそこで」


 と言って、ファーストフード店を指差した。



 意外だった。それは2つの点で。

 ひとつは、鈴木さんがファーストフードを利用するということ。いわゆる品行方正のお手本のような彼女が、ああいうところで買い食いをしているのは想像できない。

 もうひとつは、こんな気遣いをしてくれること。プリントの升目に、名前と出席番号、そして進学という字を丸で囲むだけの作業だ。外で立ったまま書いたって1分で終わるし、読めないほど汚い字になることもないだろう。


 もっともそのどちらでもなく、彼女からしてみれば、立って提出物の記入を行うなんて、考えられないのかもしれない。


 飲み物だけ頼んで2階の席に座り、鈴木さんは私の前にプリントとボールペンを並べて置いた。


「あ、ありがと……」


 ほんの少し笑みを浮かべると、彼女は紅茶の入ったカップを両手で包むように持ち上げた。

 2年3組。28番。橋本可南子。進学。担任氏名。……!?

 担任の先生の名前?

 知らない。いや、もちろん苗字は知ってるけれど、フルネームで、しかも漢字で書かなければいけない。


「鈴木さん、ごめん」


 窓の外を眺めていた顔が、私の方を向いた。


「担任の先生の名前って、分かる……?」


 くす、という表現がぴったりな笑いを、鈴木さんが漏らす。少しだけ肩の緊張が取れた気がした。

 彼女は私からボールペンを受け取ると、レシートの裏に書いてくれる。少し前傾姿勢になり、自然と彼女の顔が近づく。


「はい」


 そう言ってレシートを180度回し、ボールペンを横に添えた。

 きれいな字だった。丁寧で読みやすい。その字を横に見ながら、プリントの升目を埋めていく。

 お礼を言いながら彼女にプリントを手渡した。鈴木さんはそれをクリアファイルに挟むと、カバンの中へ丁寧にしまった。


「それじゃ」


 と言うと、自分のトレイを持って席を立った。


「あっ」


 私が慌てて出ようとすると、


「ゆっくり出て」


 と言い残し、そのまま出て行った。私はまだ、コートを着ていなかったのだ。



***



 学年末テストまで1か月ほど、高校2年も残りあと2か月となった。

 もうすぐ受験生になると言う緊張からか、授業中の私語は減っていた。ときどき耳障りなヒソヒソ話が聞こえてはきたけれど、できるだけ聞かないようにした。


 そんなある日、英語の教師が急病で休み、その時間が自習となった。課題用のプリントが配られ、各々がそれに取り組み始めた。

 私は自習の時間が嫌いだった。教師がいないことで、生徒は悪ふざけの羽目を外しやすく、それを咎める人間もいないからだ。そしていま、悪ふざけが起こればそれは私に向けられる可能性が高かった。

 そこまで分かっていながら、どうして私は教室に残ったのだろう。自習と分かった時点で、すぐにその場を立ち去ればよかったのだ。


 いつもの後ろの方の席の数人がしゃべり始める。はじめは小さな声だったが、周りが何も言わないと分かるとすぐに声が大きくなっていった。

 彼ら彼女らがなにを話しているのかに関わらず、そのヘラヘラとした声を聞いているだけで、私は背筋が冷たくなり、顔は熱くなった。脇の下に変な汗が染みてくる。勉強などできるはずもなかった。トイレに行くフリをして、そっと外へ出ればいい。カバンなんか持たなくていい。ここから出なければ。

 けれど私は縛られたように動けなかった。あのおしゃべりを聞いただけで、身体がすくんでしまうのだ。情けない。それならせめて寝ていよう。机に突っ伏していれば、少しは安心できる。声が聞こえてきても、聞こえないフリができる。

 けれど、それもできない。私の身体が動かせない。まるで操られているみたいに、耳をすませて、自分を傷つける言葉を聞けと命じられたみたいに。私は逃げられなかった。


 そして私を傷つける儀式が始まった。トイレから戻ってきた1人の男子が、私の横を通るときにちょっとからかっていったのだ。たったそれだけで、そのグループの興味は私に向けられた。

 人間は共食いをしないって、そんなことはない。人は身体は食べないけど、心は食べる。そのターゲットに私を選んだのだ。彼らの食欲を満たすため、私の心は端から少しずつ食べられてしまうのだ。怖い。逃げたい。でも逃げられない。動けない。


 1人の男子が黒板に下手くそな似顔絵を書き、額縁の下のタイトルのように、HASIMOTO、とローマ字で書いた。似てる。Hが抜けてる。もっとかわいく描いてやれよ。かわいそうだろ。彼らは彼女らは笑っている。何が面白いのか分からない。どうしてこういうことができるのか、理解できない。ニヤニヤした顔は悪魔のようだった。冷たい粘液に包まれながら、火で焼かれているような気分だった。生きている心地がしなかった。

 周りの生徒達は知らぬフリでプリントに取り組む。当然だ。私が逆の立場だったらきっとそうする。むしろごめんなさい。うるさくしてごめん。わたしのせいで集中できなくてごめんなさい。

 死にたい。もういやだ。私なんか……


 そのとき、笑い声が止んだ。おしゃべりの声も消えた。

 委員長が、黒板消しで落書きを消していた。


「おいおい、なに消してんだよ」


 1人の女子がまくし立てた。


「解答と連絡事項を書きます」


 一瞥もせずにそう言うと、手に持ったプリントの中身を黒板に写していく。1-(what)、2-(which)、3-(having)4……。

 委員長が板書する音だけが教室に響いた。隣のクラスの授業の声が小さく聞こえる。私は泣きそうになりながら、鈴木さんの後姿を見つめた。教壇の上で背伸びをして、なるべく高い位置に書いていく。我慢しても、涙がこぼれるのを止められなかった。

 勢いを削がれ、それきり彼らは黙ったままだった。


『採点した上で、クラス委員がまとめて提出。

 13:50まで。以降は受け付けません』


 時間前に、私は鈴木さんの席へ行き、プリントを出した。お礼を言いたかったがとても言えず、付箋に書いて彼女の机に貼った。それを見て、彼女は小さく笑ってくれた。


 私は鈴木さんに救われた。それはあの場にいた、誰もが感じただろう。そしてそれは、鈴木さんが邪魔をした、ということになる。彼らから見れば。

 まず、からかいのターゲットに彼女が加えられたことは間違いなかった。後ろの黒板の隅に、あの下手くそな絵が描いてある。その下にはSUZUKI、と書かれている。

 鈴木さんはポーカーフェイスで心情が読めない上に、大人なのだろう。そういうものはさっさと消し、悪口陰口にはまったく反応しなかった。そのため、彼らの行動はより直接的な嫌がらせへと移った。靴や体操服を隠す。ゴミ箱に捨てる。机に落書きする。教科書を破る。正気を持った人間の行動とは思えなかった。動物よりも、はるかに性質が悪かった。

 彼女のために、なにかしたい。平気な素振りをしていても、こたえないはずはない。中学からこういうことを体験してきた私には分かる。むしろ、泣き喚いたりする方がストレスは発散されるし、周りの助けも借りやすい。鈴木さんは強いけれど、その強さが彼女を傷つけかねない。

 とは言え、私に何ができるだろう。学校で面と向かって話をするのは難しい。私は相変わらずクラスで1人浮いていて、話しかけた相手に迷惑をかける存在だ。


 ある日、本棚に置きっぱなしだった携帯が目に入った。はっとして手に取り、着信履歴を探す。すぐに、アドレスに登録していない電話番号が見つかった。これがたぶん、鈴木さんの携帯番号だ。

 発信ボタンの上に指を乗せる。時刻は20時過ぎ。まだ構わないはずだ。だけど、そうか。

 制服の隣に吊るしてあったダッフルコートを掴み、部屋着の上に羽織った。家で話したい内容ではなかった。居間にいた母親にコンビニに行くと嘘をつき、近所の公園に向かった。団地に囲まれた公園は明るいけれど、ツツジのような低木の茂みは真っ暗な闇だった。そして何より寒い。震える指で携帯を取り出した。さっきのままの画面に指を添える。

 愛と勇気。愛ってなに?私がそれを感じられる日は来るのだろうか。でも、いまは勇気だけでいい。私にください。深く深呼吸をすると、ボタンを押し込んだ。


プルルルル


プルルルル


 落ち着かない気分で呼び出し音を聞かされる。5回,6回と繰り返され、少しほっとしつつも残念な気持ちになりかけたとき、


「……はい」


 で、出た!


「あ、もしもしあの……鈴木さん?」

「そうだけど」


 相変わらずの平坦な調子の声。こんな時間に電話をして迷惑だっただろうか。


「あ、あの、いまちょっと大丈夫?」


 時間じゃなくて、私が電話をするのが迷惑だろうか。


「大丈夫。なに」

「えっと……あの」


 急かすような鈴木さんの口調に、言葉が上手く出てこない。


「いま外にいるの?」


 言葉を探していると、鈴木さんが言った。


「う、うん」


 私の呼吸は寒さで震えていた。それが伝わってしまったのだろう。


「学校の話?」

「……うん」


 鈴木さんの呼吸は聞こえない。家の中だろうか、物音もしない。


「私のこと心配してくれてるなら、大丈夫だから」


 なんてことだろう。わたしはうん、とあの、しか言ってないのに。


「で、でも……私のせいで……ほんとにごめん」

「橋本さんのせいじゃない」


 早口に、私を遮るようにそう言った。


「ご、ごめん」

「謝らないで」


 そう言われてしまい、私は返す言葉がなかった。ごめん以外に言える言葉がないなんて、なんて卑屈な人間なのだろう。


「ああいうことする人が嫌いなの。許せない」


 抑揚のない口調だったけど、強い意志を感じずにはいられない。同い年、同じ学校に通う同じ少女が、どうしてこんなに強くいられるのか分からなかった。


「あの、鈴木さんは強いし、余計なお世話かもしれないけど……」


 彼女は黙っていた。


「もし、私が何か力になれることがあったら……」


 言って。尻すぼみになりながらもそう伝えると、しばらく間が空いてから、ありがとう、と彼女は答えた。


「そのときは、電話するね」



***



 明日からいよいよ学年末試験。内申点に影響するため、特に推薦枠で大学入学を狙う人には大切らしい。バス停までの道を、もやもやした頭を支えながら歩く。学校のそばのバス停を避け、違う系統のバスに乗るのが常だった。こんなはみ出し者で、私はどうするんだろう。どこの大学に行けばいいんだろう。そこで何をすれば……。誰と……。


「かーなこっ!」


 そんなことを考えながら歩いていたら、後ろから声をかけられた。


「アカネさん……!」


 いつかと同じ、制服姿でバイクに跨った彼女がいた。私の横で止まるとスタンドを立て、バイクから降りた。


「ふふ、今日もかわいい顔しちゃって」


 そんなことを言ってヘルメットをとった。


「な、なに言って……」


 顔をそらしても、上半身を伸ばして私の顔を覗き込む。この間と同じ、顔を覆うように巻かれた髪の毛にナチュラルメイク。彼女はもしかして目が悪いのだろうか。そんなことさえ考えてしまう。


「アカネさんは、今日学校は……」

「ん、行ってきたよ」


 学校での彼女は、どんなふうなんだろう。アカネさんみたいな人だったら、きっと毎日が楽しいんだろうな。そばにいるだけでこっちまで楽しくなれるのだから。


「可南子は?テストの準備した?」


 いかにも遊んでますといった外見のアカネさんが、そういう発言をするのが面白かった。


「んー……」


 勉強などあまりできていなかった。もちろんアカネさんは私の事情を知らないし、私だって言うつもりなんかない。

 彼女は私の反応を見て楽しそうに笑うと、


「ね、試験終わったらまた遊ぼーよ」


 と言った。

 嬉しい。そう言ってもらえるのを待ってたんだと思う。けれどそのときふと、鈴木さんのことが頭に浮かぶ。


「あの、友達を……誘ってみてもいいですか」


 するとアカネさんは急に怖い顔になった。びっくりして何か言おうとしたら、ぶすっと言った。


「可南子。けーご」

「え?」


 一瞬なんと言われたのか分からずぽかんとしていると、彼女は私の頬を両手で引っ張った。


「敬語は禁止だってば」

「あいたたた」


 そうだ。そうだった。アカネさんと話しているととても同い年には見えなくて、ついつい敬語になってしまうことがある。


「ごめんなひゃいぃ…あはねふぁん……」

「まったくもー」


 アカネさんはそう言いながら私の頬を離し、手で撫でてくれる。


「じゃあさ、最終日の放課後に正門で待ち合わせでいーい?」


 そう言ってヘルメットをかぶると、バイクのキーに手を添えた。


「う、うん、分かった」

「楽しみー。お友達にもよろしくね」


 そう言うと、手を振ってからバイクに跨りエンジンをかけ、坂道の頂上の向こうに見えなくなった。



 試験の出来は、いいとは言えなかった。勉強はしたけれど、自分でも集中できていないのは分かっていた。最後の科目が終わり、教室の空気が緩む。私はそっと鈴木さんの席へ行き、廊下へ誘った。


「なに?」


 彼女はいつもの調子で聞いた。


「あ、えっとね。 この後って時間、ある?」

「あるけど」


 鈴木さんの返事は短く明快なので、いつも私は言葉に詰まってしまう。次の言葉を考えるスピードが、鈴木さんのテンポに追いつかないからだ。


「あの、もしよかったら、一緒に遊ばない? もう1人女の子が一緒なんだけど……」


 昨日から考えておいたセリフを、なぞるように口にする。


「いいけど」


 特に悩んだ様子もなく、彼女は頭を縦に動かした。



 待ち合わせは正門。これはよかった。

 多くの生徒は東側にある門から出入りし、正門を利用する生徒は少ない。門のところで人を待つというのは慣れていない私でも、あまりそわそわせずにいられた。

 だけど、鈴木さんと一緒にいると緊張する。まだあまり彼女を知らないし、彼女が私をどう思っているのかも分からなかった。


「テスト、できた?」


 何か話さなければと思い、そう聞いてみた。


「普通かな。橋本さんは?」


 彼女はそう返してきた。鈴木さんの普通。きっと私の普通よりずっと基準が高いのだろうなと思いつつ、


「私はあんまり……」


 と答えた。思っていたよりも、軽い感じの言い方になってしまい後悔する。どうしてこんなに、口が勝手に脚色を加えるのだろう。けれど鈴木さんは薄っすらと笑って、


「そっか」


 と言っただけだった。それで話は終わってしまい、下校する生徒達の声が遠くに聞こえるだけ。何か彼女に話しかけられるきっかけはないか、そう思っていたときだ


「あ」


 鈴木さんが気がついたように声を上げ、カバンを開けて中を見た。ノートや教科書の奥に、落ち着いた色のマフラーが見えた。彼女はしばらく中を探してから、


「借りた本忘れた。取ってくる」


 と言って昇降口の方へ走っていった。

 鈴木さんの言葉で、学校に図書室なんてものがあったことを思い出す。私は家とクラス、それに移動教室の間を行き来するだけで、自主的に校舎内を動き回ることはなかった。寒い布団の中に入ったとき、なるべく身体を伸ばしたくないのに似ていた。

 そんな私とは違い、みんな試験が終わってのんびりしたいのだろう。ここに立って東門の方を眺めていても、帰っていく生徒がいつもより少ない。あそこを歩いていく一人一人が、それぞれ人格を持って生きている。そんな当たり前のことが頭に浮かび、だけどそれが私を不安にさせる。

 あの人たちと私は違う。きっと違う。あの人たちの1人と、私の1人は、身体の大きさや重さは同じだけれど、価値が違う。動物や自動販売機は私にも同じように接してくれるけれど、人間はそうしてはくれない。生徒はもちろん、先生も、たぶん親も、私のことを迷惑だと思ってる。きっと私のことを……。


ブブブブブ


 そのとき、鞄の中で携帯が震えて、私の思考は断ち切られた。液晶を見ると、公衆電話と表示されている。


「……もしもし」


 おそるおそる電話に出ると、


「あ、可南子?」


 アカネさんだった。公衆電話ということは校外からだろうか。


「ごめん、いま昇降口の電話からなんだけど、急に親に帰ってこいって言われちゃってさ」


 今どき、昇降口にある古びた公衆電話を使う人がいたのか。そこからかけられた電話はは私をがっかりさせた。


「あ、そっか……。じゃあまた今度」

「うん、ほんとにゴメン」


 私は気にしないでと言って電話を切った。家の都合なら仕方ない。それよりも、鈴木さんにはなんと言おうか。彼女が戻ってくるまでに考えようと思っていたのに、その時間はなかった。


「ごめん、おまたせ」


 鈴木さんが戻ってきて私の横に立つ。


「……おかえり」


 笑ってそう言おうとしたけれど、上手く笑えなかった気がする。


「どうかした?」


 その証拠に、彼女はそんなふうに返してきた。


「あ、えっと、うん」


 ちっとも考えがまとまらないまま、私はアカネさんからの電話の内容を伝えた。誘っておいてごめんと謝ると、


「そう」


 特に驚くでもなく、残念がるでもなく、彼女は頷いた。


「それで、えっと、どうしようか? 2人で遊ぶ……?」


 さすがに、アカネさんが来ないからじゃあさようならというわけにはいかない。とは言え、鈴木さんと2人で間が持つのだろうか。それが何より心配だった。

 けれど鈴木さんはさも当然のように、


「お昼食べよ」


 と言ってきた。


「あの、えっと、私……」


 私とでいいのだろうか。そう聞きたいのだけれど、スマートな表現を探そうとして結局何も言えない。私の悪い癖だった。


「まだお腹すいてない?」


 それに比べて、シンプルだけど言いたいことをそのまま言う鈴木さんの言葉は分かりやすい。取り繕った感じがしなくて、むしろ好感が持てた。



***



 一緒にご飯を食べてから、私と鈴木さんは以前より親しくなった。食事を共にするというのは大切なことなんだ、と改めて思う。よくいるタイプの委員長でしかなかった私の中の鈴木さん像に他のことが加えられた。映画が好きなこと。1人っ子であること。数学が苦手であること。外食はけっこう利用するらしいこと。どれも些細なことではあったけれど、それが鈴木さんという人を知ることができる知識なら、他のどんなものにも代えられない気がした。


 学年末テストの後の1週間は自由登校期間だった。教師による授業はなく、課題用のプリントが配布される。提出の義務もない。1時間に1度ほど、交代で教師が見回りに来るほかはのんびりした空気だった。こういう雰囲気でなら、勉強も出来るんだけどな、と思う。大学はこういうふうだろうか。

 いつもの悪口グループは1人も来ていない。だから私は、安心してプリントに取り組むことが出来た。

 その週の終わり、放課後になると鈴木さんが私の席へ来て言った。


「橋本さん、明日ひま?」


 私は自分の席で、いや教室の中で話をするのが苦手だった。どうしても人目が気になってしまうのだ。


「あ、うん」


 鈴木さんはそれを察したのか、「帰りながら話そ」と言って自分の席からカバンを持ち上げた。


「映画見に行かない」


 歩き始めてすぐ、彼女はそう言った。断る理由はなかった。


「でも私あんまり詳しくないけど……」


 鈴木さんは映画が好きだと言っていたから、それが心配だった。


「いいの。橋本さんと遊びたいだけだから」


 彼女は斜め前を見ながらそう言った。その言葉がとても嬉しくて、その後何度も思い出してしまったことは誰にも言えない。




 翌日の日曜日。12時にターミナル駅の外で待ち合わせをした。少し春めいてきたせいか、改札口からたくさんの人が吐き出されてくる。

 そういえば、完全にプライベートで鈴木さんに会うのは初めてだった。最初会ったときはプリントを受け取りに、その次は試験が終わってからそのままだったから、どちらも学校生活の延長だった。


「おまたせ」


 後ろから声をかけられて振り返ると、私服姿の鈴木さんが立っていた。柔らかそうなダッフルコートにジーンズという、私と同じような格好だ。


「なんか格好が似てるね」


 私がそう言うと、彼女はふふ、と笑った。いつもより少しだけ柔らかい笑顔に目を奪われる。


「行こ」


 映画館は、歩いて5分ほどの建物の中にあった。


「お昼食べた?」


 ビルの前で鈴木さんが聞いた。昼は食べていなかったけれど、朝を少し遅めに食べてきた。そう答えると、


「じゃあ終わってからでいいね」


 と言って笑った。なんだろう、学校にいる鈴木さんと違う。なんだかとってもきれいに見える。とってもかわいく見える。

 もちろん、3学期は鈴木さんにとって楽しいどころか辛いばかりだったはずだ。……私のせいで。だから学校にいるより外にいるときの方が楽しそうに見えるのは当然なんだけど。


「……この2つ?」


 上映されているのは、ホラー物と恋愛物の2つだった。私はどちらも苦手だった。恋愛物はヒロインと比べて自分がみじめになる。ホラー物は安心できる現実世界があって初めて楽しめるのであって、いまの私には憂鬱なだけだった。

 なのに鈴木さんは


「こっちにする?」


 と言ってホラー映画のポスターを指差した。


「私、すごい苦手で……」

「じゃあこっち?」


 と言ってロマンス映画のポスターを指されても、


「そっちも苦手そうで……」


 としか言えない。鈴木さんは少し悩んだ後で、


「じゃあこっちにしよ」


 と言ってホラー映画の上演時間を確認した。ちょうどすぐだったらしく、窓口に並ぶ列は疎らで、すぐに私たちの順番になった。鈴木さんはさっさと2枚買ってしまい、


「怖かったら抱きついてもいいから」


 と冗談なのか本気なのか分からないことを言われ、チケットを手渡された。



 映画は怖かった。

 抱きついてもいいよと言われていなくても、彼女にしがみつかずに過ごすことは出来なかったに違いない。鈴木さんの二の腕辺りに顔を押し付けて、横目でチラチラとスクリーンを見ていた。

 だけど、怖いときにしがみつける相手がいるって、すごく幸せだ。ひょっとして、世の中の女性がホラーを好きなのは、怖いものを見ることで自分の隣にいる人の大切さを再認識できるからなんだろうか、などと考える。


「怖かったね、思ってたより」


 映画館が終わったあとで、鈴木さんがそう言った。


「だから言ったのに」


 私にいたっては、怖さの程度を判断できるほど見ていなかった。目を瞑っていた時間の方が長かっただろう。


「怖がりなんだね、橋本さん」


 鈴木さんが笑みを浮かべて言う。


「そうだよ、だから……」


 鈴木さんの手が伸びてきて、私の視界の上へ消えた。それから頭に小さな重さを感じた。彼女の手だった。


「ごめんね」


 そう言って、少しだけ手を動かした。同じくらいの身長の鈴木さんに頭を撫でられていると思うと恥ずかしかったけれど、不思議と安心できた。

 近くのファミレスで遅い昼食をとり、周りが混みだしてきた16時頃、鈴木さんは席を立った。


「そろそろ行こうか」


 あまりたくさん話をしたわけじゃないけれど、とても落ち着いた時間だった。もう少し一緒にいたい気もしたけれど、晩ご飯なんかの時間を考えれば、そろそろというタイミングではあった。

 会計を済ませ、外に出たところで鈴木さんが私を振り返って言った。


「あのね」


 その口調が少し改まった感じだったので、私は黙って次の言葉を待った。鈴木さんにしては珍しいくらい、間が空いた。


「私、4月から転校するの」

「えっ」


 頭を殴られたような衝撃、とはこういうことを言うのだろう。一瞬、聞き間違えただろうかと思った。そうであって欲しかった。


「転校?」


 けれど鈴木さんは、私の言葉にはっきりと頷いた。楽しかった気分は消え去り、私は次の言葉を継げなかった。

 学校でのことが原因だろうか。


「お父さんの会社が今度合併するんだって」


 そのため転勤になる人が一気に増えるらしい。鈴木さんの両親は同じ会社に勤めていて、単身赴任よりは家族で同じところへというのが両親の希望だったらしいと、彼女は言った。


「ごめん、言うのが遅くなって」


 そんな。もう鈴木さんには会えないのだろうか。


「もう、戻ってはこないの?」


 声が震えそうなのが、自分でも分かった。


「たぶん……」


 彼女はまた、小さく頭を動かした。

 合併後の企業がスムーズに動き出すまでは、転勤先にとどまることになると、両親は告げられたらしい。5年か10年か、そういう単位での話なのだそうだ。


「あ…っ?」


 鈴木さんにもう会えない。そう考えたら、いや、それだけでもう何も考えられなくなった。気がついたら、手の甲に水が落ちてきて、それが自分の涙だと気付くのに一瞬の間があった。


「ご、ごめ……」


 涙を拭おうとしてあげた手首が、鈴木さんに掴まれる。彼女はそのまま私に抱きついた。


「せっかく仲良くなれたのに」


 押し殺したような鈴木さんの声が耳に注がれる。いつもの抑揚のない声ではなくて、はっきりと感情が読み取れる声色だった。


「私も、そう思ったら……悲しくて……」


 涙が止まらない。人と別れることがこんなに悲しく感じられたことはなかった。頬を伝って流れた涙が、鈴木さんのコートに染みていく。私たちはしばらくの間、人目も忘れて抱き合ったままだった。

 身体を離すと、鈴木さんは濡れた目をこすって言った。


「見せたいものがあるの」


 そう言って、駅とは反対方向へ歩き出した。ゲームセンター、飲食店、不動産屋。それらを通り過ぎるにつれて人と建物の密度が低くなってくる。どこに行くつもりなのだろう。少し不安になったとき、鈴木さんは足を止めた。

 そこは駐車場だった。そして自動販売機。それから……。いずれにしても、彼女が見せたいものがそこにあるとは思えなかった。けれど鈴木さんは、駐車場の端のほうへ歩いていく。私は小走りに追いかける。


「これ」


 鈴木さんが立ち止まったのは、バイクの前だった。よくあるタイプの中型バイクだ。これが何だというのだろう。


「分かる……?」


 彼女の目が私を見る。


「え、どういうこと?」


 分からなかった。彼女が何を尋ねているのかが分からない。彼女はカバンの中から財布を取り出すと、カードを1枚引き抜いた。私はそれを受け取って目を通す。


「保険証……?」


 健康保険証だ。私も持っている。


「名前のところ見て」


 そう言われて名前を見る。そういえば、彼女の下の名前を覚えていなかった。そこに印字された名前は、


 鈴木茜


 すずき あか……ね……


「あかね……って読むの?」


 偶然だろうか。私はその名前を知っている。


「そうだよ」


 鈴木さんが困ったような顔で笑う。


「アカネさんと、同じ名前だ……」


 そう、同じ名前だ。それは間違いない。この前遊ぼうとしてた人だよ、と告げるべきだろうか。


「同じ名前じゃないよ」


 けれど鈴木さんは言った。少し駄々をこねるように。少し悲しそうに、はっきりと、こう言ったのだ。


「同じ人だよ」


 その時の私の気持ちを、なんと言い表せばいいのか分からない。


「え、う、うそ……」


 信じられない。だけどそんな嘘をつく理由は考えられないし、意味もない。鈴木さんはしばらく黙っていた。私もなんと言えばいいのか分からない。


「ジャージ、持ってきた?」


 言われて気がついた。アカネさんから借りっぱなしのジャージのズボン。それを返さなければいけないんだった。鈴木さんが引っ越すのなら、なおさら……


「あ、忘れちゃ…た……」


 そして、もっと大事なことに気がついた。そう、それを知っているのは私とアカネさん以外には、いないのだ。

 鈴木さんはカバンから銀色のキーを取り出すと、ハンドルのロックを外してエンジンをかけた。間違いない、これは鈴木さんのバイクなのだ。言われてみれば、アカネさんのバイクに似ている気もする。


「もう少しだけ、時間平気?」


 私が頷くと、彼女はシートの下にカバンを突っ込んでヘルメットをかぶり、バイクに跨った。


「乗って」


 そう言ってヘルメットを手渡される。


「う、うん」


 自分のカバンもしまいこみ、後ろのシートに跨る。アカネさんに乗せてもらったことがあったから、要領は覚えていた。低いエンジン音を響かせて駐車場を出ると、バイクは滑るように走り出した。

 20分ほど走って、鈴木さんは先ほどと似たような駐車場にバイクを止めた。少し先に高いビルがあった。


「あそこに上ろ」


 鈴木さんはそのビルを指差した。



 最上階に近いフロアは展望台だった。フロアの中心に飲食スペースがあり、その周りを360度歩けるようになっている。

 休日だけど半端な時間のせいか、人はそこまで多くない。


「夜だったらデートみたいだったんだけどね」


 鈴木さんはそう言って笑った。いまのセリフはなんか、アカネさん寄りだった。笑顔はやっぱり控えめで、鈴木さんのものだったけれど。


「鈴木さとアカネさんが同じ人だったなんて」

「ほんとにびっくりした」


 私がそう言うと、彼女は少し困ったように笑った。


「ごめん、最後まで気づかれないとは思わなかったんだ」


 そう言われてハッとした。いちばん親しくしてもらっている人のことを、私はその人と気づかず、別の人だと思っていたのだ。


「ご、ごめん、いま気づいたけどすごい失礼なことして……」

「ううん、メイクと髪形が変わると分からないからね」


 自分でもさ、と鈴木さんは続けた。


「メイクして髪巻いたあとで自分の顔見ると、誰これ、って思うもん」


 その言い方がおかしくて笑ってしまう。鈴木さんは本来、おしゃべりが上手な人なんだなと思う。


「でも、いまはアカネの話は」


 そうだ、いまはそんなことより……。

 鈴木さんが……。


「私のことだけ考えて」


 冗談とも思えない口ぶりで、鈴木さんが言った。


「う、うん」


 西に傾いた太陽が、彼女の顔をオレンジ色に照らす。逆光を受けて茶色く透ける前髪が、とてもきれいだった。


「私さ」


 遠くを見ていた目が私に向けられる。黒い瞳に見つめられて、顔が熱くなる。


「たぶんこっちの大学受けると思う」


 その言葉で、私は実感した。

 彼女はもうすぐいなくなってしまう。鈴木さんとアカネさん。私の高校生活で、いちばんの宝物。そう思うと、視界が滲んできた。

 だめだ、また……


「ごめ……っ」


 彼女は何も言わず、そのまま私を抱きしめた。その肩に顔を押し付けて私は泣いた。感情が抑え切れなくて、涙はどんどん溢れ、声を漏らして泣いた。鈴木さんの手が、私の頭を撫でた。けれどその手は震えていて、気がつけば鈴木さんの肩も震えていた。


「可南子……」

「う……うぅ……っ」


 唇が震える。声が出ないかもしれない。


「あ…ぁ…」

「あ…かね……っ」


 わななく唇では、それだけしか言えなかった。私は泣きに泣いた。周りの人たちにはさぞ迷惑だっただろう。物心ついてからの記憶の中で、あんなに泣いたことはなかった。あんなに悲しいこともなかった。

 大学を受けると言った鈴木さんは、最後に


「そしたら、また会お」


 と言って、私の手を握った。私は力いっぱいに、その手を握り返した。それがお別れの挨拶になった。

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