第8話

 それは、春のとある日だった。満開だったお堀沿いの桜も半分ほど散り、若々しい緑の葉が芽吹き始めている。


 俺は今、かび臭くて湿気ている狭いレジ裏で……店番をしている。店内は三年前から何一つ変わらない。相変わらずたくさんの古書が並んでいるだけだ。


 俺は文化構想学部に進学し、大学生になっていた。

 大学進学の時……母親は古本屋を継いでほしいと言った。だけれど、祖父は違った。「たかしの進みたい道に進め」――祖父は俺にそう言ってくれた。そのことに驚いたけれど、俺は既に自分の進みたい道を決めていたのだった。

 


 三年前のあの日、俺は店の大切な蔵書をある人に売ってしまったことを素直に謝った。どれだけ怒られるのか内心は恐怖だったけれど、祖父は全く俺を咎めなかった。それどころか、祝ってさえくれたのだ。「孝が生まれて初めて『商売』をした記念だ」などと言って。


 「孝……商売って何だと思う?」

いつになく優しい口調でこう聞かれた。俺は、その時ばかりは祖父の聞きたい答えが手に取るように分かったのだった。

「必要としている人の元に、役立ってほしいと心から願って物を渡すこと――」

祖父は、正しいとも誤っているとも言ってくれなかった。その代わりに、こう続けた。

「ワシは、昔から古本売りの稼業が嫌いだった。こんな古くさいもの継ぎたくなかったんだ。ワシの子供のころは、雑誌の未来予想図に『本の消滅』なんて言葉が嬉々として書かれていた。本屋なんて捨てて、もっと新しい仕事がしたかった。

 ――でも、そんなワシに本の良さを説いてくれた人たちがいたんじゃ。そして、ワシが開いた古本屋を愛してくれて、本の力を生かすために図書館まで建設してくれた、そんな情熱ある人たちがいた――だから、桜山書店は今もこの地にある」 


 桜山書店は、きっと今も昔も必要とする人のためにあるんだ。本には、人と人を繋げる力がある。その力を生かすのが、俺たちの仕事なんだ。

 だから、俺はずっとこの店を継いでいく――。このレジ裏で、山のようなたくさんの古書と日々を過ごそうと。

 

 結局、3年前のあの日……見知らぬ「王国」に飛ばされて以来、あの世界に行くことは出来なくなってしまった。あの異世界での経験は、既にまるで走馬灯であるかのように脳裏を流れる情景となってしまっていた。満天の星空を見届け、あの少女と共に何を果たしたのか――それは陽炎のようにぼやけた空想の一部。カタリナがあの後どうなったのか、あの世界がどうなったのか……俺はそれをどうしても思い出すことが叶わないのだ。

 ある時は、本当にただの夢だったんじゃないかと疑ったこともあった。けれど、壮麗な装幀が為されたあの分厚い本は、あれ以降忽然と姿を消し……俺の頬と掌には、昼間には形容できないような忘れられない感触が残った。

 それは、間違いなく現実だった。


 俺はあの時のことを、小説として纏め始めている。出会ってわずか数時間でお互いに心の内を晒し合えたカタリナという不思議な少女のこと、滅亡に瀕する王国のこと、その世界に俺をいざなった一冊の本のこと…………。

 こうして、ちょっとした合間にでもあの日のことを少しずつ文字に変えていく。それが、今俺にできる唯一の行為だ。そして、最後にはきっと彼女のことも、あの世界のことも懐かしの写真を見直したかのように思い出せる日がきっと来るだろう――。


 執筆しながら、俺はいつも一つのことを思い続ける。


 「文明トラベラー」の少女――カタリナは……今、どこにいるのだろうか?

 彼女の「死」から既に二年が経つ今……彼女はどの世界を旅しているのだろうか。

 



 

 ふと、入り口に人影が見えた。

 その影を見て、少しだけ驚いた。うちの店に女性の客が来るのは珍しい。普通、ほとんどが研究職の男性ばかりだというのに――。

 その人は、遠目でもはっきりわかるほどの美人だ。金色に輝く日本人離れした長い髪とすらりとした体躯が、それを際立てている。

 間違いない、俺が見間違えるはずがない。三年を経て、容姿は一層大人っぽくなったけれど、面影はあの時のまま変わってなどいないんだ――。


 「……いらっしゃいませ」

 俺はレジの前に立った彼女に、なんて事のない一言をかける。彼女は、日だまりを思わせる優しい微笑みを浮かべていた――。

 

 その腕の中に、一冊の『歴史書』を大切そうに握りしめながら。



 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界の古書店、トラベラーの記憶 国営紳士 @kokuei_sinsi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ