第2話
暗い……。どこまでも続く闇。前方も、後方も、左右も……永遠に「見えない」空間が続くだけ。どれほど広いのか、一片たりとも把握することが不可能な空間。
しかし、どこからともなく暗闇の向こう側から、騒がしい音がする。
人の歩く音、喋る声、普段とは違う音……。遠くで響く非日常な音が俺の耳を包み込んでいく。
ガバッ。俺は飛び上がるように起き上がった。暗闇が続くなんて当たり前だ、瞼を閉じてたんだから……でも、いつの間に俺は寝てしまったんだ?!
起き上がった勢いで分厚い本が落下し、俺の足に直撃する。
「いてぇ!!」
広辞苑より一回り大きな本の直撃を受け、ダメージを食らいつつもそれを拾い上げようとしゃがむ。
ん? 何かがおかしい。ウチの店はこんな床材じゃなかったはずだ……。古い店だから、木材を張り合わせたものだったはずなのに、今、俺の目の前にあるのは石張りの床だ。
ガヤガヤ、ガヤガヤ……。店の前から騒がしい音が聞こえる。ウチの店は、路地の裏手、閑静な場所にあるはずなのに……。
慌てて通りまで出て俺が見たもの……それは、明らかに東京の神保町ではなかった。
見たこともない異国風の服装を身にまとった人が次から次へと行きかう大通りが、店の目の前には広がっていた。人の合間を縫っていく荷馬車が、自動車のように平然と通り過ぎていく。石畳の道路の両隣には、レンガや石を組み合わせて作られた堅牢な建物が永遠と軒を連ね、そしてその背後には、高い尖塔が数本そびえているのだ。
ここは……どこなんだ……?
記憶があいまいだった。レジに座ってその後……確か睡魔に襲われたはずだ。そして、目覚めたらこの見知らぬ街に飛ばされていた。
いやいや、そんなはずがない。これは夢? いや夢じゃない。確かに俺は目が覚めている。寝ぼけながら羽田にまで行って飛行機に乗っちゃった? いやいや、ここは桜山書店にそっくりだ。床の材質が違うし、2階の居住スペースに行くための階段がなくなっていて、レジの機械がない。全体的にアンティークな雰囲気の店だが、どこかウチの店に似ている。こんな場所、海外にもありはしないはずだ
一呼吸おいて落ち着いて見れば、書架の本まですべて俺が読めない文字で書かれた本に入れ替わっている。
この現象はまさか、いや間違いなく。
――異世界転移?!
「き、キミはまさか……!! もしかして、店を開けてくれるのかね?!」
頭に布を巻いた異国風の男が、棒立ちしている俺に向かって話しかけてきた。言語が通じることに驚きだが、今はそれどころではない。
「え、ええ……いやまだわからないのですけど……」
「ほんとかね? 店主が急にいなくなってからずっとこの店は閉まっていたのだ。歴史書物を扱ってくれるお店は少ないというのに……。この『サァキレヤーマ書店』が復活するのは誠にありがたい! いやぁ若いの、ほんとに助かる!」
ターバンのおじさんは俺の手をガシリと握りしめるとぶんぶんと振り回した。いまいち状況を飲み込めない俺は為されるがままだ。ふと店の看板を見たが、文字は見たことがないものだった。
握りしめられた手を解放されたその時、通りの喧噪がより一層大きくなった。少し離れた場所に、誰かを囲っているかのような人の塊ができている。
「おお! 姫様が来てくださったか!!」
ターバンのおじさんは嬉々とした表情でそれを見つめていた。
「……姫様?」
「この国の姫様は大変聡明なお方で、文武ともに優れ、庶民想いで人気が非常に高いのですぞ。こうやって宮殿の職務の合間を縫っては街の方にまで足を運んでくださる。なんでも、次期国王候補とも言われておられるのだ!」
質素で細身の人物を乗せた逞しい白馬が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
彼女は、俺の中のお姫様のイメージとはかけ離れた人物で、どちらかというと騎士の娘みたいな雰囲気を醸し出していた。あくまでゲームや漫画でみたようなイメージでしかないのだけれど。
おじさんが深々とお辞儀をして、何人もの子供たちが嬉しそうに馬の周りに駆け寄る中、俺は一目そのお姫様の顔を見てみたいなんて思っていた。ただの興味本位だけれど、知らない世界のお姫様なんてどうしても気になってしまう。
馬上の彼女が、ふとこちらに顔を向けた。その瞬間、何かが俺の脳の中でうごめいた。この上品で凛とした顔立ち、金色の髪……間違いなくどこかで見たことがある……。
体を一瞬で電流が駆け巡る。俺は、気が付いた。間違いない、白馬の上の彼女は――。
あの時、本を買いに来た女の子だった。
俺は、驚きのあまり言葉を発することができなかった。周りの音が遮断され、思考が止まり、目が回る。
「あなたは、どうして……?」
彼女も、目を大きく見開いて驚きに満ち溢れた表情だ。しかし、まごついていた俺に比べて彼女の行動は速かった。
彼女は慣れた身のこなしで馬を降りると、素早く脇に下がった人々の間を悠々と通り、俺の目の前に立った。
「話は、聞かせてもらいます」
迷いがなく、精悍な顔つきだった。こんなにも真っ直ぐな女性を、俺は今まで誰一人見たことがないほどに。
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