2
戻った宿の外面に変わったところはなかった。れんが造りの二階建ての窓からは灯りがどこからも漏れていない。隣にも建物はあるのに、周りから無視されているかのようにぽつんと寂しく見える。
耳を澄ませる。中が荒らされているような音もない。エクセルよりも周囲への感覚が強いベルナが迷うことなくドアを開けたので、それは間違いないようだ。左腕が動かなくなり、どんどんと選ばれし者でなくなってきているだろうが、まだ大丈夫。
部屋に戻って灯りを点け、適当な椅子に座り、マントの下の左腕をさする。右手が当たっている感覚はあるが、ぴくりとも動かない。ベルナはそんな様子をちらりちらりと見ている。
エクセルだけだった。他の選ばれし者と違い、彼だけが体の一部、左腕のみ選ばれていた。効果はみんなと同じように全身へと及んでいるが、極端に言えば彼は左腕の付属物に過ぎない。
刺さっていた岩とともに現れたサーリアスを抜いたとき、みんなと違って左腕一本(彼以外は両腕を使っていた)だったというのが気にくわなかったのかどうかわからないが、とにかく剣を抜いたとき、そのように世界(レメリス)からただ一人告知された。
「レメリスはその左腕のみ選ぶ。その左腕をなくしたとき、また新たな者をレメリスは選ぶ。恐れよ少年。それは『一度きり』の左腕」
エクセルが勝手に名付けたのは『しるしの左腕』
このことを知っているのは同じ選ばれし者たちだけ。命を預け合う仲だったので、あらかじめ弱点は明かしておくべきだと思ったのだ。他の者には言ってはいない。
ある程度落ち着いたのでさすり終えると、次に恥ずかしい感情がどんどんとわき上がってきていた。恥ずかしさだった。先ほどはベルナに情けない姿を見せてしまったことに対する。そのためにすぐそこのベッドに座っている彼女に話しかけることもできず、顔も見られなくなる。
それにしても意外だったのは、あのときの彼女の反応だった。以前だとあのように情けないことを言うと、串焼き肉のときのように怒るか、素っ気ない感じで活を入れられたりしたものだが、まさかあのように優しく寄り添ってくれるとは思いもしなかった。
握ってくれた彼女の手は小さく、そして息が当たるくらいにまで近づいた顔が思い浮かぶ。顔立ちは三年前と同じく幼いままだと感じていたが、ああして見ると彼女なりに少女から歩き始めていた。
はっとしてごしごしと右手で顔を拭う。一体何を思い浮かべてしまって恥ずかしくなってしまっているのだろうと。
彼は女性を知らないわけではない。一人で旅に出ても最初は気持ちに整理がつかず、荒れていた時期もあった。今は幾分ましにはなっているが。
それに今思い浮かべたことを悟られてしまうと彼女はきっと気味悪がって怒るだろう。普段は負担が掛かるからと抑えている彼女の感覚だが、今、もしそれがエクセルに向けられているとすればすぐに気づかれてしまうかもしれない。よこしまなものだと断定されてしまって、どう言っても怒られてしまうだろう。
そのようにやや心臓の鼓動を速くしてしまっていると。
「エクセル」
いきなり彼女から呼びかけられてしまって、びくりとしてしまう。しかしここは平然を装って返事をしなければならない。
「ん、ん?」
顔を見なければならない。そうでなければきっと彼女は不機嫌になる。ぎゅっと髪を一握りしてから、視線を彼女の方へと向けた。いつの間にか彼女は体に合わせて仕立てられていた上等な乗馬用コートを脱ぎ、白いブラウス姿になっていた。
彼女は視線を下に落としていて、エクセルの視線には気づいていないらしい。
「いつもああいうことしてるの?」
揉め事の間に飛び込んでしまうことを言っている。今日は昼にケレルで異人と村人の間に入り、そして夜にここギレルでも間に入ってしまった。このように一日で二回もやってしまったのは新記録だった。長く滞在するため、なるべく無視しようといつも思い、思うのだが。
「……ああ」
「自分のこと、ばれるかもしれないし、ばらしちゃうかもしれないのに?」
「それで少しでも助かる人がいるなら」
「エクセルらしいよ。旅の途中、寄り道してまでも戦ったもんね。でも、だからこそエクセルはやっぱり勇者なんだよ」
どこか彼女は優しい。三年前とは何かが違う。エクセルは困惑するばかり。
「ありがとう」
「ごめん、我慢できなかった。エクセルの言うこと守れなくて」
エクセルは気づいた。これは彼女が抱いている「罪悪感」のせいなのだと。彼女は負い目を感じているから、このような雰囲気になっているのだとわかった。そうするとすべて納得がいく。
「わかる。恩のある人だ、なおさら」
それを言うならエクセルもだ。
「俺もまだまだだ。手を出すところだった」
「でも、それはエクセルがコランさんを守ろうとしたからで」
「ベルナ。本当にその人を守ろうと思ったら、耐えなきゃならないときもあるはずだ。俺が手を出そうとしてしまったのは、あの人を守ろうとしたわけじゃなく、ただ自分が怒ったからだ。自分を優先させたんだよ」
彼女はうつむいたままで。
「そう、かな。そうなの、かな」
短い間に衝撃が大きすぎたのだろう。ひどく疲れているようだった。仰向けでベッドに体を預け、小柄な体がやや沈み込む。エクセルから彼女の顔が見えなくなる。
「あたしももっと知らなきゃならないこといっぱいだなあ。竜刺姫(りゅうせきひめ)続けてみるって言っちゃったんだから」
エクセルは薄々感じていた疑問をそのまま口にした。
「やっぱり嫌だったのか?」
「まあね。そんな血筋でもないのに。でも、だからこそ人と違うことができるのかもしれないって、今は思える」
逃げたいと思ったことは何度もあっただろう。彼女は面倒なことを嫌う性格だった。少なくともエクセルはそう感じていた。戦いが終わったあとはとにかくゆっくりしたいと言っていた彼女だ。それが竜刺姫と呼ばれ自由がなくなったのだから。
エクセルは彼女を敬意とともに眩しく感じる。
「きっとプロテレイは良い国になる」
「何言ってんの。プロテレイだけじゃない。あたしはレメリス全部を良くしてやるわよ」
本当にエクセルの瞳には厳しくなる。逃げ続けてきた彼の瞳には。
「ああ、それはいいな、本当にいい」
「だからエクセル。できることがあったら力貸してよね」
「……あれば」
「あるよ、絶対。世界を旅してきたんだから」
過大評価だとエクセルは思った。目標のある旅をしてきたわけではないからだ。ただ彷徨い続けただけで何もしていない。ベルナの方がはるかに有意義な三年を過ごしてきている。
そんな彼女に貸せる力などどこにも持ってはいない。動かない左腕と汚れたマントに長い髪、人を不快にさせる瞳、日に焼かされ乾いた肌。唯一ライドが贈ってくれた剣だけがまだ見られるであろう自分にはと、彼は本心で思う。
「すいませーん」
窓の外から声がした。すうっと通る気持ちの良い声。二人そろって声の主を確かめると、やはりセブリだった。二階の二人に気づくと両手を振って自分の存在をアピールする。馬は置いてきたようで身一つだった。
「鍵掛かってるんで、そこに行ってもいいですかー?」
二人は怠け者同士だった。下に降りて扉の鍵を開けるのを面倒くさがった。窓を開けると、セブリは助走せずその場で飛び上がり、二階の窓のふちへと着地する。マントは広がり背中に月光を帯びていた。
「ありがとうございます」
部屋の中へと入った彼は、己のマントの端で着地したところを拭く。
「セブリがこういうことするようになったなんて、変わるもんだねー」
ベルナが感想を漏らすと、彼はやや恥ずかしそうに制帽のつばを指でなぞった。
「わざわざ開けていただくのは悪いですし。お二人面倒でしょう? へへ」
三年前の彼ならば絶対に開けさせていた。例え相手が年上や目上の者であろうと、己が正しいと思う道理をぶつけていた。それが今ではこのようになっているのだから、彼もまた自分の人生を生きている。
確かにこれは下品で本来良くないことだが、できてしまうようになったことがエクセルの心を打った。あの生真面目なセブリでいて欲しかったとも思うが。
「早かったんだ」
「ぱぱっと終わりましてね。大丈夫ですよ、ここの主人の方は明日の朝にでも戻ってこられます。相手の男もまあ、別に目的地があってすぐにそちらへと向かうそうですから、それで。ただ、主人の方は戻ってこられたとしても、この村で暮らすのは厳しいでしょうね。今回のことで村の人たちに素性を知られてしまいましたから」
ひどく表情を暗くするベルナ。そんな彼女にかける言葉をエクセルは見つけられない。どう言っても彼女の気持ちを楽にすることなどできない。
「あの方も戦いに巻き込まれた方ですが、戦災保証は国を超えるほどの規模であっても厳しいですからね……何より感情が許さない。自分たちを救ったエクセルさんですらこの扱いにできるんです、到底許せるはずがない」
静かな口調であったが、彼は確かに憤りを感じているようだった。マントの下で腕を組み、エクセルを見る瞳は月のように静かにそこにあり、これまでの仲間たちと違ってまたうれいている。
「本当の戦いはこれからですよ。エクセルさんはどうするつもりなんですか?」
すかさずベルナが、
「エクセルは」
「ロンロさんの考えです」
注意を受けたようになって彼女は口をつぐんだ。一日で何度同じことを言えば良いのかと面倒な気持ちが勝り始めていたので、彼女が言ってくれるならば楽だったが筋が通っているのはセブリだ。
ふうっと肺の中の空気を入れ替え、変わらぬ考えを言う。
「レメリスの剣(サーリアス)、俺はどこの国にもつかない。また世界の敵が現れたなら、俺はそれとだけ戦う」
「蛮者と呼ばれ続くとしてもですか?」
「ああ。歪なところはいっぱいある。でも俺は長い時と多くの人が犠牲になった今のレメリスを見続けたい」
セブリは聞き届け口角を上げた。
「強い人だなあ、本当に強い」
そうして、
「ベルナさんもそう思うでしょう?」
いきなり話を振られ、彼女はやや詰まって間を作り、
「そ、そうだね」
二人からそのように評価され、エクセルは内心照れるが、それを表に出すようなことはしない。表情を変えないよう努力し、小さな声で礼をする。
「ありがとう」
ぎゅっとセブリが制帽を深く被り直した。表情は柔らかいままであったが話が変わるとは、別に選ばれし者でなくともわかる。
「それで、何か聞いたことがあれば教えて欲しいことがあるんですけど……」
それはエクセルがまったく知らないことだった。
「くれぐれも内密にお願いしたいのですが、今、とある秘密結社を騎士警察が追っているのです。こちらでの名は『勇者の帰還』」
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