第4話
莉子が記憶している最後の光景といったら、それはもう酷いものだった。
遊園地のコーヒーカップに乗っているようにグルグルと三六〇度回転する視界。遠くに観覧車が見えるのはあまりに悪い冗談だった。そして、空まで続いているかのような人だかりに向かって、莉子とマシンは吸い込まれていく。そして、フェンスとウォールが莉子の視界を覆い尽くすや否や、一瞬にして彼女の全身に電気が駆け巡り、そして背骨の芯から鈍痛が襲った。ヘルメットの中で苦痛に喘ぐ自分自身の声を聞きながら、シケインのポールの方に向かってコロコロとタイヤが転がっていくのを見た。耐火性のレーシングスーツを着ていても耐えがたいほどの息苦しい熱気が莉子の身体に障った。
莉子は気が付いた。マシンが燃えているのだと。
彼女は転がり落ちるように、マシンのコックピットから降りると、ヨタヨタとした足取りで、燃え盛る機体から離れた。どうやら、辛うじて自分の足で歩けることが分かったのが不幸中の幸いだった。事態は莉子のマシンの自爆、それだけで済んだようだった。
莉子は、遠くで赤いフラッグが振られているのを見つけた。危険の発生により、予選のレースが中断されたことの合図だ。呆然と立ち尽くして、莉子はサーキットを見渡した。そこには、セナも、シューマッハも、アロンソもいなかった。本物のベッテルやフェルスタッペンは、チームのピットガレージから事態の顛末を見つめているに違いなかった。莉子と、アイドルマシンの身の丈に合わないワガママなタイムアタックは確かに自分だけの舞台だった。しかし、それはとても虚しい独り舞台だった。
サイレンを鳴らして、白地に赤をあしらったマシンが近づいてくる。何のことはない、莉子の大事を取る為の救急車だ。ヘルメットを取り、目だし帽姿のままで、救急車に手を挙げる。今になって、レーシングスーツの下がひんやりと冷たくなっているのを思い出す。とても気持ちが悪い。その上、とても情けない気持ちになる。
惨めな思いで、救急車の待つピットレーンの方に歩いていくと、グリッドガール姿のくるみの姿を見つけた。彼女は肌から赤みを全て奪われたような蒼ざめた顔をして、莉子の方を向いていた。けれども、瞳の焦点すらあっていない。
「見たくないものを見せてしまった」
そんな気がした。莉子は申し訳なさでいっぱいになり、頭を下げたまま救急車に乗り込んだ。
くるみだけではない。エディにも、ボレ・シティのスタッフにも、チームメイトのリオにも、そして、観客をはじめとした会場の全ての人に顔向けが出来ない。そんな思いが莉子の頬に涙を伝わせた。
「精神的に未熟な若手ドライバーは今まで散々見てきた。運転技術を伴わないチームに札束を連れてくるだけのペイドライバーも見てきた。けれども、こんなお馬鹿なドライバーは莉子、君が初めてだよ。リザーブドライバー? 論外さ! どうだい、おむつはもう取れたかい!?」
ふと我にかえると、エディが発狂するかのようにして、応急処置を終えた莉子に向かって捲し立てている光景が目に映った。たった今、ひどいセクハラを受けた気がする。
しかし、莉子は何も言い返せる立場になかった。炎上したマシンはとても一日などでは修復不可能で、ボレ・シティは、決勝レースではグリッドの最後列につけるリオ一人で迎えることが確定したようだった。結局、怪我らしい怪我は、全治一週間の打撲程度で、今日の夜には、ホテルに帰れることが出来る莉子とは大違いだ。チームディレクターであるエディも協会のトップから直々にこっぴどく叱責されたらしい。勿論、ボレ・シティのスポンサー陣からも。少なくとも、もう温厚なアニメ制作会社はフォーミュラカーのスポンサーであることに懲りて、二度とレーシングチームのスポンサーに手を出さないであろうことは火を見るよりも明らかだった。ご自慢の二次元アイドルをあんなにも、ぐしゃぐしゃでグロテスクな姿に変えてしまったのだから。
「君も、ボレ・シティも、今年のグランプリシリーズは終わったよ。尤も、来季があるかも分からないがね。少なくとも、君は自分のシートを自分で燃やしてしまったのだから、来季は自分でシートを見つけなければいけないよ……」
エディ教官は、教習者莉子に対して不可の烙印を突き付けた。莉子にもそれは当然の結果に思えた。莉子は病院のベッドの上で、親から叱責を受ける子どものように、何も言い返せずしゅんと肩を丸めて小さくなり続けるほか、なかった。
その姿を見たエディは、ふうと一つため息をつくと、莉子の耳元で諭すようにして、
「覚えておくがいいよ、君はチームを探す為とスポンサーを探す為、これから就職活動に奔走しなければならない。君と同世代の多くの日本の大学生がそうしているようにね。そのときに差し出す君の名刺は今日の予選の走りだ。尤も、それしか実績がないのだから、当たり前なのだけれどもね」
と、呟いた。莉子は黙って、彼の言葉に耳を傾けた。
「君の電話がなっているよ」
エディが病室のテレビの横に置いてあった莉子の電話を手渡した。ビデオ電話の着信だ、それもリオから。リオはホテルの中でもターバンを外さないようだった。本当に彼は、レーサーには似つかわしくないほど、敬虔な男である。
「莉子、君が無事みたいでほっとしたよ。本当に肝を冷やした。モニター越しに見るアタックがこんなにも恐ろしいものだとはね。しかし、俺もやっぱりレーサーだ。自分自身でステアリングを握れる方がよっぽど平静でいられるんだなと思った。だから明日は、君は心を潰す番だ。明日は本当にエキサイティングな一日になることが約束されているから。君の分まで頑張るよ」
リオは莉子が頷く間もなく、一方的に熱っぽく語り、そして、伝えたいメッセージを伝え終えると、すぐに電話を切った。これから、彼だけの時間に入り、明日の勝負に備えるのだろう。
テレビ電話越しの彼の姿を見届けた莉子とエディは一度、頓狂な顔をしながら顔を見合わせて、そして、同じタイミングでクスリと吹きだした。
「まだ、ボレ・シティのグランプリシーズンは終わっていないみたいですよ。チームディレクターが不在のレーシングチームなんて、話になりませんよ、さあ」
「そうだな、健闘を祈ろう、お互いにね」
エディは、右手をあげて、病室を去った。後姿なのに、彼の鳶色の瞳の輝きが確実に変わったことがはっきりと感じられた。
次の日、チケットを片手に莉子は、グランプリという名のサーカスの独特な雰囲気の中を彷徨っていた。鈴鹿は、昨日の雨が嘘のように、週末の行楽日和らしい晴天に見舞われていた。
子供の手を引き連れて歩く家族連れ。大量の風船を持ちながら、徘徊する着ぐるみ。そして、観覧車を臨んで向かい側に、勝負の舞台であるサーキットの難所だらけのコースが広がっていた。
「こうしてみると、本当にサーカスって、感じだなあ」
莉子はリオの等身大パネルを見つけると、パシャリとそれを撮った。フェルスタッペンやベッテルのパネルの周りには、本物というわけでもないのに、常に人だかりができている。なのに、この男のパネルには、しけた背中をした野良猫しかいなかった。その野良猫も、人だかりから、おこぼれをもらおうとすぐに姿を消した。
「不憫だなあ」
莉子が呟くと、遠くで手を振る人影が見えた。くるみだ。彼女は今年の日本グランプリ公式仕様のグリッドガールの衣装に身を包んでいた。
「改めてみると、ダンスが武器のアイドルグループみたいな衣装だな」と、莉子は感じた。何だか、今にも背伸びしたビートを刻みながら、踊りだしそうな雰囲気を纏っている。
しかし、彼女の今日の髪色は昨日出逢った時と同じ、その名前に似合った栗色で、変わらずふわふわとウェービーだった。その姿を見た莉子は、決まりの悪そうなはにかんだ笑みを浮かべながら、胸のあたりで小さく手を振った。
「本当に大丈夫なんですか?」
いろいろ、言いたいこと、主に謝りたいことがたくさんあったけれども、言い淀んでいるうちに、くるみから先に話しかけられてしまった。
「ただの打撲だって、ただ、全身だから、歩くのもちょっとぎこちない感じ。ロボットになっちゃったみたい」
「今ドキ、そんなぎこちなく動くロボットなんかいませんよ」
くるみが呆れたように笑うと、突然、カメラのフラッシュが焚かれた。莉子は、昨日のうちにいきなりインタビューされても困らないよう就活生のように、事前に用意していたコメントを諳んじようとしたが、すぐ隣で太陽のような笑顔をしながら、ポーズを取るくるみの姿を見て、自分自身の勘違いに気付いた。二、三枚、くるみの写真を撮り終えると、カメラを掲げたハイウエストの小太り男性は、満足そうにして、遠くに小さく見える別のグリッドガールの方に去っていった。
今日、この会場で仕事の合間を縫いながら、秘密のデートときめ込んでいるのは、むしろ、くるみの方であり、莉子自身は、チケットを手にして、この会場に訪れた十把一絡げの観客のうちの一人でしかないのだ。シンプルな無地のTシャツにジーンズといった他愛ない服装をした莉子と、レザー素材でビビッドカラーな水着のような衣装、あまりにも非日常感溢れる格好のくるみという対比がそれを如実に表現していた。
「今日、時間、大丈夫なの?」
莉子が尋ねると、
「この後、パドックってところへ行って、レーサーの人の前でグリッド順のパネルを持つことになっているんですけど、私の担当は莉子さんだったので、出番はなくて。レースの直前に一回抜けて、グリッドガール全員で撮る記念撮影があるんですけど、それまではすることがないので、他の子よりは時間があるんですよ」
そう、くるみに返答されてしまい莉子は、頬を掻くくらいのアクションしかできなかった。
「莉子さん、何か言いたげな顔をしているので、私から言っちゃいますけど、あの子のオーディション、落ちちゃいました。昨日、あのレースの後、すぐに連絡が入って……」
「……ごめん」
オーディションの結果と、莉子の予選の大クラッシュは何の因果関係もないが、莉子はそう謝らずにはいられなかった。
「私、フォーミュラカーのレースのこと、知らなくて、好きか、嫌いかも分からないって言いましたけど、昨日見て、思いました。私、苦手です。ああいうの」
莉子は自分自身の独りよがりで不甲斐ない走りのせいで、フォーミュラカーのファンになってくれたかもしれない一人の女性をみすみす取り逃してしまったのかと、責任の重さを感じた。くるみの熱心なアプローチによって、莉子自分はすっかり、アイドルたちの青春を描いたCGアニメに興味を抱き、明日からでも始められるゲームから彼女たちの世界に触れていこうと思っていたほどになっていたのとは、大違いの結果だった。
「結局、私がアニメオタクになっちゃうだけだったか。……あのさ、昨日のクラッシュを見て、あのアイドルの子まで嫌いになっちゃった?」
くるみの今日の髪型を見てから、ずっと彼女に対して、尋ねたかったことを、莉子は勇気を出して、ぶつけてみた。それは、ステアリングを握る時に必要とされる勇気とは、比べ物にならない小さなものに違いなかったが、莉子には、随分とそれが大層なもののように感じていた。
「うぬぼれないでください。昨日のタイムアタック……ですか? あれを見ても、やっぱり、ワガママなパフォーマンスなんて、全然、あの子っぽくないなって思っていましたもの、ずっと。あのですね……オーディションに落ちちゃった今でも、私の熱は微塵も揺らいでいませんよ。実は、あの子のオーディションは落ちちゃったんですけど、一人のディレクターさんが、ライバルキャラの子の役柄の方で、最終オーディションに進んでみないかって、言ってくれたんです。私、その子のことはワガママで、無駄に闘争的で、おまけにトラブルメーカーで、あんまり好きなキャラじゃなかったんですけど、そのときは、私自身が彼女を演じているイメージがすぐに浮かんで、迷わずに受けられたんです。どうしてでしょうかね?」
くるみは、カメラの前では、決して披露しないであろう、とても底意地の悪そうなスマイルを莉子に見せると、くるっとその場でターンをした。己のいかにも異性ウケしそうなプロポーションを見せつけるかの如くの振る舞い方。莉子は反射的にちょっとイラッとしそうになったが、彼女の行為が示すメッセージを悟ると、急に恥ずかしくなって、穴があったら入りたい気持ちになった。
「あっちに美味しいクレープ屋さんがあるんですって。仲良くなったグリッドガールの子が教えてくれたんですよ」
くるみがさっと莉子の手をとった。莉子は戸惑いながらも、くるみの後をついていく。
そんなに悪くないかもしれない。莉子は、色んな意味でそんな感情が芽生えた。手を引っ張られながらもとりあえず今、自分自身が前を向けていることに対して――。
そう表現するのが、まだ一番、適当かもしれない。
今日は一日、楽しもう。
まずはこれから、くるみと一緒にクレープを食べて、それから、くるみのアイドルアニメのことをいっぱい質問してみるのだ。そして、一緒にドラマチックな展開になることが約束されている今日のレースを見ようではないか。目が離せないポイントをくるみに教えてあげる。今度こそ、くるみのことをこの世界の魅力に気付いてもらうのだ。せっかく、サーキットが導いてくれた縁なのだから、このままでは、莉子は鈴鹿に顔向けできない。
「まだまだ未熟な私だけど、それは今、やらなくっちゃね。いつか、堂々とした態度で夢の舞台に帰る為にも」
莉子は心の中で誓った。ぐっとステアリングを離さないように力を入れて、くるみの掌を握り返した。
「あのさ」
悪戯っぽく笑いながら、莉子はくるみに話しかけた。
「やっぱり、履いていてよかったわ、おむつ。いやあ、やっぱりああいう極限状態だとさ、しょうがないんだよね。レーシングスーツもびしょびしょ。無我夢中っていうのは、ああいうことだよ。少しはアイドルを演じるうえで参考になった?」
「えー、何で今、そんなことを言うんですか、サイアク!」
くるみはそう叫んでいたけれども、莉子は、あえて聞こえないふりをして、引っ張られていた手より前にオーバーテイク。今度は、自分自身がくるみを引っ張る番であるとばかりに、莉子はくるみの手を取って、人だかりの中から、姿を現したクレープ屋さんに向かって、勢いよく駆け出していった。
リザーブドライバー @ideatakashi
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