第3話

「正気か、莉子!? 君はもう一度、先ほどのような走りをすれば、確実にQ2のラウンドを突破できる。この天気の中、インターミディエイトのタイヤで走るだなんて馬鹿げている。次のラウンドに進む際には同じタイヤを履かなくてはならないというルールまであるんだぞ。無謀すぎる。いいかい、この手の蛮勇は勇気とは言わないんだ。それとも、君には観覧車の向こうに虹がかかっているのが見えるのかい?」

 ボレ・シティのピットガレージにエディの悲痛な叫びが響き渡った。

 ヒステリックに喚き立てるエディに莉子は、何か職場でミスを犯した新入社員のように、何度も何度も頭を下げる。三、四人のピットクルーが、ジャッキで持ち上げられた莉子のマシンにウェットタイヤよりも溝の浅いインターミディエイトのタイヤを履かせている姿が莉子の伏した瞳からチラリと映った。マシンのボディ越しに笑いかけるアイドルは、少し困り笑いをしているようにも見えた。莉子は、ただのイラストでしかないとずっと思っていた痛マシンの萌えキャラに、一端の感情を見出すなんて、自分自身も先ほどのものの数十分でニワカのオタクになってしまったのだなと思った。

「しかし、この馬力不足のマシンで、天下の跳ね馬の前を走ることは叶わないでしょう。少なくとも、同条件なら。けれども、私も一端のドライバーですから、速いものを見ると、何としてもそれを抜き去りたくなるんです。それに約束しちゃったんですよ……この子と、って言っていいのか分からないんですが」

 頭を低く下げながら、頑として引かない莉子にとうとうエディは肩をすくめて、リオのマシンの方へ行ってしまった。やった、圧に負けず、莉子は道を譲らなかった。莉子の中で、もうレースは始まっているのだ。

 通常、レースの勝敗を左右するのに、ドライバーの腕と脚にかかる要素は二〇パーセントほどだと言われている。その二〇という一見、小さく思える数字の中に、物理的にも精神的にも信じられないレベルのプレッシャーが詰まっている。一瞬の判断力、勇気、そしてステアリングのきめ細やかさを音速の世界の中で、殆ど無力にも思えるドライバーたちに課すのだ。そして、残酷なことに勝利の女神がその二〇パーセントの要素として、彼らに試練を与えるタイミングは実に気まぐれなのだ。一見、曲がりきれそうな見晴らしの良い緩やかな左カーブにステアリングを切る瞬間、薄暗がりのトンネルから美しい港が視界に広がって来る瞬間、突然、意地悪な彼女はやって来る。

 残りの八〇パーセントの要素で、トップクラスのマシンに劣るプライベーターの三流マシンを駆ることを余儀なくされたドライバーは、この瞬間を心待ちにしていなければならないが、今回のグランプリはシーズンの最終戦。チャンピオンの座を虎視眈々と狙う一流ドライバーたちの集中力はかつてないほどに高まっているのが、目に見えて分かった。その起こりもしなさそうな女神の気まぐれに身を委ねるほど、莉子はおめでたくはなかった。

 ならば、その二〇パーセントの要素を三〇に、四〇に増やすまでである。莉子は、未だ止む気配を見せない雨模様の中、より通常のタイヤに近いインターミディエイトと呼ばれるタイヤで、鈴鹿を攻める決心をエディに伝えたのだった。それが、莉子のくるみと話しているときから、考えていた「提案」だった。

「莉子ちゃん、この路面の中、そのタイヤで行くのかい? 勇気があるなあ、気を付けてね」

 つい今しがた、タイムアタックラップを終え、一度、チームのピットガレージに帰る途中のフォーミュラグランプリの生き字引、セバスチャン・ベッテルが莉子に対して、気さくに声をかけてきた。

 彼は最後に自らのキャリアの出発点であるチームに帰って、ラストランを迎えるのをただ待つ身となっていた。それでも、トップチームより劣るマシンを操縦しながら、予選の上位に食い込んで、往年のファンたちの溜飲を下げることに成功していた。莉子はその興奮がまだ冷めやらぬ、サーキットの中を駆けることになる。

「レディには優しいって噂、本当なんですね。私が、ルイス・ハミルトンだったら、こんな態度は取らないんだろうなあ。もう来年乗るマシンにつける名前は決まっているんですか? このまま、引退するのが惜しくなると思いますよ」

 ベッテルは口笛を吹いた。そして、

「もしかしたら、Rikoになるかもね。後、シューズは綺麗にして待っておいてね。アイツのはごめんだけど、君のシャンパンなら是非、乾杯したいところだ」

 と、ウィンクをして、自チームのピットガレージへと帰って行った。

 莉子は両手では数え切れないほどに表彰台のてっぺんでシャンパンを浴びてきた男の後ろ姿を見届けると、側頭部に日の丸の模様をあしらったヘルメットを被り、ピットレーンまで出てきて雨に打たれているマシンの窮屈なコックピットに乗り込んだ。莉子でさえ、手狭に感じるコックピットには目が回ってしまうほどたくさんのボタンやスイッチ類が散りばめられている。よくもまあ、この体積の中で、カルロスのように大柄なアメリカ人ドライバーが乗り込んでいたものだと、莉子は感心したのも束の間。いよいよ、莉子のタイムアタックの番になった。

 現在のファステストラップは三年ぶりのチャンピオンの座を狙うマックス・フェルスタッペン。タイムは1.32.497。ポールポジションの為には、莉子は横殴りの雨で視界不良の中、彼女自身がイメージして描き出した彼の幻影を抜き去ることが求められる。

 ノロノロと指定のグリッドまでマシンを導く。莉子が馴らし走行をしていると、視界の端に莉子の名前を記したパネルを持ったくるみの姿が見えた。心配そうにして、瞳以外すっぽりヘルメットの中に隠した莉子の顔を覗き込もうとしている。

「未来の声優アイドルさん、担当アイドルのイメージ、私の走りで思い浮かべておいてね」

 そう囁いてあげたいけれども、今、そうすることは叶わない。莉子は親指を立てて、くるみの前を通り過ぎて行った。ピットレーンの先端まで来て、車を止めると、簡易な二色のシグナルと、緑の旗を持ったスタッフの姿が見えた。後続車のエンジンをふかす音に呼応するようにして、莉子の胸の鼓動も高鳴る。ステアリングを握る手はじんわりと汗でにじむ。エディたちチームスタッフが見守る中、鮮やかなLEDの緑が莉子の目に飛び込んだ。

 莉子の右足にかかったアクセルペダルを踏んだ。まるで、力強くも優しい足の蹴り上げで、愛馬に合図を送る馬術選手のように右足と両手で。そうして、マシンの機嫌を確かめる。

「今日のコイツはステアリング重視のスズカ・スペシャル仕様さ。パワーユニットこそ、ワークスチームの奴らのマシンよりも格落ちかもしれねえが、コーナリングのキレはお前さん好みに仕上げてやったぜ、エンジンの強さは、お前さんの心臓の強さでカバーできるってこった」

 無線から、メカニックが揚々とメッセージを送って来た。なるほど、インターミディエイトのタイヤを履いたドライブは、まるで氷の上を滑っているかのようなドライブに感じられるが、靴の刃はキチンと研がれているということか。

 雨の中の鈴鹿は普段よりも、コーナーが急に感じられる。タイムアタックの開始は最終コーナーを抜けてから。つまり、次の周からになり、今はマシンと己の身体に今日のコースを叩きこむ時間である。それなのに、まだギアは四速、五速、全速力とまではいかないのに、カーブに差し掛かる度、莉子はチキンレースを挑まれている気持ちになった。

 莉子がアウトコースいっぱいを駆る中、今まさにタイムアタック中のマシンが甲高いエキゾーストノートをあげながら、アタックに洒落こんでいた。コックピットの中の操縦者の年は確か莉子よりも二歳若い若干二十歳の新鋭ドライバーだったはずだ。

 彼は、オートマチックどころか、まともに手動運転の市販車に触れたこともないひ弱な現代っ子ドライバーであり、ドライビングに野性味がないなどと、普段、メディアに揶揄されているが、目と鼻の先を音速で駆け抜ける彼の姿を見たら、そんな風な感想は抱けないだろうと、莉子は感じた。年下でありながら、フォーミュラカーのキャリアでは莉子よりも格上の彼の走りは、正直、一瞬、気持ちがひきかけてしまうくらいに破滅的でありながら、創造的だった。こんなにも命知らずな行為をこれから、自分自身がしようとしているのかと、思えるくらいに。

 莉子はぶるぶると首を振った。これでも鍛えているつもりの首なのだけれども、やっぱり心もとない。しかし、この今の自分自身の全てをぶつけることに、むしろ、快感を覚えられるようでないと、この仕事は務まらないのだ。

 ホームスタンドの客が一斉に沸く。どうやら、先ほどの彼はなかなかの好タイムを叩きだしたようだった。

「面白くなってきたじゃない」

 シケインを抜けて、最終コーナーに入る。ここを曲がりきれば、もう後戻りはできない。

 莉子が歯を食いしばり、力いっぱいアクセルを踏み込んだ。唾を呑みこむと同時に、パワーユニットが熱気を、六つの気筒から慎ましく、かつ力強く噴射する。さあ、わずか一分半なのに、人生の走馬灯よりも濃密な時間が始まる。

 いきなり、己のスピードの衝撃で、マシンが左右に大きくガタガタと揺れ出した、タイヤも駄々をこねるように、暴れ出す。5Gもの重力が、莉子の細い身体に迫り来る壁のようになってぶちかましてきた。前の周回と同じマシンでの鈴鹿路とは思えない。まるで別物だ。

 莉子の目尻からの涙だけでなく、レーシングスーツのまたぐらの中からも、じんわりと何かがにじんだ。けれども、恥ずかしいなんて言っている暇もない。くるみに、

「ね、やっぱりおむつ必要だったでしょ」

 と、無線で教えてあげたくなる気持ちを振り払いながら、莉子の駆るマシンは時速三〇〇キロメートル近いスピードで第一コーナーに突っ込んでいった。コーナーのインギリギリを削るようにして、トップのフェルスタッペンの幻がコーナーを切り抜けていく、追いかけるように莉子もコースのインにマシンを寄せる。曲がる為に必要ギリギリのシフトダウンを見極め、ベタ踏みしていたアクセルを離し、そして、左手でクラッチパドルを引いた。

 エディたちが、そしてくるみが見つめるモニターには、若く未熟な莉子の心をそのまま映し出すようにして不安定なライン取りからコーナーに差し掛かるマシンの姿が映し出されていたが、彼らは何か無線で声をかけることを出来たとしても、指の先から、マシンに向かって神経伝達物質を注入することは、結局莉子にしかできないことも、彼らは知っていた。

「莉子、そのタイヤで縁石に乗り上げるような攻め方はご法度だ、命とりだからね。踏んだら、爆発する地雷だと思って走るんだ」

 エディは当たり障りのないアドバイスだけを莉子に送って、後は祈るようにして、モニターからの映像を眺めていた。

 水飛沫をあげるタイヤは、泣き喚く子どものように暴れ出した。遠心力に従って、インコースギリギリを削るように走っていたマシンは外へ外へと膨らんでいく。ヘルメット越しの景色の左端に紅白に彩られた外側の縁石が飛び込んできた。

「地雷……」

 莉子はマシンを抑えつけるつもりで、ステアリングを力いっぱい右に切った。ステアリングが重い。再び、莉子の掌に汗がにじんだ。目にもとまらぬスピードで駆け抜けるフォーミュラカーのタイヤを制御するということは、こんなにも重労働、肉体労働なのかと改めて、莉子は思い知らされた。まるで、固く閉ざされた金庫のハンドルを回している気持ちになる。

 ここでステアリングからも、アクセルペダルからもその身を全て離し、マシンから野放図に放たれるエネルギーに身も心も委ねてしまえば、どんなに楽になれるだろうか。そう心に悪魔が囁きかけた。

 ここは鈴鹿サーキット。

 世界最大のサーカスとも称されるロマンの髄を集めたエンターテイメントのクライマックスの舞台でありながら、多くの尊き命を無慈悲に奪った残酷極まりない戦場でもある。 その囁きに耳を傾けた途端、莉子の身体はバラバラに引き裂かれることを、莉子はすんでのところで思い出した。奥の歯がカタカタ震える。恐怖に凍てつきそうになりながらも莉子は顔を上げて、コーナーの向こうの直線を見据えた。フェルスタッペンの幻との差は、零コンマ何秒かほど縮まっているように思えた。

 ステアリングを握る手の汗、マシンの振動からバランスを取ろうとする筋肉の軋み。私はまだ生きている。そして、このまま前を向けば、イケる。

 ステアリングをまっすぐに整えて、莉子は地雷原からマシンを離した。ショッキングピンクの弾丸は、火花を散らしてコーナーを切り抜けていった。途端に鳴り響きだしたカメラフラッシュの音は皆、顔に砂煙を浴びながらも笑顔を欠片も崩さない光源のようなアイドルの為にあることを莉子は感じ取った。

「いいぞ、莉子! 君のアイドルがかつてこの地で叩きだした自身のレコードよりもいいペースで走っているぞ、それも、この雨の中でだ」

 興奮気味に無線から話しかけるエディに莉子は親指を立てて、答えた。

 息をつくのも束の間、マシンはすぐさまS字カーブに差し掛かる。スケート靴を履いたような走りで莉子やボレ・シティのチームスタッフをひやひやさせ続けるマシンは相変わらず、制御力を欠いていて、まるで危なっかしい夜の蝶のようだった。

 S字コーナーに入ると、莉子は、集中力を切らさないように、慎重にステアリングを左に右に傾けた。ステアリングは、マシンと対話する為に存在する。そして、ドライバーが、マシンに呼びかける言葉選びは、爪の先まで慎重なものでなくてはならない。少しでも厳しく諭しすぎると自暴自棄に、彼女はナイフを首元に突きつける。かといって、甘い言葉で制御することに手を抜くと、すぐによろめいて一寸先に破滅があることも知らずにどこまでも耳を貸さずに駆け出してしまうのだ。

「地雷はこの女の方だよ……」

 なんて、莉子は心の中で思いながらも、今、S字コーナーを舞うように切り抜けていく己のマシンは、会場にいるすべての人々の目にさぞ優美に映っているのだろうと、口元がにやけた。

「くるみ、自信を携えたワガママなパフォーマンスってのは、時にとても美しいものよ。くるみが、この女の子に、それを教えてあげればいいの……こんなふうにね!」

 刹那、無線を切って、莉子はコーナーを難なく切り抜けたマシンとくるみに向かって、叫んだ。気が付くと、フェルスタッペンの幻はもうすぐ目の前にいた。本当は、莉子一人で走っているはずなのに、スリップストリーム。フェルスタッペンのマシンから発生する乱気流の風を感じる。殆ど、テイル・トゥ・ノーズ。彼が不機嫌を露わにして、拳を振り上げるジェスチャーをしている姿まで見える気がした。

 さあ、ホイールとホイールを突き合わせて、デッドヒートの時間だ。

 全開アタック。速い方が前を走る。それが勝負の鉄則だ。

 そして、その舞台は冷たい雨が容赦なくドライバーに降り注いでくる鈴鹿だ。この瞬間だけ、チームの資金力の差など、マシンのパワーユニットの差など、関係ない。こういったレースでは、度胸があるドライバーのマシンの方が速い。そして、速いマシンが遅いマシンをぶち抜いていく、その当然の摂理があるだけなのだ。

 しかし前を行くのは、十代の頃から天才ドライバーの名を欲しいままにし、雨のレースでは抜群のドライビングテクニックを見せつけ、モータースポーツファンを魅了し続けてきたフェルスタッペン。そうやすやすと道は譲ってくれない。莉子が何度アタックを仕掛けてきても、巧みにその前をかわしていく。

「トップと百分の二秒差だぞ、莉子、グレイトだよ!」

 無線からエキサイトしたエディと落ち着かないチームスタッフの戸惑いともとれるどよめきが聞こえてくる。しかし、まだだ。こんなものじゃ物足りないのだ。

 莉子は日本でも辛うじてこの世界の地上波中継が続いていた幼き日、モータースポーツファンである父とともに見ていたその番組で、スーパーアグリという純国産の零細マシンに乗る佐藤琢磨が、資金力もマシンのポテンシャルも桁違いの王者マクラーレンのマシンを駆るチャンピオン、フェルナンド・アロンソのマシンを颯爽と抜き去っていくシーンに、心を奪われたことを思い出した。

 そして、その後、彼は幾度もの挫折を味わいながらも、遠く離れたアメリカの地で再び彼のマシンをぶち抜いて偉業を成し遂げた。それは、精神的に多感な時期を迎えていた莉子の人生の指針になるのに、十分すぎる出来事だった。

 フェルスタッペンをはじめ、今回の予選レースを走るドライバーは皆、ウェットウェザーのタイヤを履いている。そんな中で、莉子一人だけがより摩擦の少ないインターミディエイトのタイヤとともにコースを攻めている。これは安心、安全と引き換えに莉子が手にした武器であり、アドバンテージなのだ。

 零コンマ一秒を競い合うタイムアタックは、デグナーカーブと呼ばれる二つのカーブを抜けて、前回のタイムアタックで莉子が教官の声に従って、制限速度を守ったあのヘアピンカーブまでまっしぐらといったところになっていた。

「莉子、ローギアだ。さっきのようにいけば、切り抜けられる。最低速度でのコーナリングでは、フェルスタッペンのマシンとの性能の差は出てしまうかもしれないが、仕方ない。それでも、Q3のグリッドには確実に残れるタイムだ。入賞圏内グリッドからのスタートだぞ、快挙も快挙だよ」

 エディ教官様が、ここぞとばかりにアドバイスを送り続ける。彼の言葉は一言一句、全てが正しかった。フェルスタッペンも次に迫り来るスプーンカーブに備えて、速めにブレーキを踏み、次に備える為だけのコーナリングに入る。しかし、ここで繰り広げられる数々の名勝負を観客席から生で見てきた莉子には、ここが隠れたオーバーテイクポイントであることが分かっていた。

 次のカーブに備える為に、他のドライバーが減速し、大きく膨らんでヘアピンを曲がる中、インコースもインコースから割り込むようにパッシングするのだ。

 フェルスタッペンの幻が、道を譲るようにして、莉子の視界から見切れ、消えて行くのを感じ取った。エディが、リオが、チームスタッフが、ピットウォールガントリーのモニターに映る一人と一台、じゃじゃ馬コンビを前にして、「オーマイガッ」とばかりに、頭を抱えているのが、目に見えて浮かんだ。会場の観客たちが沸きあがるのも、肌で感じ取った。そして一人だけが、特別な決意を持った眼差しで、莉子とマシンの横顔を見つめているのだろうということも。

「今度、お返しに、この子が満員のスタンドで華麗に歌い、舞うところを私にも見させてよね」

 時速三〇〇キロメートルはすなわち、秒速にして、約二八メートル。一瞬でも片目を閉じるような真似などをしたらたちまち命とりになるので、莉子は心の中だけで呟き、ウィンクをした。

「莉子、忘れるんじゃない! このラウンドが終わっても、もう一度、Q3。予選の最終ラウンドがあるんだ。タイヤをこれ以上、摩耗させてはいけない。君はポールポジションにふさわしい走りをもう見せた。ならそれにふさわしい貫禄ある走りでホームストレートの観客たちの前に帰って来ようじゃないか」

 エディが懇願するように指示を繰り返した。しかし、ストレートの分は明らかに一流コンストラクターズたちの方にある。タイムアタックで、莉子が勝ち取ったアドバンテージなどあっという間に埋められてしまうだろう。

 そして、スプーンカーブを抜けると、もう度胸が物を言うコーナリングでのオーバーテイクポイントといえば、最後のシケインにしかない。それもあくまでも強いて挙げるとするならばの話である。

 確かにここで、後は無難にタイヤを、マシンを守る走りに徹すれば、決勝レースでは、前から数えた方が早い好位置にマシンを置くことが出来るだろう。けれども、そんな妥協、莉子には出来なかった。

 けたたましくも美しいエンジン音を轟かせながら、もうフェルスタッペンのマシンが、これからチャンピオンになりトロフィーと歴史に己の名を刻もうとアドレナリン全開で食らいついてくる若きドライバーたちのマシンが、そして、アタックをすることによって、その一瞬の勇気によって、このサーキットの中で永住することが許されたウィリアムズのマンセル、プロスト、デイモン・ヒルのマシンたちが、莉子を追う姿を、彼女はミラー越しに見てしまったのだ。

 さらには、ルノーのアロンソ、マクラーレンのハッキネン、メルセデスのハミルトンの姿も見える。ドリフトをかましながら、ブラバムのピケのマシンは一番後方から、集団に襲い掛かろうとしている。首を狩りに来るようにすぐ隣にマシンを並べた、真紅のフェラーリに身を包んだ皇帝ミハエル・シューマッハと、先ほどの優男っぽさなど見る影もない鬼のような形相をしたセバスチャン・ベッテルが何やら檄を飛ばしてくる。

「マシンが遅い、邪魔だ、王者に道を譲れ」

 莉子には、彼らがそう吠えているように思えた。

 集団を形成したマシンの群れは130Rと呼ばれる高速カーブに向かう西ストレートに差し掛かっていた。今年からのルール変更によって、ボタン一つでマシンに翼を与える秘密兵器DRSの使用がここでも許されるようになっていた。昇り勾配の西ストレートに入ると、マシンの集団は一斉にアクセルをフルスロットルにし、あるマシンはターボ全開に、また、より近代的な設計を施されたマシンはDRSのスイッチをオンにして、加速を図りだした。

 彼らの視線は、皆、一点に集中されていた。莉子の目にも、そのターゲットはぼんやりと蜃気楼のように浮かび始めた。赤と白が混じりあってピンク色の陽炎のように、それはぼやけて見えた。

 莉子もDRSのスイッチをオンに切り替え、無線のスイッチをオフにする。エディの悲鳴はプツリと途絶えた。エンジンを全開にした莉子のマシンは唸るように雄叫びをあげた。時速三〇〇キロメートル超のスピードにフロントウイングがガタガタと軋みだす。きっと今頃、アラブの航空王がマレーシアのチーム・ボレ・シティ・レーシング本部にクレームの電話を入れているに違いない。

「どうしたの、ガタガタ震えだしちゃって……急にこの最高の舞台が怖くなったの? 恥ずかしながら、私もよ。さあ、行くとこまで行こっ!」

 莉子は全身の力を込めて、アクセルペダルを踏み込んだ。唯一、前を走るマシンはシンプルで美しい紅白のカラーリング。もう莉子の瞳にもその姿ははっきりと映っていた。リアウイングのマルボロのロゴに、マシンの背には、ホタテ貝をあしらったイラストが。そして、誰もが知るノーズのホンダのエンブレムと栄光のカーナンバー1。アイルトン・セナ、音速の貴公子が駆るマシン、マクラーレンMP4/6だ。

 フォーミュラの世界に身を投じる者なら誰もが夢見るであろう瞬間、それは、彼のマシンを己と己の相棒が颯爽と抜き去る瞬間だ。その為に、ドライバーは日々、地道なトレーニングに身をやつし、そして、サーキットでは、命と魂を削って千分の一秒のタイムを縮めに果敢にアタックを繰り返すのだ。

 全ては、その一瞬を永遠のものにする為に。

 勾配を昇りきると130Rのカーブが視界に飛び込んでくる。莉子とマシンは紅白カラーのマシンに突っ込むようにして、130Rのインコースギリギリを切り裂きにかかった――。

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